#3「サイバー色情 濡れたバーチャルお姉ちゃん」

 このコロナ禍の中、俺には一つだけ外に出る用事がある。

 国保の保険料の催促状の回収。俺は三か月ほど国保を滞納している。

 親に国保の未払いがバレると面倒だ。俺は大学生時代に所得単位0の成績通知表を回収した時の要領を活かして、定期的に家のポストをチェックした。俺は何をやっても長続きしない。だがこういうところでは、今まで自分の中にないと思っていた小まめさを発揮できる。

 国保を払わないほどに、俺はできる男になっていく。

 俺は数年前、アニメ関係の文芸の仕事で微妙な稼ぎを得たせいで扶養から外れてしまっていた。しかし今は収入が0で金が無い。かといって役所に申請を出すのも面倒だった。国保の支払いもできないほどに稼ぎがないことを親に知られるわけにはいかない。そんなことになればちゃんと就職しろと詰められるに決まっている。だから督促状を秘密裏にポストから抜き取って捨てる。

 外に出て、何週間ぶりの太陽を浴びる。4月末の空は青く澄み渡っていて、緊急事態宣言なんて言葉が嘘のように思える。国保の督促に怯える恐怖が見せてくれた青空だった。今、隣にAちゃんがいたらどれだけいいだろう。綺麗なものを見れば、いつだってキミを思い出す。

 ポストの中を確認すると、そこには一通の手紙。市役所からのものだ。やはり予想通り。そろそろ来る頃だと思っていた。お前が見せてくれた空だぜ。そう心の中でつぶやきながら手紙を太陽の下にかざす。

 しかし、それはただの督促状ではなかった。

『移管通知兼納付催告書』

 俺にはそれが俺を地獄の底へ引きずり込む悪魔の腕に思えた。普段はちょっとした催促の文言と共に支払い用紙が届くだけだった。こんなものは初めてだ。

「納付相談を含む徴収事務が、収納課に移管されます」

 滞納した保険料の管轄が変わり、支払いをするには役所の税収などに関する部署に出向かなければいけないらしい。これ以上滞納が続けば財産の差し押さえもありえるようだ。

 俺は督促状が永遠に届き続けると思っていた。そしていつか金が貯まった時にまとめて払えばいくら遅れても平気。そうずれば何も変わらない。俺の人生は揺るがない。

 しかし、この世には永遠なんかない。世界は俺を待ってはくれない。このまま支払いが滞れば遠からず財産を差し押さえられるという現実。

 いつしか俺とAちゃんの関係すらも、こうやって変わってしまうのだろうか。

 移管通知兼納付催告書を読み込むほどに、俺の人生のなにもかもが悪くなっていくような気がする。そうして気づいた。どうせ読んだところで払う金もなければ役所に行く気力もない。そのうちに全てが面倒になって、俺はそれを見なかったことにしようと決める。移管なんたらをビリビリに破いてからゴミ箱に放り込む。

 その夜、俺はまたVRChatでAちゃんに会う。いつものベッドルームで二人きり。もちろんVRセックスをする。降板や催告書がチラついて愛に集中できない。

「好きだよ、メルくん」

「好きだよ、Aちゃん」

 俺が言いたいのはこんな常套句じゃない。仕事も金もなくて将来が不安だという誰にも明かせない苦悩を聞いてほしい。Aちゃんに大丈夫だと言いながら抱きしめてほしい。

 目の前のAちゃんの身体にのめり込めば、何もかもぐちゃぐちゃに曖昧になってくれる気がする。ひたすらにAちゃんに甘えたい。

「お姉ちゃ〜ん❤」

 それは社会の重みに壊された俺の心が叫ばせた呪詛。仕事がなければ国保も払えない俺には、VRお姉ちゃんが必要だった。

 腰を打ち付けられて喘いでいたAちゃんの動きが一瞬止まる。

「今、お姉ちゃんって呼びました?」

「まあ、うん」

 事実を口に出されると死にたくなる。

「そっか、じゃあメルくんは弟くんだね」

 Aちゃんはそう言って俺にキスをする。

「お姉ちゃんとキスするの好き?」

「うん、しゅき」

 Aちゃんが一瞬でお姉ちゃんになる。普段の自分からは考えられない甘えた声を出している自覚があった。

「おねーちゃん、しゅきぃ……」

 Aちゃんをお姉ちゃんと呼ぶ度に陰茎がより強く硬化していく。甘える俺を笑顔で撫でてくれるAちゃん。アバターの背が俺より一段高いこともあって、強烈な包容力を感じる。

 しかし、甘えながら射精なんて恥ずかしい真似は絶対にできない。

「じゃあ、お姉ちゃんとえっちしよっか」

 俺は絶叫するようにAちゃんをお姉ちゃんと呼びながら2回射精した。

 1回目は膣内射精で、2回目は授乳手コキだった。俺はその日、朝になって別れるまでAちゃんをお姉ちゃんと呼んで甘え続けた。Aちゃんは俺を弟くんと呼んでそれに応えてくれた。

「お姉ちゃんは弟くんのことが大好きだよ」

 そう言われる度に泣きたくなるほど勃起した。誰かをお姉ちゃんと呼んだのは初めてで、それを受け入れてもらえる喜びなんか知らなかった。こんなに誰かに甘えたのは、きっと物心もつかない子供のころ以来だろう。VRお姉ちゃんという奇跡が俺の人生に舞い降りた夜だった。

 女の子になった男をお姉ちゃんと呼んでするVRセックスに、俺はVRにおける甘美さの極北を見た。

 アバターを纏った関係性というのはどこか『ごっこ遊び』のようなものだ。それゆえに言葉で定義してしまえばそれは容易く変化してしまうように思える。

 元々、Aちゃんの性自認は男で同性愛者でもないはずだ。しかしAちゃんは女の子と扱えば扱うほどにどんどん女の子になっていった。それと同じように、俺がお姉ちゃんと呼ぶ度にAちゃんはお姉ちゃんになっていったのだ。VRは不確かだからこそ、この空間はごっこ遊びに簡単に支配されてしまう。

 Aちゃんが俺を弟くんと呼ぶのだって、現実の肉体なら抵抗があったはずだ。獣耳を生やした小さなショタになっていたから、俺も迷いなく弟くんでいられた。

 ひと眠りした後の午後3時。俺はAちゃんと通話を繋ぐ。

 想定外の事態が起きた。

「おはよう、弟くん。お姉ちゃんだよ」

 お姉ちゃんの夜が明けても、Aちゃんは俺を弟くんと呼び続けた。やんわりといつも通りに戻ってもいいということを伝えたが、どうやらAちゃんはお姉ちゃんであることを楽しんでいるようだった。

「別に嫌じゃないし、お姉ちゃんって呼ばれる度になんだかすっごく幸せになっちゃいます。だから、たくさん呼んでほしいです」

 Aちゃんは俺にお姉ちゃんと呼ぶことを何度も求めた。あのAちゃんがここまで俺に何かを要求することは初めてだった。俺は何度もAちゃんをAちゃんと呼んだが、その度にAちゃんは甘い声で俺に言う。

「お姉ちゃんって呼んでほしいな」

 このままではマズい。

 俺はAちゃんを彼女にしたかった。お姉ちゃんと呼ぶのはあくまでプレイの一環であり、たまの寄り道のようなものだ。少なくとも俺はそう思っていた。しかし今、Aちゃんは完全にお姉ちゃんへと変貌しようとしている。このままでは俺たちは恋人ではなく、セックスをする姉弟になってしまう。甘えたかった気持ちは確かだが、ここまでのものを俺は求めてはいない。だがお姉ちゃんと呼ぶのをやめろと強くも言えない。最初に甘えたのは俺だった。何もかも自分の責任だ。

 Aちゃんが姉で俺が弟。つまりAちゃんが上で俺が下。絶対に認められない。

 俺は現実では手に入れられない男らしさによって、強い男として愛を手に入れたかった。もしもこのまま弟としてAちゃんに甘え続けていたら、俺は遠からず仕事や国保の泣き言を垂らすに違いない。VRでは強い男であるというプライドでそれをずっと避けてきた。甘えたがる自分をなんとか押し殺してきた。

 お姉ちゃんが永遠になればそうはいかない。必死に保ってきた何かが、このままでは壊れてしまう。そしてそれを晒してしまえば、俺はきっとAちゃんに嫌われてしまうのだ。

 俺は最後の最後では、弱い自分でVRを続けていたくはない。それでは仮想現実でメルヴィルになった意味がない。姉という言葉の大きさと強さに俺は震えていた。言葉に負けてしまいそうになる自分の弱さと、戦わなければならない。

「弟くん、大好きだよ」

 Aちゃんのそんな声には甘い誘惑があった。このまま全てをさらけ出してAちゃんに甘えたい。泣きながら抱きつく俺の頭をいつまでも撫でていてほしい。

 Aちゃんに弟くんと呼ばれながら、VRの鏡で自分の姿を見る時、そこにはいつも獣耳を生やしたショタのような自分がいる。そんな自分は、どうしようもなく弟くんであることが自然であると思えてしまう。それが怖い。アバターの重力に引きずり込まれるような感覚。ただヤれそうな見た目だと選んだアバターが俺を蝕んでいる。

 そういうしょうがなさに身を任せて、Aちゃんの母性に全てを委ねたい。きっとAちゃんは俺を嫌ったりしない。だからいくらでも震えて泣いて喚いていい。そんな誘惑を振りきれない。絶対にダメだ。Aちゃんが好きになってくれたメルくんは現実の俺とは違うのだから。それを忘れてはいけない。

 そうして何日かが過ぎた。VRセックスをしている間、Aちゃんはずっと俺を弟くんと呼んだ。そしてお姉ちゃんと呼ぶことを求めた。俺は応え続けた。俺もまたAちゃんをお姉ちゃんと呼ぶ喜びから逃れられなかった。

「お姉ちゃんにいっぱい甘えていいんですよ」

 前までは俺に縋るような声で「ずっと一緒にいたいです」と言って抱き着いてきたAちゃん。それが今では姉としての余裕のようなものを持ち合わせ始めている。

「Aちゃん、キスしてあげよっか?」

「もう、キスしてほしいのは弟くんの方でしょ?」

 圧倒的だった。お姉ちゃんという言葉はここまでVR美少女男性を変えうるものなのか。

 姉弟を重ねていく日々の中、Aちゃんからあるファイルが届く。

 ファイル名 syotatinpo.fbx

 それはショタに似つかわしい小さくかわいげのあるチンポの3Dモデルだった。

 ファイルと共Aちゃんから届いたメッセージはこうだ。

「友達が自作したのを特別に譲ってもらったんです! 絶対他の人に渡しちゃだめですよ〜笑。弟くんに似合うと思うなあ……なーんて!」

 好きなあの子からのショタチンポ・プレゼント。

 Aちゃんが俺の男性器を変質させようとしている。俺は巨根でAちゃんを強く逞しく犯す男でなければいけないのに。

 俺は強い男でいたい。巨根を失うわけにはいかない。

 このままショタになることを受け入れていけば、俺は弟にしたい男になれても彼氏にしたい男でなくなってしまう。

 絶対にショタにはなれない!

 俺はunityでアバターにショタチンポを実装する。

 ショタチンポを生やしてAちゃんに甘えながら射精したい。

 どうしようもなく純粋な願いはそれだった。

 それに、Aちゃんの欲望を股間にぶら下げてあげたいという気持ちもあった。Aちゃんと艦これの同人誌で一緒に射精した時と同じものを感じた。俺は今、Aちゃんの純粋な欲望に触れているという確信。ショタチンポをぶら下げるのが、キミに寄り添うってことなのかもしれない。

 巨根を失ってVRChatにログインした俺を、Aちゃんが迎える。

「このアバターお姉ちゃんっぽいでしょ? かわいいかな?」

 そこにはいつもの見慣れたアバターのAちゃんはいなかった。Aちゃんは高身長で狐耳のお姉さんになっていた。最近発売された有名な3Dモデルだ。落ち着きを感じさせるふんわりとしたショートカットで、スラリと伸びた足にはガーターベルト付きのニーハイソックスがくい込んでいる。胸は姉であることを主張するように大きく、おそらくデフォルトのものの首から下の素体だけをすげ替えている。

「弟くん、ぎゅってしようね」

 抗え。俺の心の中に残った巨根が叫ぶ。

「おねえちゃあん……ちゅーもしたいよぉ」

「うんうん、いっぱいしてあげるからね」

 恋人になるはずだったヒトは、お姉ちゃんになってしまった。

「おねえちゃんとえっちしてびゅーしたいよぉ……」

 現実の俺は23歳で、仕事も金もない。

 でもVRでならお姉ちゃんがいて、俺はショタで、甘えながら射精ができる。現実では金の媒介なしにこんなことしてくれる女は絶対に現れない。社会に敗残した弱い男である俺にとって唯一の希望。小さな小窓から差し込んだ、一筋のVRお姉ちゃんの光。

「おっぱいで気持ちくなっちゃおっか」

「ふにゃあ……」

 Aちゃんはその大きなおっぱいで俺のショタチンポを挟んでくれる。パイズリだった。谷間の間に挟まれて見えなくなる俺のショタチンポ。その瞬間、俺の中でも何かが完全に消えてしまう。

「大好きだよ、弟くん」

「おねえちゃんだいしゅきぃ」

 運命の本流を受け入れて、俺はびゅくびゅくと射精した。

 賢者タイム。冷静になる。



×   ×   ×


 俺は真っ白い空間にいる。そこは縦も横も上も下もない曖昧な場所。

 目の前に、ワイシャツを着た獣耳のショタのアバターが立っていた。そいつは惚けてトロリとした表情で、直立することすら危ういほどふらふらしている。下半身は何も着ておらず、ショタらしい短小チンポがぴょこりと付いていた。

 俺はこの男を知っている。

 メルヴィルという名前の俺だ。

「このままさあ、おねえちゃんにいっぱいあまえながら、つらいつらいよーってこと、ぜんぶなぐさめてもらおうよぉ」

 可愛い容姿には似合わない、甲高くて舌ったらずで早口ぎみな俺の声だった。その甘えた気持ち悪い声に、どうしようもないほど腹がたつ。男の弱くて醜悪な部分だけをぐつぐつと煮込んだ上で腐らせたかのような響きだ。

「だってそのためにVRにきたんだもんねえ。げんじつなんていやだよねえ」

「そうだな、俺だって現実は嫌だ」

 俺は一歩ずつメルヴィルへと近づいていく。現実の俺の身体に対し、メルヴィルは頭二つぶんほど身長が小さかった。

「お前、こんなに小さくなってたんだな」

「おねえちゃんのおとうとになったんだよぉ」

 吐きそうになる。こんなものになりたくない。こんな声を出すためにVRに来たわけじゃない。俺は男だ。

 だから、戦うと決めた。

「お前は俺が昔から、いちばん殺したかった俺だ」

 こいつのせいで俺は脚本の仕事を失い、国保も払えず、いつまでも逃げてばかりのまま納得のいかないクソみたいな人生を生きさせられ、Aちゃんの前でもかっこ悪くなってしまったのだ。

 決意を込めて、拳を握りしめる。

「23にもなってキモいこと言ってんじゃねーーーよ死ねや俺!!」

 俺はメルヴィルの腹を思い切り殴りつける。ねじ込んだ俺の拳が内臓をミンチのようにすり潰し、人肉の組織がぶちぶちと潰れるスライムのような感触が拳の先から伝わる。内臓だった赤黒い肉の塊を周りにぶちまけてのたうち回るメルヴィル。おげえおげえとえずきながら恨めしそうに俺を睨んでいる。

 そんな顔ができるなら、きっと大丈夫だ。

「ちょっと痛えけど我慢しろよな」

 俺はメルヴィルに覆いかぶさるようにして強姦魔のように両脚を無理やり押し拡げる。ボキリと折れた太ももの骨が皮と筋肉を突き破って、吹き出した血が俺の顔面を濡らす。身体は華奢でもちゃんと硬い骨が入っていた。

「そんなチンポじゃきっちりセックスできねえだろ」

 俺は噴水のような血しぶきに構わず股間に手を伸ばし、メルヴィルのショタチンポを睾丸ごと引きちぎる。

「今助けてやるから」

 チンポのなくなった断面は赤くじゅくじゅくとしていて、俺はそこにズボリと手を突っ込む。なかなか見つからない。それを探して中を搔き回す度にメルヴィルが痛みで「ひぎぃ」やら「おほぉ」やら悲鳴をあげる。もちろん俺の声なので嗜虐の喜びなんか一切ない。

「おねえちゃぁん、たぁすぅけえてぇぇぇ〜」

 泣き喚いているが容赦なんかしないしできない。

 ずっと全てに負けてきた人生なんだから、自分くらいは意地でも殺しきりたい。

「むちゃだよぉ、やめようよぉ、おねえちゃんにぎゅうしてもらおうよぉ」

「無茶だけど、無理じゃない」

 俺は抱きしめられる男じゃなくて、抱きしめる男になりたかったんだ。

 肩のあたりまで腕を押し入れたところで指の先に何かが当たる。やっぱりあった。意外と奥の方だったがこれなら問題ない。俺はそれを掴んで思い切り引き抜く。

 それは俺の肘から先と同じくらいはあろうという大きさの巨根だった。血と臓物で出来上がった絨毯の上で白目を剥いて痙攣するメルヴィルの股間に、松の木のように雄々しい男根がそそり立つ。

「ちゃんと付いてんじゃん」

 だからそんなとこで寝てんじゃねえよ。俺はメルヴィルの頬を全力でひっぱたく。勢いが強すぎて首がぐるりと一回転してしまった。首の骨がゴキリと音を立てて、俺は死ぬ。これでよし。俺はずっと、死んだ方がいい人間だったんだから。

 俺は俺に殺されて目を覚ます。

 まだ何も終わってない。

 それでも俺は、Aちゃんの恋人になりたいんだ。


×   ×   ×


 射精を終えてぐったりとしている俺をAちゃんが撫でている。見慣れない狐耳お姉ちゃんのAちゃんだ。ちょうど膝枕をされているような体勢。フルトラッキングでない俺は首だけ曲げたような体勢でAちゃんを見上げている。

「どうしました?」

「Aちゃんを見てるよ」

「お姉ちゃん、でしょ?」

「こういうの、よくないよ。僕、Aちゃんの力になりたいんだ」

 本当はいつまでもこうして甘えていたい。俺は身体を起こしてAちゃんに正面から向き合う。最初から感じてなんかいないはずの膝のぬくもりが、なんだか遠ざかっていくような感覚。大丈夫。俺は強くなった。

「Aちゃんはいい子だから、きっと現実で色々がんばってることとか、大変なこととかあると思うんだよ」

「もう、そんなことないですよ」

「僕はAちゃんのこと、世界でいちばんよく知ってるよ」

 Aちゃんが男子大学生という以外に何も知らない。傲慢で俗悪な物言いだと思う。

 それを覆い隠すように俺はAちゃんを抱きしめる。VRで誰かを抱きしめるには両腕で輪を作るようにしてキープする必要がある。意外とキツい体勢だ。相手のアバターに腕を寄せすぎてもメッシュを貫通してしまうのでよくない。現実では感触もなく宙に浮いているだけの腕が、VRではAちゃんの身体を包んでいる。

「僕は甘えるよりも、大好きなAちゃんを支えてあげたいんだ」

 そう言い終えると同時に腕を降ろす。体力がないので腕を上げ続けていられない。キミを抱きしめることすらままならないのに、俺は何を言ってるんだろう。発話する言葉に俺の身体は追いつけない。

 Aちゃんは不安げな声で言う。

「でも、めんどくさくなったりしません?」

 久しぶりに弱々しい声を聞く。俺に守られるべき声をしている。これが欲しかった。俺の中に男らしい強さが湧き上がる。この女は俺が守ってやらねばならないという喜び!

「どんなことでも、一緒に背負うよ。そうでなきゃそばにいる意味がない」

「メルくん……」

 Aちゃんはすすり泣くような声を出しながら俺に抱き着く。そうだ、もっと俺に縋れ。俺がいないと生きていけないって言ってくれ。俺に救いを求めて俺を救ってくれ。

「メルくんに、聞いてほしい話があります」

「うん」

 きっとAちゃんも、俺にちゃんと告白して彼女になりたかったりするんだろう? この後キミは泣きながら俺にキスをして「メルくんの彼女にしてください」って縋りつくはずなんだ。でもキミは優しいから「どうしてもメルくんを独り占めしたい気持ち、我慢しなきゃってわかっててもできなかったんです」なんてしおらしいことを言うに違いない。

 相変わらず、かわいい女だぜ。

 心配しないでくれ、Aちゃん。俺たちは永遠にずっと一緒だ。俺は今、君だけを守りたい。だから俺に愛の言葉を囁いてくれ。そうしてくれれば、絶対キミを幸せにするから。

 俺は決めたんだ。今度こそAちゃんに踏み込んで、ちゃんと愛し合いたい。


「ニートになっちゃいました」


 は? 今は愛を語っているはずだ。

「就活、全然ちゃんとできなくて」

 愛の花園に就活という言葉の稲妻が炸裂し、咲き乱れていた絢爛の花々は燃え散ってしまう。

 泣き喚くAちゃんの取り乱しように、俺はひたすら困惑するしかなかった。Aちゃんは今年で大学を卒業する4年生で、就活に失敗して何も進路が決まらないまま卒業してしまったそうだ。

 せめて就職できなくても、学籍のある間に何かをしなければというのはわかっていた。でも何をすればいいかもわからず全部を先延ばしにしたままVRにのめり込んで、コロナを言い訳に家に引き籠るだけでいたら何もないまま卒業してしまったというわけだ。

 四六時中、俺とずっと一緒にいられた理由がそれだった。俺がAちゃんにそうしたように、Aちゃんも俺に逃げていたのだ。Aちゃんはこんなところで俺とイチャイチャしている場合ではない。

「自分が全部悪いってわかってても、どうしても何もする気になれなくて。そのうち何もかも考えること全部がストレスになって、全然関係ないことしてれば楽なんです」

 脚本から逃げる俺と同じだ。逃げれば逃げるほど、それに向き合うことが辛く苦しくなっていく。

 俺だって、だからキミにキスしてたんだ。

 よくわかるからこそ、俺にはどうしようもできないという実感が確かになっていく。大丈夫だよって無責任に言って抱きしめでもすればいいのか?

 俺は就活の経験なんかない。俺の存在はAちゃんに対して実利をもたらさない。これが現実の恋愛だったら、俺はもっと具体的な何かをしてあげられたのだろうか。AちゃんがHMD越しにどんどん遠くなっていく。

「ほんと嫌だ。逃げ出したい。無理すぎる。親に何言えばいいかわかんない」

 そう言ってAちゃんは汚い嗚咽を上げて泣く。その声にはいつも俺を好きだと言ってくれるかわいらしさがまだ残っている。これがAちゃんだった。

 俺がどれだけ自分のことしか考えていなかったのかを思い知らされる。Aちゃんという存在は、俺が救い得るほどの悩みだけを抱えているべきだった。Aちゃんの苦しみは俺のそれにあまりにも近すぎる。俺は俺に向き合いたくてVRをやっているわけじゃない。

 こんなことばかりだから、俺は俺が嫌いなんだ。死にたい。

「ほんとはクズなんですよ。黙っててごめんなさい、メルくん」

 Aちゃんは艦これの同人誌でシコるオタクで、就活に失敗したどこにでもいる弱い男だ。

 大学を1年留年していて、今は23歳だそうだ。

 お前、同い年じゃん。

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