第2話「春、桜、最後の夜」




「そしたら、お銚子二本、おたの申します」

「……はい」

「菊花ちゃん、笑顔」

「はぁーい!」


 どうしてこうなった。お盆に乗せたお銚子を吉梅の二階座敷へと運びながら、私は考える。


 明日のお茶席の席取りを押し付けられたことに腹が立って家を飛び出して、花見小路で転んで腹が立って泣けてきて、吉梅さんの女将さんに拾われたと思ったら、吉梅さんで女中の真似事をさせられている。

 もはや腹を立てる気力すら残っていなかった。


「お待たせいたしました」

「おお、来た来た」


 桝菊屋の階段以上に急な、古びた階段を上がり、変色して黄ばんだ襖を開ける。

 古い畳の匂いとお酒の匂いが立ち込める座敷に居たのは、女将さんと同じくらい年老いたおじいさんだった。


「えらいお待っとさんどした」


 そう言って、えっちらおっちら階段を上がってきた女将さんは私の隣に座る。

 改めて見渡しても、ひどい部屋だ。うちが比較的最近リフォーム会社を入れたからそう感じるのかもしれないが、この座敷はあまりにも古く、それがアンティークと呼べるほど価値のある年期の入り方でないことくらい私にもわかる。


 舞妓どころか芸妓もおらず、テーブルに置かれているおつまみは乾き物のみ。桝菊屋では考えられない「おもてなし」に、ほんの少しの嫌悪感が湧き上がった。


「お嬢さん、汚くてびっくりしたでしょう」

「え……いえ、そんなことは」

「昔はこの店も大層栄えていてねぇ。他の座敷から三味線の音が聞こえたり、よそから芸妓を引っ張ってきたりしたものだよ。三十年は経つだろうかね、小鶴こつるさん」

「へえ、もうそんなになりまっしゃろかねぇ」


 あの頃は僕らも若かったねえ、と。熱燗を煽りながら、おじいさんは満足げに微笑む。

 こんな笑い方をする男の人が、この街に来るのか。私は愕然と、お酌をする女将さんとこの小汚い店のご贔屓さんを見つめた。


 花街は、一見さんお断りの世界だ。しかしそれは客の品性を選り好みしているわけではなく、支払い制度の問題である。昔の花街はツケ払いが基本であった為、素性の知れた、支払い見込みのある客しか入れなかったのだ。

 だから、横暴な客も少なからずいる。お金を払えば何をしてもいい、何を言ってもいいと勘違いして、芸舞妓や女将に横柄な態度をとる人もいる。「粋なお客さんて減ったよねぇ」大きいお姉さん方がそう言って仏間でため息をつくのを子供の頃から何度も見てきた。そして、そういう客は皆、示し合わせたように満たされない顔をしているのだ。


 何が満たされないのだ。富も名声も得て、女を囲って、それ以上何を望むというのだ。美しいだけのこの街が空っぽに思えて、苦しくなった。満たされないと喚く自分の未来を見ているようで、怖くなった。ここに居てはいけないと思った。


 それなのに、なんだ。こんな小さなお茶屋の、汚い座敷で、三味線もないままに満足げに都々逸どどいつを歌い、昔話に花を咲かせる客と女将。

 知らず、歯を食いしばって俯いていた私へと女将さんは柔らかな声で語りかける。


「菊花ちゃん、今日はほんまにありがとうなぁ。うちなぁ、店閉めることになったんよ」

「……え?」

「うちが足悪うした時から、ほとんど宴会もあらへんかったけど、諦めつかんでなぁ。娘もおらんし、お母はんに申し訳のうて。せやけど、もうどうにもならんて、組合に話して来たんや。せやから、今日が最後のお客さん」

「最後にべっぴんさんにお酌をしてもらって、寿命が伸びたよ」


 呆然としたまま動けない私の前で、おじいさんは「舞妓にはならないのかい」と微笑んでいる。


「女は舞妓、男は寺、なんて古おすえ。この街は若い人にはすこうし窮屈や。菊花ちゃんは大学に行くんよ。ね、菊花ちゃん? まめ葉ちゃんも鼻が高いやろうねえ」

「……そんなことない。お母さんは、大学なんか行かんと、店手伝えって」

「ほうかぁ……まめ葉ちゃんも心配なんやろうねえ。一人娘やもんねえ。せやけど、菊花ちゃんは菊花ちゃんや。あんたの道は、あんたが決めたらええんよ」

「せやけど、うち、お母さんの、」

「菊花ちゃん。あんたがべっぴんなんも、賢いのんも、あんじょうお酒つけるのんも、全部、あんたが気張って来たからよ。ねえ?」

「小鶴さんの言う通り。今日は本当にありがとうね、菊花さん」


穏やかに、幸せそうに笑う二人の前で、私は久々に、子供みたいに泣いてしまった。




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