流血騎~The Lost Blood Knight~

風鳥水月

第一滴 胡蝶蘭に招かれて

 黒電話を落とした。音は絨毯に吸い込まれる。シャンデリアは少年を照らし続ける。少年は影を見つめることすらしなかった。まるで目が作り物になってしまったかのように、瞳は動かない。暫しの時が流れ、少年は我に返った。何度も首を振る。受話器から聞こえてきたあの声を拒むために。

「緋呂君?実はね、」

 違う。そんな訳ない。十歳の頭脳は首を振ること以外、情報を遮断する術を知らなかった。

 そうだ。これは悪い夢だ。昨日、怖い映画を観た訳でもないけど、突然自分の頭に現れた辛辣な冗談なんだ。緋呂は胸の内で何度も繰り返した。しかし、繰り返すほど悪寒が走る。冷や汗が止まらない。それでもなお、緋呂は頭を侵略してくる言葉と闘った。

 その時、玄関から扉の開かれる音がした。父母が緋呂のいる部屋に入ってきた。二人は既に、喪服に身を包んでいた。

「やめてよ。何で、そんな恰好するのさ」

 口だけが動いていた。音がついて来ない。口元が妙に震える。筋肉痛にでもなったみたいに痙攣している。口に水が入ってくる。しょっぱい味がした。

 ダメだ、泣いちゃいけない。あの言葉を認めることになってしまう。本当のことになってしまう。緋呂の意思に反し、幼い瞳からとめどなく涙が溢れ出た。緋呂は袖でせき止めようと努めたが、小さな粒が容赦なく絨毯に染みを作る。一部分だけ濃くなった絨毯を見つめ、緋呂は自らの敗北を悟った。

 我慢の牙城が崩れた今、絶望は無慈悲に心を痛めつける。緋呂はあの言葉が真実なのだと、受け入れざるを得なかった。反抗する力を失くし、緋呂は真理を悟った。人間は、一本の電話だけでここまで絶望できるのだと。そして、日常というものがどこまでも頼りないものだと。

「緋呂君?実はね、とっても言いにくいんだけど、妹さんが亡くなったの」

 あの言葉が何度も反響する。緋呂は絨毯に顔をつけて喚いた。

「瑞乃、瑞乃、瑞乃」

 声が出なくなるまで、妹の名前を力一杯叫んだ。返事は来ることなく、音は大広間に消えていった。一瞬、シャンデリアが点滅したような気がした。


 時が浪費される。緋呂は灰色のフィルターから七年を視た。日に日に濁る。それに伴い、身体から力が抜けていった。登校日は特に酷い。身体が抜け殻のように思えてくる。この虚脱感は思春期のせいではない。緋呂は生きることが億劫なのだ。

 女子高生が緋呂の横を通り過ぎる。今日のような日は、彼女らがたまらなく憎らしく、羨ましく感じられた。瑞乃も生きていれば、あの服を着られたはずなのに。そして想像する。制服姿の妹を。けれど毎回、くすんだポラロイド写真みたいなビジョンしか浮かばない。想像しきれない。その度に緋呂は、瑞乃がこの世にいない人間なのだと思い知らされる。

 横断歩道で止まる。信号は赤。集団登校中の小学生が並ぶ。女子の甲高い喋り声が聞こえてくる。人間は初めに、故人の声を忘れるらしい。緋呂はどこかの新聞で知った日から、欠かさず瑞乃のいた動画を観た。

 最初は安堵する。忘れずに済むのだと。しかし、三ヶ月が過ぎた頃、無駄だとわかってしまった。動画にいる瑞乃はあくまで、動画の中で生かされているだけだ。それに、こうして動画を繰り返し観るという行為そのものが、瑞乃がいなくなった事実を強調してしまっていることに気がついてしまった。だから緋呂は動画を観なくなった。

 靴を脱ぎ、ロッカーを開けると、大量の手紙が入っていた。桃色や浅葱色の丁寧な手紙には、内容を言わずともわかるような装飾が施されていた。緋呂も男だ。嬉しくない訳ではない。しかし、それ以上に心が痛い。女性を見る度、瑞乃のことを思い出す。また失うかもしれない。今なお開いている傷が、緋呂から恋を遠ざけた。

 空の青い理由、日差しの眩しい理由、運動場にいる生徒達が真剣に生を謳歌できる理由。そんなことばかりを考えているが、授業は真面目に受けているつもりだ。実際、テストの点数は上位20位から落ちたことがない。昔からやらされてきた、家庭教師達との勉強の賜物だろう。そのために友人と呼べる存在抜きで義務教育を終えた。父母は意にも介していなかったが。分相応の交遊関係を結べ。それが九条財閥に生まれた者の鉄則なのだ。

 だからだろう。休み時間、誰といても距離を感じてしまう。男子からは羨望と嫉妬の目差しを向けられ、女子からは恋慕や憧れを抱かれた。一人として、緋呂の心に寄り添ってくれなかった。ただ、最近は緋呂にとってもその方が気軽に思えてきた。瑞乃のことを『可哀想』とでも言われたら、男女構わず拳を出しかねないから。中学生当時、志望していた高校にわずかながら内申が及ばなかった原因でもある。そんな事情もあるから、この距離感は最近の緋呂にとって気が楽なのだ。

 それはそれとして、教師の媚びた態度には苛立ちを感じずにはいられなかった。緋呂は自分の名字が大嫌いだ。苦手な食べ物であるネギを連想させるから、というのもある。しかし、一番は人間の汚いものを凝縮したような名字だからだ。九条と聞けば、誰もが召使いのように媚びへつらう。今、面談でやたらと緋呂のことを持ち上げている教師がいい例だ。浅ましい。父母もそのことを利用し、相手をいいように使う。搾取し、吸収合併に追い込んだ企業は数知れずだ。緋呂はそれが醜く感じられた。自分にもその血が流れていると思うと嫌になる。

 下校し、家に帰る。いや、緋呂にとっては収容所に近かった。できることなら戻りたくないが、戻るしかない場所だった。黒服に身を包んだ大勢の人間に出迎えられる。ざっと百人はいる。それでも部屋には余裕があった。だが、これだけ広い部屋を見回しても、父母の姿は見えなかった。慣れたことだと気にもとめないフリをして、緋呂は自室に入る。身体の何倍もありそうなベッドに飛び込み、天井を見つめた。人間が自分の生まれを後悔する時は、皆こんな風にするのだろうか。

 あの日から、緋呂は父母が怪物にしか見えなくなっていた。どこの世界に、臨終から葬儀までを一日で終わらせる家庭があるというのか。それも、仕事を理由にする家庭が。反対してくれた祖父母は翌日から行方を消した。他殺であることは、誰の目から見ても明らかだった。

 だが、緋呂はそんな奴等の血が流れていることを恨もうにも恨めなかった。瑞乃がいたからだ。妹を否定したくなかった。たとえ今の状況に置かれたとしても、自分が家族といられないこと以外を悔やまないような子なのは、緋呂が一番よく知っていた。

 夜になり、食卓につく。専属シェフが作った料理が並べられる。今日の夕食はカレー、瑞乃の大好物だ。

「本日はその、あの日ですから」

 一年ぶりに食卓に出されたカレーを見つめる緋呂に、シェフは言葉を濁した。

 緋呂はカレーで瑞乃の回忌を知る。自分では数えたくないのだ。瑞乃がこの世からいなくなったことを刻み込みたくない。心が痛むだけの行為を、進んで行う気になれなかった。

 カレーを食べ終えると、シェフがいつもの質問をした。

「お口に合いましたか?」

 低く、柔らかな声に緋呂は頷いた。シェフは悪い人間ではない。むしろ、これだけ素晴らしい料理を作れるのだから、命の重みを知る善人に違いない。だが、いや、だからこそ緋呂は彼に後ろめたさを感じてしまう。満腹と共に、心の空腹が訪れる。他人に回忌を数えることを押しつけながら、他人の料理に心を満たされていない。我が儘な自分がいる。そんな事実に罪悪感を覚える。

 再び部屋に戻り、机の上に飾られた胡蝶蘭に目を向ける。月光を浴び、白さが引き立つ。こんなにも優雅な胡蝶蘭を見るのは初めてだ。ステンドグラスから射し込む光を初めて見た人が神の光と例えた話がある。緋呂はその人の気持ちがよくわかった気がした。妹が好きなはずだと思った。新鮮な美しさを誇る花を前に、緋呂は積年の想いを口からこぼした。

「会いたいよ、瑞乃」

 七年ぶりに頬を伝う涙。一滴、また一滴と胡蝶蘭の花弁に当たる。すると、みるみる内に胡蝶蘭に実が成った。緋呂は目を見開いた。不思議なことが起きた。招かれるように、緋呂の手は実の方へ伸びていた。手のひらに実がこぼれ落ちる。その時、実は月色の閃光を放った。光の強さに緋呂は目を瞑った。声が聞こえる。

「世界を終わらせないで」

 目を閉じたまま緋呂は振り向いた。誰が呼んだんだ。それに、言葉の意味がわからない。まるで自分が世界を終わらせようとでもしているかのような口振りに、緋呂は戸惑った。

 眩しさが消えたのを感じた緋呂は、慎重に目を開けた。広がる光景に、緋呂は思わず叫んだ。何故なら今、緋呂がいるのはベッドや机のある見慣れた部屋ではない。見ず知らずの草木が生い茂る、深い森の中なのだから。

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