第三滴 流血の騎士

 電撃が緋呂の脊髄に走った。あり得ない。だって瑞乃はもういない。七年前のあの日を境に、姿を消した。原因は聞いていない。なら今、目の前にいる少女は誰なのか。姫と呼ばれたこの少女の容貌は、妹以外の何者でもなかった。

「人の顔を見つめて、何を考えている」

 訝しげに少女が喋った。緋呂は確信した。瑞乃だ。忘れないようにとスピーカー越しに聞いた声、記憶にあった声と完全に一致している。他の人物であるはずがなかった。

 感極まって、緋呂は少女を抱きしめた。

「瑞乃、瑞乃、瑞乃」

 七年ぶりに叫んだ。自分に命の保証がないだとか、そんなことはどうでもよくなっていた。緋呂はただ、七年焦がれた温もりを離したくなかった。ほのかな香りが鼻腔を刺激する。匂いも同じだ。妹は生きていた。嗚咽を堪えきれず、狭い洞穴の中で反響させる。

「悪いが」

 そんな緋呂の腕を引き離し、少女は言った。

「私はミズノという者ではない。私の名はローザ。メイデン王国の王女だった者だ」

 少女の鋭利な目つきと口調に緋呂は戸惑い、

「いきなり何を言い出すんだよ。ローザとか王女とか。ほら、お兄ちゃんと一緒に──」

「名乗れ」

 緋呂は言葉を失った。決して瑞乃がすることのなかった表情を、瑞乃がするはずなかった口調を突き立てられたのだ。さっきの植物のことが頭をよぎる。異なる世界。では、この少女も本当にローザという名前の異なる人物というのか。こんなにも、瑞乃なのに。

 茫然自失の緋呂を見て、ローザは申し訳なさそうに、

「すまない。助けてもらっておきながら、態度がなっていなかったな。改めて、名前を教えてほしい」

 記憶よりも凛々しい口調に、緋呂の思考は尚も当惑を抑えられなかった。瑞乃はそんな話し方をしない。やはり、違うのか。

 諦念は緋呂の口を開かせた。

「九条緋呂」

 緋呂の名字を聞き、ローザは神妙な顔色に変わった。

「『クジョウ』か」

 意味深に呟く。ローザは顎に指を当て、そのまま俯いた。思い当たる節でもあるかのような素振りだ。

「知っているのか」

 尋ねる緋呂を瞳だけで捉える。しばしの間見つめ、瞼を閉じた。何かを決意する時、大抵の人はああいう顔になる。ローザも同じなのかもしれない。洞穴の空気に冷たさが戻る。

「同じ名を持つ者に心当たりがある」

 緋呂はその言葉の意味をすぐに察した。自分とは別に、この異世界に九条家の人間がいる。偶然にしては出来すぎている。誰が迷いこんだのか、緋呂は思いつく限りの血縁関係を辿った。

 だが、答えは出なかった。後見人争いの絶えなかった血筋もあって、父母の代で親戚と呼べる人間はいない。とすると、九条家の血を引いているのは父母と自分だけだ。しかし、父母であるとは考えづらい。プライバシーのためにボディーガードすら雇わないような人物が、異世界で積極的に人脈を作るはずがない。ならば、ローザが九条家を知るよしもない。謎が深まる。どうしてローザは九条という名前に聞き覚えがあるのか。

 緋呂の脳内に、『捨て子』の三文字が浮かんだ。九条財閥のような名家と呼ばれる所では、家柄に適格ではないと判断された者は分家に『捨てられる』のだそうだ。この話を初めて聞いた時、緋呂は露悪的な御伽噺の出来事と信じて疑っていなかった。が、もし本当にあるのだとしたらどうだろう。パズルのピースが恐ろしいほど綺麗に埋まる。緋呂は戦慄した。瑞乃の他に家族がいる。自分はその家族を無視して生きてきたのかもしれない。意識していようといまいと、結局、自分も父母と同じ化け物だったのかもしれないのだ。

 頭を抱える緋呂の肩にローザは触れ、深刻そうに話しかけた。

「どうした。しっかりしろ」

 緋呂の耳に、懐かしい音が突き刺さる。自分に言い聞かせるように、

「大丈夫、お兄ちゃんは大丈夫だから」

 と、繰り返す。するとローザは、自ら推測の牢に閉じ籠る緋呂の頭を叩いた。我に返り、緋呂は顔を上げる。

「少しは落ち着いたか」

「ああ、すまない。取り乱してしまった」

 今度は緋呂が申し訳なさそうに言った。

「その様子だと、お前も家族にただならぬ思いがありそうだな」

「『も』って、ローザには何があったんだ」

 緋呂が質問した瞬間、ローザの瞳は光を失ったように見えた。

「いいよ、言いたくないなら」

 自分もそうだから、と緋呂が言う前に、ローザは口を開いた。

「身なりから大体察しはつくだろうが、私の生まれた国・メイデン王国は滅ぼされた。エル王国に。その際、家族を皆失った」

 淡々と語ろうと努めているのであろうローザの表情が、声音が、みるみるうちに暗くなっていった。濃さを増した洞穴の影に溶け込まんばかりだった。どれだけ凄惨な現場を見たのだろう。たった一つの疑問以外、緋呂は何も返す気になれなかった。

「どうしてそんなこと、俺に話す」

 涙ぐむほど、唇を噛むほど悲痛な身の上話をどうして初対面の人間にするのか、緋呂には理解できなかった。

 ローザはわざとらしいくらい冷静な振る舞いで言った。

「お前が私の兄に、アドラ兄さんに似ているからだ」

 兄さん、と呼ぶローザの声に緋呂の心臓は跳ねた。瑞乃の姿を重ねずにはいられなかった。

「そんなに似ているのか、私は。ミズノという者に」

「いきなり何を言い出すんだ」

 不意に瑞乃の名前を持ち出され、緋呂は平静を保つのに必死だった。

「そこまで露骨に顔を硬直されては何か言いたくもなるだろう」

「そんなに顔に出ていたのか」

 緋呂は咄嗟に自分の顔を触る。その様子を滑稽に思ったのか、ローザは笑った。

「全く、わかりやすい奴だな」

 それから緋呂には聞こえないよう、小さく付け足した。

「本当にそっくりだ、兄さんに」

 細くなっていたローザの目が唐突に見開いた。冷や汗を垂らし、緋呂に叫んだ。

「ヒロ、危ない」

 その声が緋呂に届く頃にはもう遅かった。胸を刃が貫いていた。血が湧き水のごとく、勢いよく流れ出す。ワイシャツが赤く染まる。緋呂は力なく振り向く。かすむ瞳に、紅の鎧を着た骸骨が映った。

「お迎えに上がりました、姫」

 鉛を彷彿とさせるほどの重低音が鼓膜を震わせる。青ざめるローザに、骸骨は図体に似合わぬほど丁重な振る舞いを見せた。

「メイデンの姫には些か刺激が強すぎましたかな。流血はご法度、でしたからね」

 睨むローザに構わず、骸骨は続ける。

「ヴァキュアス様の命により兵を派遣したものの、やはり傭兵では姫のお眼鏡には敵うまいと思い直し、三銃士が一人スカルバーン、こうして参上つかまつった次第です」

「何故ここがわかった」

「なに、簡単なこと。『血は生命の記憶』メイデンの教えに従ったまでですよ」

 朦朧とする意識の中、緋呂は植物の血を思い出した。あれを目印にされたのか。しかし、あんな僅かな痕跡からどうやって辿ったというのか。それだけ、三銃士というのは優れた戦士の集まりだということか。

 だが、スカルバーンの指すそれは、緋呂の想像するものとは異なっていた。

「少年、その推理は半分正解だ。しかし、私はそのような定かでないものに依ったのではない。生命に宿りし消えようのない刻印、『血覚』に依ったのだ」

 思考を読まれた。異世界の人物はそんなことも可能だというのか。黒くなる視界の中で、緋呂は頭を打たれるような衝撃を受けた。

 スカルバーンは緋呂の驚愕をさも当然のごとく受け流し、ローザに語りかけた。

「血の巫女である姫は誰よりもご存知のはずですよね」

「だが、それは同じく血の巫女にしかできない業。お前は、いえ、あなたはまさか──」

「詮索はそこまで。さあ、共に参りましょうか。ヴァキュアス様の下へ」

 彼らの会話がはるか遠くに聞こえる。ここで死ぬのか。緋呂は胸の痛みすら他人事に思えるこの感覚を、運命と捉えた。享受しようとさえ考えた。瑞乃に再び会えるのなら死んでもいい。

 そう思った矢先、一つの光景が緋呂の中にある蜘蛛の糸を掴んだ。ローザにスカルバーンの手が伸びていく。恐怖に表情を歪ませる少女。

 やめろ、瑞乃に手を出すな。緋呂の中にある蜘蛛の糸を手繰りよせ、生気が緋呂を支配した。瑞乃を助けないと。

──血を流す覚悟は出来たか?

 緋呂の全神経が共鳴するような、緋呂の全細胞が耳を貸すような、そんな声がつんざいた。誰なのか聞く余裕などなかった。緋呂はただ、その声に頷いた。そしてただ、力を求めた。

 刹那、溢れ出た血が緋呂の右手に集結し始めた。血は大きな十字の形に凝固し、やがて剣と化した。スカルバーンは緋呂の身体から刃を抜き、後方に身を引いた。朱殷の剣はすかさず、スカルバーンの刃を弾き飛ばした。胸の傷が塞がっていく。

 コンマ何秒とも経たぬ一連の光景を前に、ローザは言葉を失った。かろうじて、緋呂をこう形容するのみであった。

「流血の…騎士…」

 と。

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