第八滴 Sight of Rosa─二人のクジョウ─
クジョウマサヨシの上空に、見たこともない巨大な鳥が現れた。得体の知れない存在に、ローザは身構える。その様子を見てか、クジョウマサヨシは造られた鳥を指さして説明した。
「あれは飛行船ヴィ・マナ。空を飛ぶ船だ」
ローザがフネという単語を解読するには時間を要した。確か、ボウエキなるものをするために使われる、人が乗れる魚のことだったように思う。クジョウマサヨシはボウエキをする人間なのだろうか。
「ショウニン、の集まりがどうして私を勧誘する」
ローザの推理をおかしいと思ったのか、クジョウマサヨシは吹き出して答えた。
「船と言っても貿易目的ではない。移動に使う。各国との連携を強めるため、そしてメシアを捜すため」
また、聞いたことのない単語が飛び出た。若者言葉を使いそうな風体ではない。仮に別の国の人間だとしても、何千年と言語の統一された状態の続いたこの世界で、いまさら新語が誕生するとは考えづらかった。ローザはクジョウマサヨシの正体が気になって仕方なかった。
「何者だ、お前。それにメシアとは何だ」
クジョウマサヨシは淡々と言った。
「君の聞きたい風に言うなら、私はこの世界の人間ではない。そして、メシアとは世界を救う者のこと。言わば、生ける神だよ」
息を呑んだ。そこにいるのは異世界の人物で、この世界に神がいるのを確信している。あり得ないはずの情報を連発されて、ローザの脳内は混乱に満ちていた。
「戸惑うのも無理はない。ともかく、続きはヴィ・マナで話そう」
クジョウマサヨシはローザの手を取り、吊るされた梯子に足をかけた。年齢に見合わぬほど易々と昇り、甲板に立つ。招かれるまま進むと、クジョウマサヨシは一室の前で止まった。扉が開かれる。ベッドも鏡も無い空き部屋だった。ここで話をするのか。
「私は空白が好きでね。不服だとは思うが、話はこの部屋でさせてもらう」
驚きはしたものの、特に不満はなかったのでローザはそのまま部屋に入った。自室よりも四隅の広さを感じる。空間の奥行きと共に、どこか寂しさがあった。扉を閉めると早速、クジョウマサヨシは話をする体勢に入った。
「私は元の世界で少し、興味深いことをしていてね。死後の世界についての研究をしていたんだ」
ローザはそれを真っ向から否定した。メイデンの教えでは、生命は自然の中で完結するものだからだ。血の巫女は生命の一部を受け取り、人にその生命の記憶の代弁者として語り継いでいく。つまり、嘘や偽りのない世界を実現するためには血の巫女が欠かせないのだ。だからこそ、死後の世界を認める訳にはいかなかった。メイデンの教えと矛盾しているから。
「懐疑的になる気持ちはわかる。君達の世界ではメイデンの教えが絶対だからね。だが、私の世界は違う。様々な神がいて、様々な教えがある。私はあくまで、その一つを実践していたに過ぎない」
信じられないことだった。無闇やたらに多い思想は破滅を生むだけだと、母や祖母は口酸っぱく言っていた。実際、メイデンの教えが広まるまではこの世界も争乱が絶えなかったらしい。異世界の人々はそのことを理解できているのだろうか。ローザの眉間に力が入る。
「それは争いを生むだけだと言いたいのかな。その通り。私の世界では信じるものの違いで誰もが争い、誰もが尊厳を奪い合う。そんなことを何千年と繰り返している。それでも尚、私の世界ではそれを『多様性』として称賛している。馬鹿げた話だ」
まるで異なる時代背景を前に、ローザは当惑を通り越して疑念を抱いていた。この男は本当に自分を迎え入れる気があるのか、と。
「お前は何を言いたいんだ」
「この世界の未来を暗示しているとは思わないか」
淡々と、かつ興奮気味にクジョウマサヨシは続けた。
「エル王国はメイデンの教えという従来の規範を侵した。私が知る限り、その後、待ち受けているのは無秩序な獣の世界だ。私はね、歴史書を読む度に辟易するんだよ。人はどうして順調に獣の世界へ足を踏み入れようとするのか、とね。人は一つの規範の下に在るべきなんだ。それを実現するために私は国を繋ぎ、合衆連盟を作った」
言わんとすることがわかってきた。
「つまり、広告塔になれと」
「いいや違う」
クジョウマサヨシは食い入るように言った。空き部屋に音が響く。
「求心力、と呼ぶべきだ。メシアを歓迎するための準備、メシアと我々との架け橋に君が必要なんだ。君にとっても嫌な話ではないだろう。メイデンの教えを守れるのだから」
クジョウマサヨシの話術は見事だった。理念の相違を最初に提示され、その上でこちらに理解を示し必要性を説く。断る理由が無かった。
「改めて、ここを君の家としたい。構わないね?」
ローザは迷いなく頷いた。薄い影の中で、白髪が際立って見えた。この男なら世界を正常に戻してくれる、そう予感させられた。
あれから一年が経った。ある日、合衆連盟本部にメシアの出現告知が届いた。メシアの捜索は本部のどこかにあると言われる『神託の祠』での探知を基本とする。今回、選ばれた地はメイデン王国跡地だった。ローザは躊躇いなく志願した。それを聞いたクジョウマサヨシは見たこともない形相で拒んだ。だが、ローザは我慢ならなかった。
そこでローザはヴィ・マナのクルーに、内緒で連れて行ってもらうよう頼んだ。彼らも渋りはしたものの、頭を下げると慌てて承諾してくれた。途中、護衛を提案されたが、ローザは断った。自分のワガママに、クルーの人間を必要以上に巻き込ませたくなかったのだ。
故郷に降り立つ。懐かしい風の匂い、木々の囁き。その時、様々な感情が怒涛の勢いで押し寄せてきた。ローザは身体を動かせなかった。これがいけなかった。背後から麻袋を被せられ、二人の男に捕らえられてしまった。会話の内容からして、恐らくエル王国の傭兵だろう。彼らにしてみれば、餌が銃口の前でおとなしく待っていてくれたようなものだったはずだ。自分を愚かしく思った。皆が生かしてくれた命を、こうも呆気なく終わらせてしまうのか。
次の瞬間、疾風がローザを抱きかかえた。全く異なる男の腕の感触。兄のものと酷似していた。洞穴の中で麻袋を外される。服装は見慣れなかったが、姿は間違いなく兄だった。兄が生きていた。本気でそう思った。だが、すぐに違うとわかった。その男はローザをミズノと呼んだ。ローザはひどく落胆した。兄ではなかったのか。
その男は自らをクジョウヒロと名乗った。クジョウマサヨシとよく似た名前だ。紛らわしいので、ヒロと呼ぶことにしよう。
そう思った矢先、ヒロは突然頭を押さえて跪いた。ローザを妹と錯覚している。一歩間違えれば自分もああなりかねないと思うと、その様子が怖くてたまらなかった。恐怖に突き動かされ、ヒロの頭を叩く。すると、ヒロは我に返った。胸を撫で下ろしたローザは、彼もまた家族にただならぬ感情があることを察した。でなければ、兄であることを強調しながら、あそこまで取り乱すことがあるだろうか。ローザはヒロに、自分と同質の傷痕を感じ取った。
ヒロの傷痕を思えば自然と、身の上を話したくなった。押しつけがましいだろうが、共有したかったのだ。この悲しみを、この虚無感を。そうして話す中でわかったことがある。ヒロは本当に兄と似ている。感情がすぐ顔に出るところや、根の優しさが窺える裏表の無い対応、全てが兄そのものだった。頬が緩む。
だが、穏やかな時間は爆炎のごとく、唐突に断ち切られた。深紅の鎧を着た骸骨が白銀の剣を持って、ヒロの背後に立っていた。合衆連盟本部で聞いたことのあるエル三銃士の一人、闘鬼のスカルバーンの容貌と合致していた。あの日のことが甦る。どうか死なないで。
「ヒロ、危ない」
叫びは届かなかった。剣にヒロの胸は貫かれ、血が飛散した。また、人が死んだ。今度は目の前で、兄と瓜二つの人間が。運命は残酷だ。真っ当に生きることすら許してくれない。洞穴の闇が一層深く見えた。この闇に身体が溶け出しそうだった。いや、溶けることなら溶けてほしかった。痛みも、悲しみもなく。
絶望の二文字が覆い尽くす、まさにその時だった。ヒロの右手に血が集い、一つの剣となった。刹那、ヒロは息を吹き返し、スカルバーンを退けた。戦闘の内容はあまり覚えていない。ただ、ヒロが自分の名前を忘れた時、身に刻まざるを得なかったのだ。助かったことへの安堵と、血──生命の記憶を糧に戦うヒロへの畏怖を。
そんな矛盾が、ローザは心苦しくて仕方なかった。ヒロに兄の影を感じずにはいられないのに、当のヒロは存在そのものがメイデンの教えの何もかもを否定している。いっそ、離れられたなら。それなら、こんな矛盾など無かったことにできるというのに。だから、わざと冷たく努めた。そうすればきっと、目の前から消えてくれるから。目の前から消えてくれたなら、記憶からも消せたはずなのに。けれど、ヒロは着いて来ることを選んだ。拒める訳ないじゃないか。その顔で、その声で、そんなことを言われたら。
そうして今、部屋の片隅で後悔している。会わなければどれほど楽だっただろうか、と。
白い天井を見上げていると、突然船が揺れた。急ブレーキをかけた時のものだ。様子がおかしいとわかったのは、部屋の扉を開けた船員の報告を聞いた時だった。
「エルの飛行船からローザ姫と直接交渉に及びたいとの電報が」
「船長は誰だ?」
「三銃士の一人、驟雪のヒュブリスです!」
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