第3話「血は、茶よりも濃し」



 京都は祇園甲部、『都をどり』の開催される歌舞練場かぶれんじょうの庭にはたくさんの桜が咲く。

 つなぎ団子の提灯と、赤い毛氈。麗らかな春風に舞う桜の花弁にお客たちは楽しげに笑うけれど、その反面、出演者である芸舞妓達が詰める楽屋に桜の木はない。彼女たちは四月いっぱい、街を空けられないのに。


 彼女たちは、桜が見たいと思わないのだろうか。この街の外の桜を見てみたいとは、思わないのだろうか。


「菊花、ぼんやりしなや」


 甲高いわりにしゃがれた女の声。酒に焼かれたそれに、私ははっと我に返った。

 お茶席の赤い毛氈をじっと見下ろしていたせいか、見上げた母の顔がほんのり赤く見える。いや、もしかしたら本当に赤いのかもしれない。母は昨日、何時までお客の相手をしていたのだろう。


「次、4回目のお客さん入るからな」

「わかってる」

「ほんまにええお客さんやねん。絶対ご正客に座ってもらわんと」

「わかってるって」


 今は昔、バブルの時代には「ハナキン」なる言葉が流行したようだけれど、今やバブルなど見る影もない。しかしやはり、飲み屋というのは週末に賑わうものである。祇園とてその例に漏れず、混み合うのは決まって金曜日や土曜日の晩なのだ。


 しかも、本日は四月の二週目。桜は満開、翌日は日曜日と来れば混雑は免れない。更に、『都をどり』の4回目公演の幕が下りるのは十八時前である。宴会のゴールデンタイムに丁度間に合うこの回は、お茶屋遊びをする旦那衆だんなしゅうの為の回と言っても過言ではない。

 つまり、週末の4回目公演に上客は集中する。3回目までの生ぬるい椅子取りゲームとはわけが違うのだ。


はなつねの若女将に遅れとったらあかんで」

「わかってるってば」

「ああ、なんやもう。普通、若女将連れてくるか? 形振り構わんで、じじむさいわ!」

「それお母さんが言う?」


 自分は高校生の娘を駆り出しているくせに、とは口に出さなかった。

 3回目の公演中ということもあり、今のお茶席はがらんとしている。毛氈に半円を描くように配置された大量のテーブルと長椅子、その先にはお手前のための畳が引かれ、お手前役の芸妓とお運びの舞妓が、今はちょこんと座って次の嵐に備えている。


 毎年ながらすごい光景だな、と私はぐるりと周りを見渡した。

 華やかなお茶席とは裏腹に、壁際にはぎっしりと女将達が壁紙のごとく並んでいるのだ。まさに、壁の花ならぬ、壁のドライフラワー。彼らの手には例外なくお茶券――席についたらこれをテーブルに置いてお茶が来るのを待つ――が握られており、今か今かとぎらつく目で席を見つめている。


 ふ、と後れ毛を引っ張られるような不快感に私は顔を上げた。本能の赴くままに視線を定めた先、お茶屋『花つね』の若女将がじっとりと私を見つめていた。


 去年、女将の息子さんとの結婚を機に街へとやって来た、いわゆる「よその人」。年は30歳手前といったところか。桃色の着物がよく似合っている。

 しかし、和やかな着物の色と乖離するかのように、目はギラついていた。飢えたような、それでいてほんのりとした怯えの滲む目だ。きっと、姑である女将さんに何か言われているのだろう。「これくらいはあんじょうやってや、あんた、他はなーんも出来へんのやから」とか。考えただけで寒気がした。


「アンタ、なんでそんな靴履いてきたん?」


 母はそう、ため息をついてぼやく。

 手負いの獣……こと、花つねの若女将の勢いは凄まじく、3回目の公演を終えた現在、私と彼女の勝敗は半々といったところだった。いや、むしろ私の方が劣勢と言ってもいいだろう。向こうは着物を着ているというのに。

 焦りの滲んだ母は私のヒールを忌々しげに見つめている。10センチの華奢なヒール。「アンタももう女やしなぁ」なんて、戯けたお母さんが東京で私に買ってくれた、私の一番のお気に入り。二年ほど前の話なのに、母はそんなこと覚えてすらいないのだろう。


「別にいいでしょ。走れるよ、これくらい」

「母親の目ェ誤魔化せる思いなや。さっき、足くじいたやろ」


 そんな母の言葉にぐうの音も出ない。確かに、3回目のお客さま入場時、花つねの猛進を受けた私はぐらりとよろめいたのだ。その時、わずかに左足を捻ってしまった。じくじく、気にしてしまうと痛い気がしてくる。


「ええわ。次、うちが行く」

「大丈夫。行けるって」

「葵くん呼んだげるさかい、アンタもう、葵くんと一緒に先帰りよし」

「行けるってば!」


 思わず大きな声が出た。壁際のドライフラワー達が、一斉にこちらを向く。

 それに「すんまへん、菊花が言うこと聞かんで」とへらへら笑う母に、怒りが募る。鼻の付け根を圧迫する激情に大きく息を吐いた。


「いつまで子供扱いするの。大学のことだって、私には何も出来ないって思ってるんでしょ。うち、もう高3や! お母さんは見いひんようにしてるだけやんか!」

「菊花、静かに、」


 そう、焦った母が声を上げた時だった。


「4回目のお客さま入りまーす!」


 事務員のそんな声で、お茶席の空気が一気に張り詰める。その場に居た全員が前のめりになったせいで、会場が少し傾いたんじゃないかとすら思った。


 暗黙のルールで、一人目のお客様が扉をくぐるまでは席を取ってはいけないことになっている。全員が息を詰め、扉を見つめる――、と、そこを一番にくぐり抜けて来たのは吉梅の女将さんだった。あまり質がいいとは言えない茶渋色の着物は、今日も襟が乱れている。

 えっちらおっちら、足を引きずる女将さんに思わず駆け寄った。


「女将さん!? 何やってるの!?」

「ああ、菊花ちゃん。昨日はおおきに。お世話さんどした」

「私、今あんま時間ないんだけどさ!?」


 その笑顔と違わぬ穏やかさで話す女将さんは、どうやら関係者入り口から入って来たらしい。お茶席の客の姿が見えないことに一先ずほっとしつつ、女将さんの言葉を待った。


「昨日のお客さんが、都をどり入ってくれはるんやけどね」

「うん」

「せっかくやし、最後くらいご正客座ってもらおう思て来たんやけど、」


 みんな、えらい気張っといやすねえ。諦めの混じった声でそう呟く女将さんに、鼻の奥の感情が膨れ上がる。怒りではない。泣き出してしまいそうなその感情に名前をつけるすべなど、私にはなかった。

 ただ、昨日のあの人に、幸せそうに笑う二人に、もう一度笑ってほしかった。


「女将さん、お茶券貸して」


 私の言葉に女将さんは首を傾げながら、おずおずと緑色の小さなチケットを取り出した。ひったくるようにそれを受け取って、私は痛む足首へと手を伸ばす。華奢なストラップを千切り取らんという勢いで外し、パンプスを脱ぎ捨てた。

 18年間、靴は揃えろと躾けられて来たけれど仕方がない。嵐は目の前に迫っているのだ。


「うちに任せて。絶対、ご正客取ってくる」

「菊花ちゃ、」


 女将さんの声が、ゆっくり聞こえた気がした。それくらいのスピードで、私は駆け出していた。

 薄い靴下越しの毛氈の感触。指先に力を込め、毛氈を蹴り破るくらいの勢いで身体を前へと押し出す。まっすぐ向こうから、花つねの若女将が私と同じくらいの勢いで走って来るのが目に入った。ああ、美しくない。そう思うけれど、こんなの毎年のことなのだ。明日にはみんな忘れてる。


 花つねさん、あんた、お外から来て、姑やお姉さん達にイケズされて、大変やと思う。せやけど、今回だけは譲れへん。

 手のうちにある二枚のチケット。四月の二週目、週末の、4回目公演。一番のご贔屓は怒って店に来てくれなくなるかもしれない。でも、今回だけは譲ってよ。


 綺麗な畳も、高いお酒も、お三味線も、何もなくても笑っていたあの二人を、最後くらい華々しい席に座らせたい。私は間違ったことをしているとは思わない。

 走らないで下さい、なんて誰も言わなかった。言葉が出ないくらいの形相だったのかもしれない。


 バァン、と響いた木の悲鳴。ご正客の席にお茶券を叩きつけたのは、花つねの若女将だった。


「はあ、は、はぁっ……、」

「は……、はっ、はぁ、」


 ほんの十数メートルの距離なのに。私も若女将も、フルマラソンを完走したのではないかという風貌だ。

 髪は乱れ、汗を流し、着物は着崩れている。私に至っては左の足首が腫れ上がっていた。ざわつき始めたお茶席で、私と若女将はしばらく見つめ合い、私は黙って彼女の隣の席に2枚分のチケットを並べた。


 負けた。ここぞというときに勝てないのは、私が甘ったれだからか。根性がないからか。このままずっと、何も成せないままなのか。泣くほどのことではないと分かっているのに、情けなさで涙が滲んだ。


 嫌いだったのは、この街じゃない。この街で頑張れない自分だった。みんな懸命に生きているこの小さな世界で、何も成せない自分が浮き彫りになるようで苦しかった。

 他の世界に行けば変われると思ったんだ。一からやり直せるって。でも、ここで頑張れない人間が、他の地で頑張れるはずがない。


「アンタ、足、大丈夫なんか」


 俯く私に母はそう、抑揚のない声で問うた。いっそ怒ってくれた方がマシだった。


「……ごめん、お母さん。うち、やっぱ、何も出来ひん」

「菊花、聞き。うちは店を守らんといかん」


 母の言葉に、顔を上げる。この街で生まれ、この街で育った女が、強い光を帯びた目で真っ直ぐに前を見つめていた。

 強く、美しい横顔だった。


「法律が変わって、いっぺん下ろした看板は二度と上げられへんようになった。うちは、お母はんの残してくれた店をどうにかして守らんといかん」

「……うん」

「このご時世や。街のもんはみんなで足並み揃えて、家族みたいに支え合うて生きてきた。をどりの時は別として、うちもそうするんが当たり前や思て生きてきた。せやけど、あんたは頭がええ。この街には勿体ないて、みんな言うてくれはる。せやから……、大学も、好きなとこ行ったらええんよ」


 せいだい気張りよし。そう、母は続ける。


「アンタはうちの娘や。祇園の女や。ちょっとやそっとではへこたれへん。絶対、大丈夫」


 喉の奥から熱がこみ上げる。木組みの天井を見上げたら、熱が頬を伝った。

 ざわつく会場で涙を流す女子高生の、なんと不気味なことか。そう思うけれど、お客達は私のことなど何ら気にする素振りもなく、おのおの、席へとついて行く。この街のこういう逞しさが、私は嫌いじゃない。


「おやおや、こんないい席で」


 聞き覚えのある声に視線を下ろす。そこには昨日のおじいさんが、きっちりとスーツを着込んで立っていた。上座ではすでに、花つねのお客が舞妓からお手前を受けている。


「すいません、ご正客取れなくて……。せっかくなら芸妓さんのお手前をって、思ったんですけど」

「いいや、十分だよ。美しい芸妓を見ながら頂くお薄は最高だ。それに、きっと小鶴さんなら最後尾の席しか取ってくれなかっただろうさ」

「へえ、這うて行こう思てたとこどす」


 そう、笑い合う私達の前で舞妓が止まる。その白い手にはしっかりと抹茶茶碗が収まっており、私たちは目を瞬かせた。ご正客には既にお手前が用意されているはずだ。


 お運びさんとは口をきいてはいけないしきたりのため、話しかけることも出来ない私達へと、少女は小さく微笑んで、「もう一服、桝菊屋さんの分もお持ちします」と囁いた。

 顔を上げれば、茶釜の前で背筋を伸ばして座る美しい芸妓が、じっと私達を見つめていた。そうして二度、ウインクしてみせる。紅を引いた唇が「うちらは、支え合わんと」と悪戯っぽく動いたのは、きっと、見間違いではない。







 すっかり日の暮れた祇園甲部、花見小路。石畳のメインストリートを、葵くんは私をおぶってゆっくりと歩いた。

 つなぎ団子の提灯に灯がともる。疲れと痛みでぼんやりとした意識の中、「この街に来ると夢を見ているような気持ちになる」というお客の言葉が、少しだけ分かった気がした。


「大きぃなったなぁ、菊花」


 葵くんの低い声が、春の夜空に溶けてゆきそうなそれが、首筋に寄せた頬から直接伝わってくる。


「俺が桝菊に来た頃は、手のひらに乗りそうな靴履いとったくせに」


 彼が左手の指に引っ掛けているパンプスのことを言っているのだろう。お客さま方に蹴飛ばされ、踏みつけられたそれは傷だらけになり、ヒールが折れてしまっている。こんなものは憧れの偶像なのだから捨ててくれと告げた私に、葵くんは「捨てんでええよ」とそれを両手で拾い上げた。

 「直したらまだ履けるやろ。憧れ失うたら、人なんかそこで終いや」と。


「葵くん、うちのこといくつや思てるん。来年から大学生やで」

「せやなぁ。当たり前やんなぁ」

「うち、京都の大学受けるわ。行きたいとこあるねん」

「ほんまにええんか。この街出ていくチャンスやのに」

「うん。もう少し、ここで頑張ってみる」


 そう呟いて、葵くんの首にしがみつく。

 しばらく何かを思案していた我が家の下足番は、一度、私の身体を揺らして背中の上へと引き上げた。そうして、ゆっくりと話し出す。


「ほんまはな、俺、全部ぶっ壊したろう思て帰って来たんや」

「え……?」

「子供の頃からずぅっと、おかんに捨てられた思て育ったからな。自分を捨てた母親への恨みが拗れて、拗れて、全部壊したろう思て帰って来たのに、この街が綺麗で、綺麗すぎて……やのに、なんや淋しそうで、」

「……うん」

「憎うて憎うてしゃーなかったはずやのに、街も、人も、いつの間にか愛おしいなってた」

「うん。わかる」


 うちも、ようわかる。

 そう口の中で繰り返して、刈り上げたうなじに鼻をこすりつける。


 ほんの少しの汗の匂いと、街の匂いに目をつむった。少しだけさみしい、木の香り。私の生まれた街の匂い。

 コポコポと、どこかで舞妓が歩く音がする。


 私を生んだこの小さな街を、私は愛している。










end.

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血は茶よりも濃し よもぎパン @notlook4279

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