第1話 古河さんと駅のネズミ(後編)

 その日以来、私が木曜日に終電で地元駅に着くと、決まってそいつは現れるようになった。


 私が視える霊は日々変わる。 だから視える日と視えない日があるのが、そもそも異常だけれども正常。しかしあいつだけは何故か例外なのだ。私が木曜日に深夜残業して終電に乗ると、決まって現れる。


 思うに、私のルールを越えた、なんらかの別なルールがあるのだ、あいつには。



 ───そういうことであれば、話はもう簡単。


 木曜日はその駅を使わなければ良い。手前の駅で降りて歩けばいい。そりゃあ、家まで少し遠いけど。夜道が恐い、なんて歳でもない。なんならトートバックの中には、会社で配られたピーポ君を模した防犯ブザーや、防犯用の唐辛子スプレーだって入っている。


 最悪、もし降りてしまった時も、いつぞやのように誰かが改札前を先に抜けてくれれば、その人を囮にして、私は横をすり抜けることが出来る。ちょっと罪悪感もあるけれど、他の人達にはあの四足が視えてないんだから、べつにいいよね。

 

 ……と、自分ではしたたかな女のつもりで、万全の構えをとっていたはずなのだけれど、疲労というのは、げに恐ろしい。


 終電という安心感もあり、今夜はあろうことか、私は1つ前で降りなければならない駅を寝過ごしてしまった。

 だって昨日も終電だったんだよ? 例によって夕飯も食べられなかったので、ダイエットには成功しそうだけれど、元気は出ない。


 でもそれだけなら、一つ先の駅で降りればいいだけの話。


 だというのに、寝過ごしたことに慌てた私は、次の停車駅のアナウンスを聞いていながら、ご丁寧にわざわざいつもの最寄り駅で降りてしまった。私、馬鹿なの? 本当に私はこういうところが、抜けている。


 車両のドアが開き、ホームに降り立った時にそのミスに気がつくと、背後ではホームの転落防止ゲートが閉じる音が聞こえる。あぁ、もう戻れない。 目の前にはいつもの夜の駅ホームがあり、自分のポンコツ加減にため息をひとつ。


「ふーっ。」


 やっちゃったな……


 幸い今夜も、この駅で降りる人も、私以外に何人かいるようだ。


 うん、これなら大丈夫。

 もしかして、あの霊よりも、私の方がよっぽど腹黒いんじゃない? という小さな良心の呵責かしゃくも一瞬頭をよぎるけれど、そこはぶんぶんと頭を振って意識をはっきりさせる。


 とりあえず帰りを急ごう。ホームでまったりなんてしてたら、先に降りる人がいなくなってしまう。


「きゃっ!」


 不純な動機で眠気を吹き飛ばし、足早に歩き始めた私の前に、視界の隅にあった自販機の影から、小さく黒いなにかが飛び出してきた。それは、前を歩く人が、自販機に近づいたのを驚いたか、飛び出してきた黒いネズミだった。


 年甲斐もなくネズミ如きで、叫んでしまったのは不覚だった。周りに殆ど人がいないとはいえ、やはりそれなりに恥ずかしい。まだ心臓はどきどきしている。


「大丈夫ですか?」


 前を歩いていた女性が、小走りで歩み寄ってきた。でも多分、自販機からネズミが這い出てきたのは、この人が自販機に近づいたせいだ。


「は、はい。ネズミが突然向かってきたので、驚いてしまって。」


「汚いですものね、ネズミ。私もああいうの、大嫌いです。」


 女性は眉根を寄せて、私の意見に同意した。

 嫌いな割には驚かないのかな? どうにも少し納得の出来なかった私は、続けてたずねてみることにした。


「自販機の下から、あんなのが飛び出してきたのにあまり驚かないんですね。」


 そう。前を歩いていたこの女性は、自販機の下から飛び出してきたネズミを、一向に介さず通り過ぎていた。タイミング的に、ネズミが自分に向かって飛び出してきたことには、絶対気がついていたはずだ。


「ええ。私、ああいうのにはので。

 ん? そういえばあなたは……この時間によくお見掛けしますね。私からもひとつ聞いていいですか?」


「えっ。は、はい。」


 唐突に尋ねられたので、返答の声が裏返ってしまった。


「いつも……私の先を歩いていても、わざわざ私の後から改札でてますよね? あれはどうしてですか?」


 まずい。この女性は、何度かおとりとして先に行かせている人だったみたいだ。この終電の時間に会うのだから、顔ぶれが変わらないのも当然か……


「えーっと、実はですね……深夜なので、人に後ろから付いて来られるのが少し怖いんです。以前、変質者に追いかけられたことがあって……」


「そうでしたか。てっきり私…… いや、やっぱりいいです。そういうことだったんですね。」


 取り繕うような苦しい言い訳。なんかひっかかる物言いをされたけど、きっと誤魔化せた。うん。たぶん大丈夫。うまく言えた。


 見れば、すっと通った鼻筋に黒目がちな眼。それが、すーっとこちらを値踏みするように細くなると、慣れていないような、ぎこちない微笑みを作る。あれは……会釈のつもりだったのかな?


 ともあれ彼女は私から離れていく。きっとそのまま帰るのだろう。


 私より先に階段を降りて、改札に向かっている。


 申し訳ないが、この機を逃すわけにはいかない。少し距離を置いてから、続いて階段を降りると、改札に向かっていく彼女の背中が見えた。よくみれば、季節外れのワンピース。


 こうして、少なくとも数度、彼女の背中を見ているはずなのに、私は全然彼女についての記憶が無い。

 

 そもそも私は普段から、人の顔と名前の覚えが悪いほうだ。

 とはいえ、あちらは私のことに気がついているようだった。こちらもひっそりと酷いことをしているとはいえ、こちらが知らない人に顔を覚えられているというのは、なんだか、すごく居心地が悪い。先程の黒目がちな眼が脳裏をよぎる。


 そんな背中の先には、いつもの黒い煙と、コインロッカーから這い出してくる四足の黒いアレがいる。毎度のことながら、律儀に出てくるものだ。たまには休んでくれてもいいのに。


 私はいつものように、それを視界の隅に入れつつ、彼女を抜かしてしまわないような速度で慎重に歩みを進める。そう、いつものように、そっと。


 (────カツン、カツン)


 終電が去った改札前は、殆ど人気がない。


 前を行く彼女の紺色のヒールだけが、改札前のコンコース床を鳴らしている。かたや私の小洒落た安いサンダルは、ぺたりぺたりと低く冴えない音を鳴らすばかりで、歩いても殆ど足音がしない。


 改札を出た彼女の足に向かって、コインロッカーから這い出た黒塊は、音もなく、ねぶるような黒いもやに包まれた手足で、するすると近づいてゆく。


 ひときわ黒い中央のなにかは、明らかに口のようなもの開けて、彼女の足に噛みつかんとしている。いや、もう足先に噛み付いてしまっている。


 片や彼女の方は、足先に噛みつかれている?にも関わらず、いつものように這い寄る黒塊を意に介さず、蹴散らし、踏み潰すように歩いていく。


 彼女が数歩歩いてコインロッカーの前を離れたところで、まるで粘度をもっているかのように、そんな彼女の脚に未練がましくまとわりついていた黒い煙は、黒塊がずるずるとロッカーに戻っていくのにあわせ、薄くなり、消えていく。


 わざとゆっくりと歩きながら、そんな様子を後ろから伺っていた私は、少しほっとしながら、静かに改札を抜ける。定期券が使用されたことを示す、改札ゲートの液晶板が、薄暗い改札では明るい光に見えた。


 うん。ここまで歩けばもう、大丈夫──


 改札を抜けた先はすぐに屋根が無くなり、小さな駅前広場に出る。左に出ればバスターミナルに出るが、こんな時間ではもうバスを待つ人はいない。片やタクシー乗り場には、小さな行列が出来ている。私はそんな様子を横目に、中央の商店街を抜けて帰るのが、いつものコースだった。


 ──ただ、今夜はちょっと違った。


 駅出口で彼女は、私を待ち受けるかのように佇んでいたのだ。


 黒目がちな眼は、相変わらず笑っていないようにみえるのに、口元だけが微笑むように曲がっている。彼女は、そんな作り笑顔のまま、私に言った。


「やっぱり、貴女にも視えてたんですね。あのガキ、捨てたはずなのに、いまだに出てくるんですよ。」


 そう告げた後、女はすぐに俯いて立ち去ってしまったので、その後の彼女の表情は、はっきりとはわからない。正直、眼をみて話を聞き続けるのはつらかったので、むしろこの場合は有り難い。



 夜の駅出口は、明かりがあるとはいえ薄暗く、少し笑っていた?ようにも今は思える。


 駅舎を出ると、冷えた夜気が頬に当たり、否が応でも今が深夜だということを意識させられる。


 ──もっとも、もう既に充分に気持ちの方は冷え切っていた。


「やっぱり、視えてる連中の方が、余程たちが悪い。」


 誰に言うのでもなく、人通りの無い商店街での帰り道に、私は独り毒づいた。


 彼女にどんなことがあったのか、果たして、言っていることが本当なのかは私にもわからない。

 それが事実であってもなくても、ああいうことを笑顔で言えている時点で、彼女の人柄は推して知るべしだ。


 私は、それ以来、木曜日の残業を鉄の意志ですべて断り、定時に帰宅するようにしている。例のロッカーも早い時間に帰る分には、ただのロッカーでしかない。


 ダイエットの方は失敗続きなのだが、それについてはまた別の機会に。

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