A Whole New World

藤光

なにもかもが新しい世界

「おれのは失敗やったなあ」

「なにがですか」


 先輩が応じるまでもなく、家保いえやすさんは話しはじめた。注がれだばかりのビールのグラスにまだ水滴はついていない。


「なにて。結婚や、ケッコン」


 居酒屋『よし来』の店内は客の多い割に静かで、間接照明に照らされた打ち放しのコンクリート壁も落ち着いた雰囲気を醸し出している。煮しめたような杉の一枚板の上にグラスが三つ。突き出しはオクラと豆腐の和え物だ。ぼくがここにやってくるのは今月に入って三度目、いや四度目かもしれない。とにかく『よし来』はいい店だ。


 ちびり。ビールを舐めるように飲む人は珍しい。顔のパーツがいちいち大ぶりな家保さんは豪快な外見とは裏腹に下戸だ。


「これから結婚っていう人の前でこう言うのもなんやけど、結婚はあかん」

「そうですか?」


 さっそく一杯目のビールを空けた先輩が右手をあげてみせて新しいグラスを注文した。そんな先輩は、家保さんとは逆になのだ。


「そうやで。女が旦那の前でええ顔をするのは、結婚してちょっとのまだけや」


 家保さんは『ちょっとのま』の部分を強調しながら、またちびりとグラスを舐める。その顔がもう、うっすらと赤い。


「若いうちは、結婚したら美味しい料理を作ってもらえたり、夜には女と飽きるまでセックスできたりすると思い込むもんやけど、嫁はんはジブンの母親やないし、ましてや、ただでデキる風俗嬢やないんやで」


 声が大きいよ、家保さん。あからさまが過ぎて下手に頷けない……。ほら、隣席の知らない女性たちがすごい目でこっちを見てる。


「毎日凝った料理を作れるわけもないし、子供ができてしまったら、旦那のことは二の次三の次。おれにはこれっぽっちの値打ちもないで」


 人差し指と親指で作る円環にわずかな隙間を作って『これっぽっち』をアピールする家保さんの愚痴は止まらない。


「勘違いやったんや。毎朝、高いびきの嫁を横目に起き出して、子供の汚れ物の入った洗濯機を回しながら自分の弁当におかずを詰めていると、いやでもそう気付くで」


 とにかく、奥さんがわがままなのだと家保さんは嘆く。


「ゴミ出しはしてくれたの? トイレの掃除はあなたの仕事じゃないの? 父親としてしっかり子供と向き合ってよ……って家にいたら、嫁はおれにあれこれ要求するばっかりや。いやになるで」


 愚痴が長くなりそうなので、先輩がまあまあとなだめにかかる手元には二杯目のグラスが空いている。ぼくが代わりに右手をあげて三杯目を注文してあげた。


 昨日も家保さんが仕事に疲れて家に帰ると、奥さんは子供とふたりテレビを見て大笑い。夕食を温めてくれる風もない――。仕方がないのでレンジでご飯を温め、ひとりで食べたらしい。


「なんのための結婚やねん」


 グラスのビールはほとんど減っていないにも関わらず、家保さんの目は真っ赤になっていた……。


 そこへ、電話の着信音――。

 着メロは『A Whole New World』。職場ではみんな知っている、このメロディは奥さんからの着信だ。家保さんはスマホをとった。


「もしもし……。うん、終わったよ。……そう? うん……わかった。帰るよ」


 奥さんと交わす優しげな声音は、さっきまでの家保さんのそれではない。やがて通話が切れた。


「嫁が熱あるって。子供を風呂に入れないと」


 誰を憚るのか小さな声でそう告げると、さっさとコートに袖を通して立ち上がった。


 飲んだビールに比べて多すぎる勘定と「ごめんな」という言葉を残して家保さんは『よし来』を去っていった。


「なんだかんだ言ってたけど、奥さんのとこへ帰っちゃったよ」


 へへっと子供じみた笑い声をあげると先輩はグラスを空けた。これは三杯目だったか、四杯目だったっけか。


「もうよした方がよくないですか」

「奥さん、すごい美人なんだ」


 聞いちゃいない。


「まだ幻想があるのさ、奥さんに。期待するから裏切られると腹がたつ。そうだろ」


 わがままなのは、付き合ってた頃から分かってたはずだと先輩は切り捨てる。むしろ、家保さんの方がずっとわがままだったとも。


「自業自得ってやつ。今じゃ奥さんのわがままに振り回されっぱなし」


「あかん」のは結婚じゃなくて、あの人自身さと、先輩は家保さんの結婚生活を勝手に総括してみせた。 


 そうだろうか。


 確かに、家保さんは結婚生活に不満があるんだろうし、先輩が言うようにわがままな人だったのかもしれない。でも、会社でのあの人は、細かいことによく気がつくし、人の嫌がる仕事も進んでやってる。今夜のことだって、取引先でミスしたぼくを見てて誘ってくれたんだ。


 わがままだった家保さんが、今のように変わったのだとしたら、それはある程度、更にわがままな奥さんのおかげじゃないのかな。


 結婚が失敗――?

 少なくとも、奥さんからの電話を聞いて店を出て行く家保さんの横顔は不幸せそうじゃなかった。家族の待つ家に急ぐお父さんの顔。ぼくは嫌いじゃないな。





 テーブルの上にグラスが三つ――。ふたつは空で、ひとつにはまだビールが残っていた。

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A Whole New World 藤光 @gigan_280614

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