第十滴 命の熱さ

 凍える冷気の中、緋呂は詠唱を呟いた。朱殷の剣が冷気に負けじと赤みを強くする。緋呂の手から熱が伝わってくる。だが、ヒュブリスの両手から放たれる冷気もまた、秒ごとにその強さを増していた。この戦い、一瞬の気迫の違いが明暗を分ける。ヒュブリスの隣で倒れているローザに目をやる。とにかく、迅速に事を済まさなければ。

「来ないんならこっちからいくッスよ」

 と、ヒュブリスは鋭利な氷柱を緋呂の頭上に作った。落下してくる氷柱をクロスカリバーで防ぐ。感情が昂った今なら、氷を使えるというのもあながちブラフとは言えないのか。

「ホラホラ、どうしたんスか。威勢だけッスか」

 ブリッジの底から氷柱が突き上げてきた。ほんの僅かな隙間風すら力に変えている。恐ろしい能力だ。しかし、緋呂は退くことをしなかった。むしろ、ヒュブリスが攻撃を繰り出すほどに、心臓の送り出す血という血が燃え滾っていた。この外道を倒して、あそこにいる瑞乃を助け出す。ただ、それだけの理由が緋呂の心に冷気をも凌ぐ火を灯していたのだ。

 氷柱が緋呂を串刺しにしようと飛び込む。

「死ね、流血騎!」

 ヒュブリスは勝利を信じて疑わなかっただろう。だが、相手が悪かった。緋呂は全ての氷柱をクロスカリバーで焼き溶かした。

「絶対零度のはずなのに。ノリノリのオレなのに。どうして氷が溶けるんスか!?」

 自分の中にあった絶対的な道理を覆されたヒュブリスは顔を歪めた。

「決まっているだろ」

 クロスカリバーの刀身に血管が浮き出る。冷気はすっかり熱気に掻き消されていた。

「これが、命の熱さなんだよ」

 緋呂はクロスカリバーを構え、ヒュブリスに向かって走り出した。背丈ほどもある剣が振り下ろされる。ヒュブリスは間一髪、直撃を避けたが、かすり傷から血を吸われていった。まるで、クロスカリバーが餌を貪るように。ローザを背後で庇う緋呂に対して、ヒュブリスは舌打ちした。

「流血騎、ムカつくッスね。スカルバーンのこと笑えねぇじゃないッスか。でも、やることやったし、結果オーライとするッス」

 そう言って氷柱でブリッジの底に穴を空け、姿を消した。クロスカリバーが血に戻る。一旦は事なきを得たが、緋呂に休む暇はなかった。別の非常事態に対処しなければならなかった。ローザの頭をさするとすかさず、緋呂は貨物輸送室まで走っていく。船内が揺れようが、構わず走った。

 案の定、船長達はウイルスに侵されて重篤状態になってしまっていた。緋呂は船長の耳元で叫ぶ。

「ヒュブリスは撤退しました。だからしっかりして。目を開けてくださいよ」

 すると、閉じていた船長の瞼がかすかに上がった。緋呂は安堵の笑みを禁じ得なかった。そんな緋呂を、船長はか細い声で叱った。

「バカ野郎、何してやがんだ。早くブリッジに行かねぇか。ヴィ・マナが泣いてんぞ」

「でも、」

「でももヘチマもねぇ。とっとと行かねぇか」

 その声には、会った時の活気など微塵も感じられなかった。死ぬ。自分の目の前で。それを考えただけで、緋呂の目から涙がこぼれてきた。

 船長は震える手を伸ばし、涙を拭った。

「泣くんじゃねぇよ。大金星上げといて、みっともねぇ」

「でも、俺のせいで船長は…」

 後悔を口にしようとした緋呂の頬に、弱々しい力が加わった。頬には、老人の手の甲があった。

「いいか、ヒロ。人間死ぬときゃ死ぬ。そん時、生きてる人間はどうすりゃいいか。んなもん簡単だ。やることやりゃいいんだよ。目の前にある、やんなきゃダメなことやり抜けよ。他の奴ぁどうか知らねぇが、死者(オレ)は生者(オメー)にそれを求めてる。だからよ、そんだけ泣いてくれるんならやってくれ。叶えてくれよ、オレのワガママ」

 言い終わると同時に、手の甲は甲板に落ちていった。緋呂は老人の手の甲に自分の手のひらを重ね、涙をこらえて頷いた。そして背を向け、今度はブリッジへ駆けていった。


 その様子を眺め、船長は呟いた。

「それでいいんだよ、ヒロ。これでオメーも立派な、ヴィ・マナファミリーだ」

 崩れゆくヴィ・マナの天井を見つめる。走馬灯が巡る。生まれ、空に憧れ、皆で空を泳いできた日々を思い出していた。正式な家族は最期まで持てなかったが、船長にはヴィ・マナファミリーが何よりも本物の家族だった。最後に、いい息子を持てた。最期に、愛した船に抱かれて逝ける。

「幸せモンだな、オレ」

 空という名の海を愛した男の身体はヴィ・マナの破片に抱かれ、その役目を全うしたのだった。


 ブリッジに着いた緋呂は操縦桿を握った。船の操縦は客船に乗る度に見せてもらっていた。その要領で動かせば、多少はマシな運転ができるはずだ。緋呂は半分の知識と、残り半分の勘でヴィ・マナを動かした。だが、ヒュブリスにブリッジの機械やエンジンを壊されたヴィ・マナは、限りなく自由落下に近い軌道で大地に滑っていった。もはやこれまでか。

 だが、未だ気を失ったままのローザを見つめ、緋呂は再び気を持ち直した。警報のベルがけたたましく鳴る。ヴィ・マナは空気抵抗に残り少ない身をも削られ、もはや浮いている方が奇跡に近かった。咄嗟に緋呂は叫んだ。

「瑞乃」

 直後、強烈な衝撃がヴィ・マナを襲った。ブリッジの壁が砕ける。すぐさまローザの安否を確かめる。幸い、破片はローザに当たらなかった。胸を撫で下ろした緋呂の目に、光が射し込んだ。外の景色が見える。そこには、村があった。小さく、のどかで、優しい村の姿が緋呂の瞳に映った。

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