第五滴 緋呂とローザ

 男は理解できなかった。ヒロとは誰なのか。それどころか、自分の名前すらわからなかった。だが、自分の背中に手を置き、目を見開いている少女のことは覚えている。ローザ。瑞乃と瓜二つの少女だ。そのローザが男に語りかける。

「本当にわからないのか」

 男は頷いた。ローザは更に質問する。

「どこまでわからないのか言ってくれ」

 男は答えた。

「名前だけだ」

 男にとって不可解なのはそれだけだった。見事に自分の名前のみが、記憶の中で空白を作られていた。

「お前の名前はクジョウヒロ。いいな」

 九条。その言葉の響きが脳に痛みを与える。同時に、男は思い出した。男は九条と呼ばれるのを嫌った。だから名前で呼ばせた。緋呂、と。

 我に返り、緋呂は忘却の恐れから逃げるべく、自分の名前を繰り返し呟いた。

「なぜ忘れていたんだ、俺は」

 筋肉が強張る。緋呂は前後関係を洗い出した。さっきまで、そう、スカルバーンと戦うまでは自分の名前を覚えていた。忘れたのはその後だ。奴の能力だろうか。だとしたら、闘鬼のスカルバーンなどと呼ばれるほど前線に立つ必要はないはずだ。スパイなりの地位に就いて能力を駆使し、相手を撹乱する方が適任だろう。

 他の要因を探す。すぐに答えは出た。クロスカリバー。あれが送った言葉を唱えた後、緋呂は力を得た。学校の体力テストでも下から数えた方が早い人間が手練れの相手と鍔競り合えたのだ、相当な力だろう。だが、その後自分の名前に関する記憶が消失した。あの詠唱が引き金だったとしか思えない。

 十字に広がった血痕が月光に晒される。緋呂はそれをただ見つめた。この剣が自分の命を救った。しかし、この剣が自分の名前を失わせた。朱殷の刻印が禍々しく瞳に焼きつけられる。

「思い出せたのならよかった」

 ローザの声が、緋呂を蝕まんとする言い知れぬ畏怖を遮った。素朴な、本当にさりげな語りかけだったと思う。それでも、緋呂にとっては気持ちを切り替えるのに十分な安堵の言葉だった。そうだ、今は生き延びられたことを喜ぼう。畏怖と向き合うのはそれからでいい。

 やはり、ローザに瑞乃が重なる。瑞乃も幾度となく心を救ってくれた。五歳の頃、野良犬を拾って飼おうとしたことがある。だが、父母はそれを認めなかった。翌日、野良犬のいた所に汚れた肉塊が横たわっていた。病気だったのだ。帰って部屋で独り、泣いた。あの時、無理を通せていれば助かっていたかもしれないのに。無力さを恨んだ。自分の矮小さを呪った。そんな時、瑞乃が傍にしゃがんだ。何も言わず、夕飯時になるまでずっとそうしていた。本当にそれだけだった。特別な言葉も、魔法のような出来事もなかった。けれどあの時、傍にいてくれたことがどれだけ自分の心を救ってくれたことか。

 緋呂は妹にもしてきたように、ローザに微笑んだ。

「おかげさまで」

 その言葉を聞くや否や、淡々とローザは言った。

「では、世話になった」

 足早に緋呂の横を通り過ぎる。虚を突かれた緋呂は戸惑いを隠せなかった。

「どこに行くんだよ」

「関係ないだろう」

 先ほどまでの凛々しくも温厚なイメージとはかけ離れた言動に、緋呂の思考回路は停止せざるを得なかった。

「助けてくれた恩があろうと、お前は家族でも何でもない。私に構うな」

 振り向きもせず言い放つ。緋呂は立ち尽くしてしまった。棘のある節回しは苛立ちを煽るよりも、目を点にさせる。どうして、いきなり態度が豹変したのか。

 すると、ローザは足を止めた。髪の光沢だけが波打つ。

「そんな所に立っていないで、どこへでも行けばいいじゃないか」

 声が震えている。気丈に発したつもりなのがよくわかる。強がる小さな背中に、緋呂は歩み寄った。

「なら、ここにいるよ」

 ローザの言葉を聞いた瞬間、腹は決まった。この少女は九条の名前を知っていた。それはつまり、元の世界からやって来た人間が他にいるということ。それも血縁関係の。一体誰なのか、知りたくない訳がない。あわよくば、元の世界に帰るヒントを握っているかもしれない。だが、緋呂にとってはそれ以上に、

「君のお兄さんの代わりに、君を守る人が要るだろう?」

 妹の生き写しの少女を傍で見守ることの方が大事だった。別人なのはわかりきっている。だとしても、二度も失わせはしない。あんな気持ちはもう味わいたくない。骨髄まで刻み込まれた使命感が、緋呂の心身を突き動かした。

 ローザも睨みつけはしたが、やがて根負けしたのか、

「好きにしろ」

 とだけ言って、再び歩き出した。

「じゃあ、どこへ行こうか」

 緋呂が尋ねると、ローザは月に向かって手を掲げ、何かを指さした。目を凝らす。月の表面に、不自然に付いた黒い点が見えた。点は次第に大きくなり、緋呂はそれが船であることに気がついた。船は森に近づき、オールの羽ばたきで木々の頭を垂れさせる。緋呂も立つのが精一杯だった。月を覆い隠してそびえ立つ船から、梯子が吊るされた。口を開けたままの緋呂に、ローザは言った。

「この船に、『ヴィ・マナ』に乗る」

 夜が明けた。緋呂は木製の船を見上げ、一縷の不安と、それを掻き消すほどの覚悟を抱いた。

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