第七滴 Sight of Rosa─崩壊と遭遇─
空を漂う飛行船の一室で、ローザは部屋の隅に座っていた。頭上に流れる雲を眺める気にもなれず、薄ぼんやりとした影に視線を落とした。原型を留めていないほどに汚れたドレスに、返り血が付いていた。触れようとする自分の手を押さえる。代わりに、自分を助けた男のことを思い出した。
ヒロ。血を剣に変えて戦う男。存在がメイデンの教えに背いている。だが、奴は驚くほど兄に似ていた。それに助けてくれた恩もある。思わず気を許しそうになる。この血に触れてあの男の記憶を覗けば、間違いなく心から許してしまうだろう。しかし、教えは教えだ。守らなくては。そうでなくては、メイデンの教えがこの世界から本当に消えてしまう。あの日のように。家族も、国も消えたあの日のように。
王国の紋章が刻まれた祭壇の上、二人の女が神官を挟んで座していた。神官は大人びた方の女の前にしゃがみ、盃を置く。
「王妃ローラ、あなたはその血を娘に継がせることを先祖の血脈に誓うか」
ローラは頷き、手を差し出した。神官は右手に持っていた刃物でローラの手首を切る。柔肌から血が流れた。盃に一滴、また一滴落ちる。だが、ローラは顔一つ歪ませはしなかった。これは儀式なのだと、先祖代々行われてきたしきたりなのだと、納得しきっていたからだろう。
盃が少女の前に運ばれた。
「王女ローザ、あなたはこの血を母より継ぐことを後世の血脈に誓うか」
ローザは神官の持つ盃を見つめた。臭いが漂う。かつて嗅いだことの無い異臭に、胸に濁った情が渦巻くのを感じた。だが、ローザの視線は盃から離れることをできなかった。蠱惑とはこのことを言うのだろうと、ローザは思った。
盃が近づく。飲まねば血の巫女継承の儀式は成立しない。頭では理解していても、ローザは手が動かなかった。心臓の拍動は純白の密室に轟く。額から汗が吹き出る。目は焦点を失い、呼吸する空気は肺の中で沈殿しそうなほど重苦しかった。ローザの様子を見て、神官はローラに何か言う。直後、ローラはローザの傍に寄り、背中をさすった。その顔にローザを咎める色は欠片ほども無かった。
自室に戻り、ローザはベッドの上で膝を抱えていた。ため息をつく。血の巫女継承の儀式は失敗した。ローザが母の血を飲まなかったばかりに。ローラは娘を責めることをしなかったが、ローザにしてみれば、それが余計に心苦しかった。いくら流血がメイデンの教えに反するとはいえ、継承の儀式での流血ぐらいは堪えねばならなかったのだ。
ローザはベッドから離れ、隣の鏡の前に立つ。自分の姿がどうしようもなく憎かった。母にしても苦しい事だったろうに。父の死後、女手一つで育ててくれた。恩義を裏切るような自分の行為を、許せるはずもなかった。
乾いた音が聞こえた。ローザはドアの方を向く。四拍子に沿ったノックで、誰かわかった。兄のアドラだ。ローザの了承を受けて、アドラが部屋の中に入る。ローザはどうして自室に来たのか尋ねた。アドラの部屋は下の階に続く階段を挟んで、ローザの部屋から二十メートルの間隔がある。ということは、何か用事が無ければわざわざ訪れないはずである。
「母さんから聞いた。儀式のこと。気に病んでないか心配だったんだ。抱え込みがちだから、ローザは」
目を伏せ、そう、とだけ返事した。やはり、母も気にしていたのだろう。ローザは罪の意識を募らせた。
大理石を踏む音がする。鏡を見ると、アドラがローザの背後に来ていた。アドラはローザを抱きしめて言った。
「つらかっただろう。メイデンの教えを守らせておいて、いきなり血を飲めだなんて。だから自分を責めなくていい。ローザはメイデンの教えを守っただけだから」
誰を咎めるでもない、ただローザの傷心に寄り添うような声音だった。それからは何も言わず、ただローザを抱きしめ続けた。ローザはアドラの手に自分の手を置いて応えた。アドラはローザが求めているものをそのまま与えてくれている。重苦しくて仕方なかったローザの心は、幾分軽くなっていた。
胸中の苦しさが消えるのと同時にアドラは腕を放し、ローザの目線に合わせてしゃがんだ。
「落ち着いたか?」
ローザは微笑み、静かに頷いた。
刹那、断末魔が城内を駆け巡った。声の甲高さからして、女性なのは間違いない。それと、断末魔の大きさは事の深刻さを物語っていた。
アドラは即座に立ち上がり、部屋を出た。ローザも何拍か遅れてアドラに着いて行った。階段を昇る。息が上がり、ローザは階段を昇りきった所で動けなくなった。目だけでアドラの背中を追う。
すると、アドラが母の部屋で止まった。膝から崩れ落ち、絶叫していた。母のことを何度も呼ぶ。そして、母がいるはずの部屋から得体の知れない人型の物体が現れた。その物体の持つ剣から、血が滴る。ローザはその光景から、何が起きたのか察した。
突然、世界が歪んで見えた。何もかもが暗く映った。母が死んだ。その事実に耐えられなかった。ローザは踞り、悲鳴を上げた。血という血がこの身体から無くなったと錯覚するほど、脳内が真っ白になった。体温は失われていく。可能ならば、悪夢であってほしかった。だが、顔を上げた先にいる物体の存在が逃避さえも許してはくれなかった。
「何で、こんな酷いことをするの」
声が震える。稚拙な言い回しにならざるを得なかった。するとその物体は事も無げに答えた。
「忘れた」
恐怖は憤怒に変わっていた。理由もなく、母は殺されたのか。血の巫女として生命の記憶を伝承してきた母の命は、記憶されることもなく散らされたのか。この憤怒をどうにか奴にぶつけたい。けれど、ローザは戦闘というものを知らなかった。何千年もの間、生命の記憶と平和の精神を国内のみならず国外にまで伝承してきたメイデン王国、ひいてはこの世界の人物が闘争を知る由などあるはずも無かった。
ローザはただ睨んだ。メイデンの教えを侵したことへの怒り、憎しみ、侮蔑、考えうる限り全ての憤慨を物体に向けた。ローザを一瞥し、物体は奇怪な音を発した。それが笑いであることはすぐにわかった。
「その憎悪こそ、エル永年王ヴァキュアスが悦楽。小国の姫よ、刻み込め。我という空虚を」
ヴァキュアスは目にも止まらぬ速さで剣をローザに突き立て、勢いのまま刺そうとした。その時、ヴァキュアスの背後に衝撃が走った。ヴァキュアスが振り向く。視線の先には、アドラがいた。
「母の仇、晴らさせてもらう」
激しい剣幕でヴァキュアスの前に立ちはだかる。
「王子よ、名を名乗れ」
「アドラ。お前を倒す名だ」
唸るように言って拳を握る。
「戦の術を知っているとはな。我を刻む価値は十全といったところか」
ヴァキュアスは剣を回し、今度はアドラに構えた。固唾を飲むローザの手に、力が加わる。神官だ。
「姫、今のうちに」
手を引かれ、ローザは階段を降りた。言葉を出すことはできなかった。だから、兄に祈った。どうか生きていますように、と。
城から出て、森の中に入る。轟音がした。固い何かが砕け、巨大な建造物が崩壊をする、そんな音だった。足を止め、背後の景色を見ようとする。しかし、神官が肩を掴んで懸命に止めた。
「振り返ってはなりません。お進みなさい。最後の血の巫女よ」
迫真の表情に気圧され、再び足を踏み出そうとした刹那、神官は身体から力が奪われたように頭を垂らした。そのまま大地にうつ伏せになったと同時に、ローザは彼が死んだことを悟った。気がつけば、エル王国の兵士達がローザを取り囲んでいた。
隊長と思われる人物が啖呵を切る。
「皆の衆、これを捕らえ永年王に献上せよ。殺しても構わん」
一斉に槍が向けられる。世界はなんて理不尽なのだろう。たった一日で、全てを失うのか。家族も、国も、命も。
目を閉じたローザの耳に破裂音が聞こえた。瞼を上げると、兵士達は全員倒れていた。その後ろで、鉄の塊を持った集団が立っていた。
「誰だ」
呆然としたローザが尋ねる。眼鏡をかけた老人がローザの前に近寄り、しゃがんだ。
「私はクジョウマサヨシ。合衆連盟総長をしている」
聞き慣れない単語に、ローザは首を傾げた。クジョウマサヨシはローザの肩に手を置き、柔らかい声で言った。
「合衆連盟。今日から、君の家となる場所だ」
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