第六滴 ヴィ・マナにて

 ヴィ・マナはまるで、神話のような透明感を放っていた。これほどまでに雄大かつ驚愕に満ちた飛行船を緋呂は知らない。それに、とても自由そうだ。あれだけ大仰に空を泳げるのなら、どんなしがらみも意味を成さないだろう。羨ましかった。

 梯子を昇り、ヴィ・マナの甲板に立つ。乾いた木の音がした。ローザの後を着いて行く。歩いても軋まない。よほどの技術、資金源がなければ、このように円滑な船は造れない。緋呂は、九条財閥がかつてスポンサーを務めた客船を思い出した。財閥百周年の祝典用に造船された使い捨てのオモチャ、いわゆる金持ちの道楽というやつだ。重量およそ3万トン、軽く数千人は乗せられる規模で、数々の有名な歌手がその客船でコンサートを開いたりしていた。エル王国が覇権を握っているであろう異世界で、それと酷似した船を造れる国家があるのか。それも、メイデン王国の姫と面識を持っている国家が。

 ローザの背中を見る。スカルバーンの言っていた『メイデンの教え』が頭をよぎる。滅ぼした後も尚、エル王国が危惧するメイデン王国の掟。こちらの世界で言うキリスト教のようなものと捉えて良いのだろうか。だとすれば、エル王国がローザを捕らえようとする気持ちはよく理解できる。宗教問題は歴史の中で幾度となく興亡を生んだ。新体制の下で権威を確立したいのなら、真っ先に潰しておきたい問題なのだ。キリスト教ほどの影響力があるのなら尚更そう考えるだろう。エル王国に反発する諸国の団結を促しかねないのだから。

 とにかく、緋呂は『メイデンの教え』を知りたかった。それを知ることが、異世界を知る手がかりになることを確信していたのだ。

「ローザ、聞きたいことがあるんだ」

 足を止め、ローザは顔をそのままに返事した。

「着いた。ここがブリッジだ」

 顔を上げる。そうして緋呂は初めて、目の前にブリッジがあることに気がついた。船長とおぼしき髭面の老人がローザの方を見て敬礼する。

「帰還ご苦労であります、姫君」

 筋骨粒々とした体躯に負けず劣らずの声が張り上げられる。かといってがなるようでもなく、とても明瞭な発音であった。船長としての確かな腕が窺える。

「彼は一体何者なのでありましょうか」

「私を三銃士より守った男だ」

 船長は言葉にならない声を上げた。やはり、異世界における三銃士という存在は絶対的に強力なものなのだ。緋呂は船長の反応から、それを再確認した。同時に、クロスカリバーへの畏怖を甦らせた。冷や汗が首筋を流れる。

 咳ばらいをして船長は、

「失敬」

 と、ローザに非礼を謝った。ローザは気にする素振りも見せず、早口で言った。

「では、私は部屋に戻る」

 それからローザは何かに駆り立てられるかのように、ブリッジを離れた。緋呂が目で追いつつその理由を考えていると、船長が緋呂に声をかけた。

「三銃士を退けるたぁ大したモンだ」

 頭部からつま先にかけて視線を感じる。船長が全身を確認しているのだ。恐らく、武器の所持についてだろう。案の定、奇異な瞳で質問された。

「まさかとは思うが、素手でやっちまったのか?」

 緋呂は首を横に振り、スカルバーンとの戦闘を事細かに話した。これはまずかった。緋呂の話を聞いていた船長の顔は徐々に青ざめ、最終的には人を見る目をしていなかった。沈黙がブリッジに漂う。

 きっと、『メイデンの教え』が関係しているのだろう。確か血がどうのとか言っていた。船長に拒絶されるのを覚悟で、緋呂は尋ねた。

「あの、一ついいですか?」

 返事はない。当然だ。目の前にいるのは胸を貫かれながらも生きている、ゾンビのような奴なのだ。だが、不思議と緋呂はそのことを大した出来事には感じていなかった。むしろ、異世界の理を担っていると思われる『メイデンの教え』の方が気になってしょうがなかった。

「教えたくないかもしれませんけど、僕は知りたいんです。『メイデンの教え』を」

 船長の目があからさまに点になっていた。1+1も知らないのかと言わんばかりの反応だった。それだけ基礎的な知識なのか。緋呂も唖然とした。

「中々おもしれぇ冗談言うじゃねぇか。えーと、」

「緋呂です。九条緋呂」

「そうそう、『クジョウヒロ』…──ん、オメー、今『クジョウ』っつったか?」

 この人も九条家を知っているというのか。本当に一体誰なんだ、もう一人の九条は。緋呂はどこぞの九条さんに対しての半ば迷惑がる気持ちを抑えつつ、船長の疑問に頷いた。途端、船長は絶叫して後ろにこけた。操縦桿と思われる装置に頭をぶつける。

「驚いたなぁ、ったく。ヒロ、オメー総長ん名前とそっくりだもんなぁ」

 船長から不意に飛び出した単語に、緋呂は間髪入れず質問した。

「総長って誰ですか」

 ぶつけた所を掻きながら、船長は身体を起こして言った。

「クジョウさんだよ。オメーと同じ名前だ」

「そういう事ではなくてですね」

「合衆連盟のリーダーでな。オレ達や『こいつ』もあの人の下で働いてる訳さ」

 話の噛み合わなさに歯痒さを覚え、緋呂は話題を切り替えることにした。

「合衆連盟、ですか」

 船長はさも周知の事実のように話した、

「エルに不満を持つ国々が同盟を結んで作った組織のこったよ。知らなかったのか」

「初耳です」

「あっ、そういやそうか。秘密組織だもんな。『メイデンの教え』を知らねぇってのがヤバすぎて、すっかりその気になっちまった」

 船長のからかいで、緋呂は当初の目的を思い出した。

「それですよ。一体何ですか?『メイデンの教え』って」

 再び船長は絶句した。本当に知らねぇのかこいつ、とでも言いたそうだった。

「ヒロ、オメーどこ出身だよ」

 緋呂はどう言えばいいのかわからなかった。どう考えても東京など存在しないだろう。思案の結果、

「この世界ではない、としか」

 と、濁した答えしか出せなかった。失敗を確信した。普通あり得ないだろう、出身を聞かれて『この世界ではありません』なんて。自己紹介でやればまず絶対に孤立する。ましてや合衆連盟とかいう国家水準の超大規模組織の一員にすべき受け答えではない。わかっていながら、緋呂には他の言葉が浮かばなかった。

 しかし、船長は笑って緋呂の肩を叩いた。

「なるほどな、そりゃあメイデンの教えも知らなくって当然だよな。本当におもしれぇ奴だよ、オメーは」

 胸を撫で下ろした直後、緋呂は察した。これ、ひどい勘違いをされたな。常識の欠けた天然だと思われたな。不服に思ったが、ともあれ好意的に扱ってくれるのならそれで構わない、不服だが、と緋呂は割り切った。

「今日からオメーもヴィ・マナファミリーだ」

 さっきまでとは打って変わり、船長が快活に話しかける。

「素性も知れないのにファミリーって…」

「この船に乗りゃあ皆ファミリーなんだよ」

 では先刻の沈黙は何だったのか、と心中で緋呂は突っ込んだ。代わりに言葉したのは、

「ところで、この船はどこへ向かっているのですか?」

「本部だよ、合衆連盟の」

 つまり、どこぞの九条さんの正体を目の当たりにできる訳だ。緋呂の胸は期待で膨らんでいた。元の世界にまつわる手がかりを握っているかもしれないのだから。

「ところで」

 だが、今の緋呂は期待以上に大きな疑問を抱えていた。

「『メイデンの教え』って何なんですか。いい加減、教えてほしいんですけど」

 緋呂は船長から、『メイデンの教え』についての詳細を聞いた。そして、ローザの不可解な行動の全てに合点がいった。なぜ緋呂が納得できたのか、それは次回、彼女の視点より世界を視れば理解できることだろう。

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