血は茶よりも濃し

よもぎパン

第1話「イッツ・ア・スモールワールド」




 月は朧ろに東山ひがしやま。山に囲まれた京都市内、伝統を重んじる花街はなまちは五つ存在する。


 歴史を語る上七軒かみしちけん鴨川かもがわと共に生きる先斗町ぽんとちょうに、花のある宮川町みやがわちょう祇園ぎおん甲部こうぶ乙部おつぶに分けられ、戦後、乙部は祇園東ぎおんひがしと名を変え、知る人ぞ知る趣のある街へと姿を変えた。


 そんな京都の花街で、『祇園甲部ぎおんこうぶ』はその土地の広さ、お茶屋ちゃや芸舞妓げいまいこの数、全てにおいて他の街より秀でていると言っても過言ではない。……が、所詮、花街は花街。イッツ、ア、スモールワールドだ。


「イヤよ! ぜったいにイヤ!」


 桜舞う、春の京都。つなぎ団子の提灯が華やかな祇園甲部のメインストリート、花見小路はなみこうじにそんな私の悲痛の叫びが響いたのは、四月も二週目、金曜日の夜だった。


「もう子供やあらへんねやからワガママ言わへんの」


 そう言って呆れたように、私の母――昔は『まめ』という源氏名で名を馳せたという元芸妓であり、現在は実家であるこのお茶屋『桝菊屋ますぎくや』を経営する着物姿の女は顔を歪める。

 私はこの、酒焼けした母の声があまり得意ではない。


菊花きっか、ええかげんなぁ、アンタも若女将わかおかみとしての自覚をやなぁ」

「継ぐわけないでしょ、こんな店!」

「なんや東京の大学行くぅ言うて騒いどるみたいやけどな、アンタみたい世間知らずがなに言うてるん。そのケッタイな関東弁もやめよし、恥ずかしい」

花街言葉はなまちことばよりは浮かないわよ!」


 誰が母にリークしたかは知らないが――いや、正直、一人しか心当たりは無いけれど――、大学進学を機に東京に出るつもりなのは本心だ。


「絶対東京に行くんだから!」

「へえへえ、よう分かりました。で、明日のお茶席ちゃせきやけどなぁ、」

「全然聞いてないじゃん!」


 私と母が何を言い争っているかと言えば、明日の『みやこをどり』のお茶席のことである。

 京都五花街きょうとごかがいの花街はそれぞれ一年に一度、踊りの舞台を開催する。上七軒の北野きたのをどり、先斗町の鴨川かもがわをどり、宮川町のきょうおどり。祇園東だけは祇園ぎおんをどりを秋に開くのだが、同じ祇園でも私の住む甲部は春に『都をどり』を行うことになっている。


 一日4回公演、それを四月いっぱい。合計120回の舞台に、芸舞妓達はほとんど休まず出演する。労働基準法はどうなっているのかという話だが――これを言うと祇園の女達は口を揃えて「法律はうちらより後に出来た」と言う――、そんなことはまぁいい。

 観客達は、舞台を見る前にお茶席に通され、そこでお菓子と抹茶(お薄である。ちなみに京都の花街はほとんど裏千家だ。)を楽しむ。それから劇場へと案内される仕組みだ。


 このお茶席というのが問題で、祇園甲部はその規模が大きすぎるゆえに、劇場もまた大きい。千人近いキャパがあるのだ。その人数が、お茶席に、嵐のように押し寄せる。


 お茶席にはその日の当番であるお点前てまえさんとおはこびさんがおり、これはそれぞれ芸妓と舞妓がコンビを組んで勤めるわけだが、もちろん千人分……正確にはそれを4公演、四千人分の全てをお点前さんが点てるわけではない。芸妓のお姉さまの細腕がもげてしまう。

 彼女達は、お茶席の最前列約十名、その中でも上座かみざの一人(これを正客しょうきゃくという)にしかお点前を提供しないのだ。他は全て、裏方のおばさま方が汗だくになりながら点てたお茶を盆で運びこむだけ。


 当然、みんな、上座に着きたい。


 だからこそ、祇園の春の風物詩、都をどりは芸舞妓達の闘いだけでなく、我々のようなお茶屋の闘いでもあるのである。


「アンタ、どうせ着物も着いひんねやろ。ちょおっと走ってって、上座にうちのお客さんの席取ってくれたらそれでええから」

「昔から思ってたけどさ、あのお茶席のご正客争い相当醜いよ? 舞台の華やかさとのギャップが凄すぎてめまいするんだって」

「そんなん芸妓はんにお茶点ててもろたらぽうっとなって、帳消しや」


 よろしうな、明日はうちでいっとうエエお客さんやさかい。

 そう言って母は、さっさと仏間から出て行ってしまう。座敷へ挨拶に行くのだろう。昼は舞台、夜はお座敷。祇園の春は、観光客が思う以上に忙しく過酷である。


 私は母の後を追うように襖を開け、廊下を進んだ。

 板張りの廊下は歴史の音色をきしませる。使い込み、毎日磨かれたおかげで飴色になっている床に映った自らの顔はむっすりと曇っていた。


 こんな街、嫌いだ。古臭くて、閉鎖的で。こんな小さな世界で人生を終わりたくなかった。ここではないどこかへ行ってみたい。

 ああ、そうだ。その話を母さんにバラした裏切り者を、シメなくては。


「ちょっと、あおいくん!」

「菊花、菊花ね、はいはい」


 そう言って、下駄箱から私の靴を探し出す丸まった背中。

 紋入りの法被を羽織ったこの店の下足番、中岸なかぎしあおいの家系は代々我が家の下足番であり、裏切り者だ。


「葵くんといい、じゅんさんといい、なんですぐ私のことお母さんにバラすかな!?」

「そらまぁお目付役やからなぁ」


 そう言って、葵くんは父親である淳さんとおんなじ顔をして笑う。

 淳さんが葵くんを連れてきたとき、彼はまだ高校生だった。その頃、私はまだ小学生で、存外整った顔をしている彼に胸を高鳴らせたものだ。が、そんなものは過去の話である。

 現在、腰を傷めて隠居した淳さんの代わりに桝菊屋の下足番を務める葵くんは、私の悪巧みを母さんに報告するという仕事まで淳さんから受け継いだらしい。引き継ぎ徹底し過ぎだろう!


「京都もそう悪うない思うけどなあ、俺は」

「そりゃあ葵くんはね! 外で育った人だもん!」

「捨てられたとも言う」

「仕方ないでしょ、男に生まれたんだから」


 この街において……と言うか、花街全てに言えることだが、女でもっているこの小さな世界の男は非常に地位が低い。店主も女、働き手も女、奉公人も女。男は電球を変えることとジャムの瓶の蓋を開けることくらいしか使い道がない、とまで言われる世界で男児を育てる母親は少なく、葵くんの母親であるまめよしさんもまたそうだった。


「なんで戻って来たのか私には理解出来ない」

「中におったら分からんこともあるわなぁ」

「葵くん、下足番なんかで人生終えていいわけ?」


 私の言葉に、葵くんは顔を上げる。いつもヘラヘラしている男の、珍しく真剣な眼差しに息がつまった。「なんか文句あるわけ?」その一言が出てこない。

 身動ぐ私を十分過ぎるほど見つめ、葵くんは「はーあ」と深く息を吐き出した。


「下足番の仕事は案外奥が深いんや。下足番だけやない、どんな仕事かて真剣にやっとったら、なんなとやるべきことが見えてく、」

「行ってきます」

「最後まで聞かんかい!」


 説教くさい話をそれ以上聞きたくなくて、葵くんが出してくれたパンプスに足を入れる。

 つるりとした艶かしい黒のエナメル。ヒール部分と金具がゴールドの、ストラップ付きの華奢なパンプスだ。10センチの細い踵は、立てば途端にオープントゥの爪先が痛くなるが、気にしない。東京のデパートで手に入れたこれが、私の一番のお気に入りだった。


「おまえそれ、足に悪いで。外反母趾とか、」

「ジロジロ人の足見ないでよ、変態」

「誰が変態や」


 そう言って葵くんは顔をしかめる。

 わざわざこの街を選んで帰ってきた男。当時、今の私と同じ高校三年生だったこの人は、何を思ってここへ戻ってきたのだろう。


「……行ってきます」

「おう。気ぃつけて。夜遅いんやし、四条大橋しじょうおおはしは渡りなや」

「うっさいオッサン」

「誰がおっさんや!」


 そう、怒る気のない声で叫ぶ男を無視して戸を閉めた。

 葵くんは来年30歳になる。十分おっさんだし、私は絶対にそんな年になるまでこんな街で燻りたくはないと思った。絶対に。


「こんばんわぁ、女将おかあさん」

「ほんなら女将さん、おやかましさんどしたぁ」

「せいだいお気張りやす」

「おおきに、またおたの申しますぅ」


 花見小路に出た途端、聞こえてくる花街言葉にくらりとめまいがした。

 今は誰かに話しかけれるのが嫌で、いつもの調子で「まめ葉ちゃんに似てべっぴんやねえ」なんて言われようものなら八つ当たりしてしまいそうで、俯いたまま足早に歩く。


 がつ、がつ。花見小路の石畳はヒールで歩くのには向いていない。

 おこぼと呼ばれる、舞妓特有の高下駄のような草履が「コポコポ」といい音がするように作られていると聞いた。


 ああ、いやだ。母に褒められたい一心で「舞妓さんになる」だなんて言っていた幼い頃を思い出して、記憶を振り払うように頭を振る。それがいけなかった。


「わっ」


 がつ、とつま先が石畳の隙間に引っかかる。つま先の痛みを呻く間も無く、前方へと倒れこむ身体。俯いていたせいで重心を引くことも出来ず、私はそのまま道へと派手に転んだ。


「あはは、いややわぁ、お兄さん」

「えぇ、うちも連れてっておくれやす」


 つなぎ団子の提灯が華やかな、花見小路。アルコールで溶けた、楽しげな人々の声が私を追い越していく。

 誰にも声を掛けられないことにほっとする反面、まるでこの街にとって私なんて気遣う価値すらない人間だと言われているようで、悔しくて、恥ずかしくて、涙が滲んだ。


「あらあら、えらいこっちゃ」

「…………」

「大丈夫かいな、菊花ちゃん」


 名前を呼ばれて、顔を上げる。そこには襟の崩れた着物を纏う老婆が腰を屈めて立っていた。


「……吉梅よしうめさんの女将おかあさん」

「みんな薄情やなぁ。こないべっぴんが倒れてんのに素通りかいな」


 そう言って女将おかみさんは私に手を差し出すが、体重をかけたら女将さんがそのまま死んでしまいそうだ。私は一人で立ち上がり、脱げてしまっていたパンプスを拾った。僅かに塗装が剥げてしまってはいるが、ヒールが折れていないことを確認して、ほっと息をつく。

 そんな私の手にぶら下がるパンプスを見下ろして、女将さんは「えらいハイカラな靴やねえ」と笑った。その、心から見惚れているらしい穏やかな目に嬉しくなる。


「いいでしょ、東京の三越でお母さんに買ってもらったの」

「お母ちゃんと東京行きはええねぇ。まめ葉ちゃんは元気にしてはる?」

「うん。組合の集まりで会わないの?」

「うちはもう、足がこれやさかいなぁ、堪忍してもろてんねん」

「……そっか」


 私が子供の頃からすでにおばあちゃんだった吉梅さんの女将さんは、いよいよその老女っぷりを極めている。曲がった腰も、濁った目も、上手く着られなくなったであろう乱れた着物も。それでも着物を纏おうとするその気概は、花街の女であるというプライドか。

 それでも、普段はワンピースのような簡単な服――この街の女はそれを謎に「あっぱっぱ」と呼ぶ――を着ていたはずだ。今日はお客さんがあるのだろうか。


 見上げた吉梅の二階からは明かりが漏れており、どうやら予想は外れていないようである。


「女将さん、お客さんほっぽって、こんな所でどうしたの?」

「いやぁ、それがなぁ」


菊花ちゃん、ひとつ頼まれてくれへんか?


「え?」


 女将さんの穏やかな笑顔。嫌ににこやかなそれを、私は知っていた。

 この街の女が何か無理難題を押し付けてくるときの、独特の笑顔である。




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