第九滴 驟雪と灼熱

 メイデンの教えは、緋呂が想像していたよりもはるかに異世界の根本を担っていた。何千年もの平和を紡いだ規範として君臨し、ローザはその規範の中枢に位置する血の巫女という役目を受けていた。緋呂を避ける気持ちがよくわかる。流血を御法度とし、血の価値を何よりも重んじる異世界の人間にとって、血を武器に変えて戦った緋呂の姿は悪魔のように映っただろう。緋呂は自分の身に起きたことがいかに深刻か、その時ようやく思い知ったのだ。

 目を伏せていると、船長は言った。

「知らなかったんだ。仕方ないさ」

「でも、無知は言い訳になりません」

 悔しかった。妹の生き写しが傍にいるのに、力になるどころか無意識に苦しめる羽目になるなんて。捨て犬を助けられなかった時に感じた無力感を思い出す。自分は誰の力にもなれないのか。

 自責の念に駆られる緋呂の頭に、船長は大きな手を乗せた。

「今はもう知ってるだろ。これから気をつければいいんだよ」

 緋呂は船長の考えを新鮮だと思った。過去を見ることは散々してきた。いや、するしかなかった。瑞乃と歩いた景色も、共に感じた気持ちも、全て忘れたくなかったから。『これから』を見る余裕など、一握たりともなかった。

 感銘を受けている緋呂の足元が揺れた。振動で思わず膝をつく。船内の動きが止まった。急ブレーキをかけたのだ。顔を上げると、ブリッジの窓から別の飛行船、いや、むしろ戦闘機と呼ぶべき飛行物体が見えた。俯瞰すれば黒いブーメランのように映るであろうその飛行物体から、突如ロープが射出された。回避行動に入るが、ロープはヴィ・マナのブリッジ辺りに着けられた。ブリッジの演算機から紙が出てくる。すかさず船長が手に取り読み上げた。

「『汝の飛行船にて船内の姫と直接の交渉を申し込む。汝が身案ずるなら許諾すべし。エル大使ヒュブリスより』だと!?」

 エル王国が交渉という手段を用いるのも意外だったが、それ以上に驚いたのはローザの存在を察知していることだった。どうやって知ったのか、ある一点を除いて皆目見当もつかなかった。

 その横で、船長は緋呂とは異なる驚愕に身を震わせていた。

「ヒュブリスっつったら、あの驟雪のヒュブリスじゃねぇか。三銃士が何でこんなトコにいやがんだ!」

 三銃士と呼ばれるほどだから全員前線に立つ人間ばかりかと思っていたが、やはりその辺りの認識の違いも異世界ならではということか。緋呂はローザの存在認知に対する驚愕が強すぎて、さほど意外には感じられなかった。

 やむなく、ヴィ・マナは敵船に隣接した。エル側から足場が伸びる。元々貨物船だからだろうか、貨物を出し入れする場所から出迎えることになった。扉が上げられる。ヒュブリスが姿を現した。ヒュブリスは緋呂が想像していた恰好とは随分かけ離れていた。文面からは背広に身を包んだ役所仕事がよく似合う人間を連想させた。しかし、実際は白いメッシュのかかった金髪にラフな恰好をした、一言で表すなら『チャラ男』がそこにいた。

「どもッス。オレがエル三銃士で大使のヒュブリスッス。巷じゃあ驟雪のヒュブリスなんて呼ばれてるらしいッスけど、まぁ一つよろしく頼むッス」

 喋り方も軽薄で、声音も高い。緋呂は呆気に取られた。こんな奴が三銃士と恐れられているというのか。にわかには信じがたいことだった。と、開いた口の塞がらぬ緋呂にヒュブリスが顔を寄せた。

「アンタが噂の流血騎ッスか。まさかこんなガキとはねぇ。闘鬼のスカルバーンが聞いて呆れるっつうか何つうか」

 『ガキ』の所をやたらと強調してくるので、緋呂はヒュブリスを睨んだ。しかし、物怖じるどころか嘲笑うかのような瞳で返事をされた。

「他の人達はダメッスけど、アンタだけは特別に交渉の場に来てもいいッスよ。面白そうなんで、ね」

 ヒュブリスは緋呂の肩を叩き、軽快にその場を後にした。奴は緋呂が最も苦手とするタイプの人間だった。去った今も苛立ちが治まらない。

「そういやあいつ、他に人を連れてねぇな」

 船長が呟く。言われてみれば確かに不自然だ。普通、国家間の交渉事は一人だけに向かわせない。付き人だったりボディーガードだったり、そうした人間が必要になる。ただでさえアウェー側の土地に踏み込むのだから。でなければ、卑怯な国なら質に捕らえてでっち上げなんてことも起こりかねない。公平も何も無い。だが、ヒュブリスはたった一人で船内へやって来た。武装も見られない。現在、武力で異世界を震撼させている国家の重鎮にしては妙としか思えなかった。

 ともなれば、緋呂に真相を確かめに行く他の選択肢は無かった。

「船長、交渉はどこでやるんですか」

「知らねぇけど、まずは姫に顔見せしに行くはずだろ。姫にすら場所教えてねぇんだからよ」

 脱兎のごとく、緋呂はローザの部屋に向かった。ヒュブリスの思考が不透明な状態で二人きりにさせるのは危険すぎる。急いで辿り着かねば。

 だが、既に部屋はもぬけの殻だった。代わりに、扉の前で凍えながら倒れている船員がいた。

「何があったんですか」

 焦燥に駆られながら緋呂は叫ぶ。船員は寒さに手を震わせ、通路の奥を指さした。口が動く。『ブ、リ、ッ、ジ』と言っているようだった。最期の力を使い果たしたのか、船員は口を閉じたきり氷のように動かなくなった。虚を突く衝撃に緋呂は嘔吐しかけたが、どうにか踏みとどまった。この惨状を引き起こしたのが何なのか、いや、誰なのか言うまでもなかった。そいつとローザが今、同じ空間にいる。緋呂は電光石火の素早さでブリッジまで走った。そこには、ローザの首を締め上げているヒュブリスがいた。

「だから一緒に来た方がよかったのに。どんくさいッスねぇ、アンタ。いや、バカか。バカだわ。バカとしか言い様ないッスわ」

 くだらない憤りに身を縛られたばかりに、こんな初歩的なミスを犯すとは。ヒュブリスの嘲笑も正論と捉えざるを得なかった。とはいえ、ここで自責の念に追い立てられるのは同じ轍を踏むことに等しい。緋呂はすぐさま抵抗の姿勢をとった。

「剣も無しにどうやって戦うんスか」

 ヒュブリスに指摘されて緋呂はたじろいだ。考えてもみれば、クロスカリバーを出すには流血が必須だ。それさえもクロスカリバーの出現条件として十分なのかすら怪しい。そもそも、再びあんなことが起こる保証などない。何より、

「ま、アンタ血を使って剣作るらしいんでオレとは相性最悪ッスけどね。なんせオレ、氷使えるんで」

 片手を離し、メッシュのかかった部分を撫でた。すると、雪の結晶が通気口を通っていった。まるで生物のように。

「何をした」

 緋呂の問いを受け、ヒュブリスは通気管を親指でさした。

「見たところこの通気管、全部の部屋に通じてんスよね。で、今オレのウイルスちゃん達がばら撒かれた。吸ったら身体ン中から凍ってくの。この意味、わかる?」

 致死性の高いウイルスが船内全体に散布された。もはや、意味など考える必要もなかった。

「このために交渉に及んだわけか」

 緋呂が怒号を上げた。ヒュブリスはその様子を侮蔑するように、口角を上げた。

「卑怯だって言いたそうッスねぇ。でも戦いってそんなもんっしょ。勝てば官軍、確実に殺ってくのがセオリーなんスよ」

 狂気に満ちた下品な笑いがブリッジを埋め尽くす。その間にもローザの首は凍っていく。緋呂は血が沸騰するのを感じた。

「命が失われていって、お前はそんなに楽しいのか」

「そりゃそうっしょ。アンタら死ぬだけでオレの地位が確立されるんスからねぇ。役得ッスよや・く・と・く」

 堪忍袋の緒が切れた。

「じゃあ教えてやる。死ぬ側の、失う側の心を!」

「どうやって教えてくれるんスかねぇ。武器も無しで」

 血だ。血さえ流せばチャンスはある。もう一度クロスカリバーが生成されてくれるかはわからない。それに、奴は自分との相性が最悪だと言った。だが、ローザに触れた手から凍結していった所を見ると恐らく、体内の熱を奪って凍らせているはず。雪のウイルスの症状も同じ理屈だろう。つまりブラフだ。焦ってローザを助けようと近づいたところを凍らせる、そういう魂胆なのだろう。

 緋呂は自らの推理を信じ、手を噛んだ。犬歯の食い込んだ部分から血が流れる。頼む、出てくれ、クロスカリバー。

──血を流す覚悟は出来たか?

 応えてくれた。緋呂の頬は緩んだ。そして、決意を込めて言った。

「とっくにな」

 血が朱殷の剣へと変わっていく。ヒュブリスは目を見開き、ローザを投げ捨てた。

「ちょっとはやるって訳ッスか。いいッスねぇ。ぶっ潰したくなったッスよ、アンタを!」

 興奮したヒュブリスの手から冷気が漏れ出す。きっと、感情の昂りに伴い奪える熱が増すのだ。ともあれ、一秒でも早くこいつを倒さねば。皆が死ぬ前に。

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