第十一滴 憩いの場をも羽癒されず
朝日がヴィ・マナの残滓を輝かせる。目をしばたたかせ、緋呂はローザの肩を軽く揺すった。髪に隠れていた首がさらけ出される。凍傷は癒えていた。これも、クロスカリバーの熱気による効果なのだろうか。
少しして、ローザは身体を起こした。目の前の状況を把握できていないのか、愕然と身を固めた。
深呼吸の後、ようやくローザは口を開いた。その声色は痛々しいほど淡々としていた。
「やられたのか」
緋呂は何も言わず、頷くことだけをした。緋呂も受け入れられないのだ。会ったばかりの、けれど今までにないほどの温もりを感じた船長も、彼が愛したヴィ・マナも刹那の内にいなくなったということを。大切に思えそうなものが失われてしまったことを、緋呂の頭は現実であると享受しきれていなかった。
目を伏せる緋呂に、幼い声が届いた。
「見て見て、でっかい船」
外側に顔を覗かせる。元の世界では小学校に通っている程度の子供がいた。そんな子の移動範囲から、近くに街とか村とか社会的な共同体があると考えるのが自然だろう。実際、ヴィ・マナからは村が見えた。案内してもらおう。
早速、緋呂はヴィ・マナの残滓から身を乗り出し、地面に降り立った。それに続こうとするローザの手をとり、慎重に降ろす。たった一夜のはずなのに、足には何年もこの土の感触を味わっていないような違和感があった。
子供が近づいてくる。簡素な服装からして、田舎町の出身と思われる。きっと、あの村の住人だ。
「あの船ってお兄ちゃん達の?」
無邪気な質問に、緋呂は言葉を詰まらせた。あの船には相応しい人がいたのだ。そして、彼と共に朽ち果てた。口が裂けても、自分のものなどと言えなかった。だから緋呂は、
「僕達はお客さんなんだ。ちょっと事故に遭っちゃって、ここに墜ちちゃったんだ。それで頼みたいんだけど、君の住んでいる所まで案内してくれるかな。僕達、事故のせいで泊まろうにも泊まれなくてさ」
と、嘘をついた。それ以外、この場を切り抜ける方法を知らなかった。子供は納得したらしく、前へ走りながら手招きした。緋呂はローザの手を握り、共に子供の行く先へ歩いていった。
果たして、緋呂の予想は当たっていた。たどり着いた場所は、ヴィ・マナ越しに見たあの村だった。遠目からでも雰囲気の良さを感じられたが、空間の中に立つとひとしおだ。井戸の水は透明で、草木は青々と繁り、畑も活力が漲っていた。人々も、争いとは無縁の穏やかな気性を漂わせていた。
「ヒロ」
突然、ローザが呼びかけた。
「どうしたんだよ急に」
「それはこちらの台詞だ。泣いているぞ、お前」
目元に手を当てる。液体が指に染み込んだ。
「何でかな。何で、泣いているんだろうな」
飄々と言いたかったが、声は身体に抗うことなく震えていた。多分、こののどかさが羨ましかったのかもしれない。元の世界では決して触れ得なかったものばかりだから。富も権力も無い、けれど利害関係もそのための争いも無い風景を、そこで瑞乃と共に過ごすことを、ずっと求めていたのかもしれない。
身体が震える。ローザは緋呂の背中をさすった。そして、瑞乃のような声音で言った。
「落ち着いたら宿を探そう。私達は羽を休めるべきだ。飛ぶには、傷つきすぎたから」
わかった、と口だけ動かして緋呂は返事した。涼風が肌を滑らかに撫でる。七年ぶりに、風の通る心地を知った。
宿を見つけた後、着替えをタダでくれる代わりに、夜になるまでの間、緋呂とローザは地元の子供達の相手をすることになった。ヴィ・マナの残滓の前で出会ったあの子供から情報が伝播されていったのだろう、珍しい人達がいるとのことで、子供達は興味津々なのだ。緋呂は初めて異世界の遊びに触れることに、さながら文化研究者みたいな好奇心を抱いていた。が、実際は独楽回しやメンコといった、元の世界にもある遊びばかりだった。とはいえ、そもそも緋呂自身がこうして他人と遊ぶこと事態をしてこなかったので、日が暮れるまで楽しむことはできた。別れ際、友達がいたらこんな風だったのかもしれない、と柄にもなくセンチメンタルになった。誰に言い訳するでもないのに、心中で緋呂は夕焼けのせいにした。
宿に戻るや否や、ローザはベッドに寝転んだ。
「食事、摂らないのか」
妹を諭すような語気で言った。
「今日はいい。色々ありすぎたからな」
ローザの言葉は緋呂の心を代弁しているかのようだった。たった一夜の内に何もかもが起こりすぎた。異世界に迷い込み、ローザと出会い、エル王国の三銃士に名を連ねる二人と邂逅、ヴィ・マナファミリーの喪失。疲弊など安い表現でしかなかった。なので緋呂はローザの気持ちを汲み、一人で食事を済ませた。
再び自分達の部屋に入ると、既にローザは眠っていた。普段は凛々しいが、こうして寝顔を見ていると、歳相応の女の子なんだなと思う。本当に瑞乃そっくりだ。瑞乃は凛々しくはなかったが、歳の割には相手を理解する力に長けていた。わずか八年の人生を、あれだけ綺麗に生きられる人間は他にいない。
緋呂はローザの寝顔を目に焼きつけ、もう一つのベッドに入って瞼を下ろした。だが、一向に眠気は襲ってこない。あれだけの出来事があって、身体が睡眠を欲さないはずがない。それでなくとも、こんな日もある、と受け流すにはあまりに目が冴えていた。眠りを妨げるような要素など、何一つないというのに。
突然、脳裏にクロスカリバーがよぎる。あの力を使って、緋呂は自分の名前を失った。ローザが思い出させてくれたが、クロスカリバーは力の代償に血を、すなわち自分を構成する要素を一つずつ流させる。何が流れた。もう答えは出ていた。睡眠だ。生物に必ず必要とされる要素、生存に無くてはならない要素が、緋呂の中で致命的に欠如してしまっていたのだ。
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