第二滴 異なる世界で巡り逢う

 まず、夢遊病を疑った。そうでもなければ、さっきまで部屋にいた人間がいきなり森の中に立っていることに説明がつかない。だがそれは、目の前にある見知らぬ植物が現実にあると認めることを意味する。流動する花弁や血管の浮き出た茎を持つ植物を、一体誰が普通と思うのか。

 ともかく、緋呂はこの薄気味悪い森から抜け出すことを決めた。草をかき分けていく。拍動を感じるが、わざと無視する。踏んだ枝から赤い液体が流れても気にせず、前進を続けた。

 すると、向こうから草の触れる音がした。何かいるのか。ここに棲む動物か?

 緋呂は咄嗟に茂みに身を隠した。不気味の塊みたいな森に棲んでいるのだ、どのような生態か把握することは不可能に等しい。身に降りかかる危険は想像もつかない。やり過ごす、それが最も賢明な判断だと緋呂は思った。

 固唾を飲む。茂みの隙間から、おもむろに音の主を覗いた。正体は緋呂の予想とは異なっていた。人。見慣れない服装を纏ってはいるが、男と認識できた。

 しかし、危険には相違なかった。『彼ら』は、少女とおぼしき子を担ぎ上げていた。人攫いであることは遠目から見ても明らかだった。

 緋呂の頭に血が昇った。あの子を助けなければ。だが、屈強な男二人とやりあって十七の少年が勝てる見込みがないことがわからないほど、緋呂は理性を失っていなかった。とはいえ、何もしない訳にはいかない。結局、様子を窺う他なかった。

 男の話し声に聞き耳を立てる。

「これで俺達も英雄だな」

「英雄とかどうでもいいさ。重要なのはメイデンの姫様を捕らえた、それで俺達はエルから山程の金が貰える。それだけだ」

「そりゃそうだな」

 緋呂は状況を整理した。

 つまり、あの二人は雇われの身で、エルとかいう組織に与(くみ)している。そして、二人が担ぎ上げている少女はメイデンという王国の姫で、エルにとっての敵ということになる。では、エルは組織ではなく国か。一介の組織が傭兵を使って国家を転覆させるなど聞いたことがない。やるならクーデターやテロのような突発的行動だ。ということで、エルは国家と捉えて間違いない。

 ワンテンポ遅れて、緋呂は状況の複雑さを理解してしまった。血の気が退く。息遣いが荒くなっていく。見知らぬ植物、見慣れない服装、聞き覚えのない国家。行き着く答えは一つだった。自分は今、本来いた世界とは別の世界にいるのだ。

 更に不運なことに、この世界はエルという国家が権力を振りかざしている戦乱の時代を迎えている。すなわち、明日生きていられる保証の無い世界に迷いこんでしまった訳だ。

 重力が倍に増したような気分だった。もう、瑞乃のいた世界には戻れないのだろうか。灰色の日常だった。それでも、あの世界には瑞乃がいた。なんて頼りないんだ、日常というものは。七年ぶりに痛感する。

 緋呂の意識を引き戻したのは、袋越しの甲高い叫び声だった。再び茂みの隙間へ視線を上げる。そして、降りかけていた血が急上昇した。理屈はどうでもよかった。ただ、どんな世界であっても、自分の利益のために相手をいたぶっていい道理はどこにもない。決して譲れぬ部分がある。それだけのことだった。

 すかさず緋呂は茂みから飛び出した。驚き戸惑う男達をよそに、緋呂は少女を抱きかかえて一目散に走った。背後から怒号が轟く。それでも、緋呂は振り向かなかった。

 ふと、視界に木々の禿げた場所が飛び込んだ。進行方向を変え、緋呂はその前で足を止める。そこは小さな洞穴になっていた。土のせいか、周囲よりも些(いささ)か冷ややかな空気が漂っている。やり過ごせるかもしれない。緋呂は迷わず、洞穴の中へ足を踏み入れた。

 顔だけ覗かせ、耳を澄ます。これだけ深い森なのだ、探すのは容易ではない。そう思いつつも、この世界の勝手が何もわからない緋呂にとっては、確実と呼べる材料など存在しなかった。超小型の高性能な追跡装置が普及されている世界かもしれないし、五感や筋力といったそもそもの身体能力が極端に高い世界なのかもしれない。緋呂の心臓はこの世界に来てから休まること無く、せわしなく動き続けていた。

 洞穴の中が異様に蒸し暑く感じる。体内は反比例するように冷えている。喉の渇きが襲ってくる。耳を澄ませることに集中しなければどうにかなりそうだ。死にたくない。緋呂はこの時間が終わることを望んだ。

 しばらくすると、怒号は遠のいていった。その瞬間、緋呂は土壁に寄りかかった。力なく胸を撫で下ろす。生きた心地がしないとはこのことだと、緋呂は心の底から思った。

 直後、緋呂の耳にこもり気味の大声が聞こえてきた。緋呂は身体を震わせ、音の方へ顔を向ける。そこには袋を被せられた子供、もとい姫が立っていた。緋呂は自分が今まで何をしていたのか、その瞬間まで脳内から飛んでいたことに気づいた。

「ごめんね。すぐ取るから」

 と、麻に似た手触りのする袋を剥ぎ取った。狭い口から解き放たれ、髪が揺らめく。黒、というより漆黒だった。洞穴の中だというのに、光沢を見せている。暗がりに際立つ煌めきを見て、瑞乃を思い出す。

 瑞乃も本当に綺麗な髪をしていた。初めて行ったプラネタリウムに感動しきれなかったのも、あの輝きを見慣れていたせいだった。この七年間は特にそう思った。どうして星の光は巷で言われるほど素敵なものではないのか、と。

 あの男二人組に捕らえられていたせいか、身なりは薄汚れているものの、さすがに姫と呼ばれるだけあって肌はキメ細かい。透き通るような白。胡蝶蘭によく似ている。瑞乃が胡蝶蘭を好んだのもきっと、似た者同士だったからなのだろう。

 この様子なら、さぞかし顔も整っているに違いない。緋呂は髪を傷つけないよう、そっと少女の前髪を上げた。途端、緋呂は後ずさりをした。絶句した。愕然とした。

 同じだ。髪や肌どころではない。緋呂を見つめる瞳も同じ。鼻立ちも、いや、もはや全てが同じだった。

 そこにいる少女は、二人と愛さぬ妹、二度と愛せぬ妹そのものだった。

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