古河さんは昨日の霊が視えない

かたなかひろしげ

第1話 古河さんと駅のネズミ(前編)

 深夜のT駅では、24時を回る頃には、下り電車から降りてくる人もあまりいなくなる。日中に容赦ない日差しで熱せられた駅のホームは、まだじんわりとその熱を足元に漂わせているが、夜に吹く初夏の風が良い暑気払いとなっていた。


 そんな深夜の駅に降りた人達も、時間が時間だけに、家へと帰る道のりを急ぐだけであろう。だから、深夜の駅に長居する理由などあろうはずもない。


 ───とはいえ、それも駅から簡単に出ることができれば、の話ではあるが。


****


 都内から横浜まで走るT横線の中でも、急行の止まらないこの小さな駅は、横浜近郊のベッドタウンに面しており、駅前にはあまり大きくない寂れた商店街のようなものがある程度。


 だから終電が着く深夜ともなれば、駅前は人通りも急に減る。あまり栄えていないだけに、治安はそれほど悪くない。なにせ深夜に遊び歩く場所がないため、遊び歩く人自体が少ないのだ。田舎駅万歳である。


 かくいう私も、この駅を最寄り駅として使用している一人のOLだった。今日も深夜残業で疲れきった身体を引きずって、ようやくこの駅に辿り着いたところなのだ。


 夕食をとる時間も無かったので、帰り道を急ぐ足元も、いささかおぼつかない。隣の席の後輩君がかじっていたブラックサンダーを、素直に一個分けてもらえば良かったかと、後悔してももう遅い。


 「今日も疲れたー。」


 残業中には我慢していた心の声が、社のビルを出た途端に大声で漏れてしまった。おばさんっぽいから止めなよ。と、同僚にはよく笑われるが、子供の頃から、独り言がつい口から出てしまうのは、私の悪い癖だ。これでも社内ではクールなキャラで通しているつもりなのだが、自分でもところどころ脇が甘いと思う。


 ともあれ。早く食事もしたいし、なによりシャワーを浴びて化粧を落とし、すっきり気分で、ソファーでごろごろしたい。

 時刻は24時を過ぎてしまったから、カレンダー的にはもう金曜日。あと一日働けさえすれば、待望の週末がやってくる。


 ───早く帰りたい。


 そんな私の単純な願いは、今日も思わぬ相手に邪魔されている。

 何を隠そうこの時間になると、この駅にはあまり会いたくない奴が現れるのだ。


****


 ────私、古河 透子は、子供の頃から、いわゆる「霊」の視える子だった。


 小さい時分には、随分とこの中途半端な霊視のせいで、周囲から怪しげに見られることも多かった。そのおかげで小学校を出る頃には、もうすっかり、いわゆる「自称・霊が視える」子は卒業していた。たとえ視えていても、それを正直に周りには言わない方が良い。と子供なりに学んだのだ。


 成長して思春期になり、霊なんてものが実在するわけはない、という説が世間一般では常識だと知るに至り、随分とひとり勇気づけられた。


 けれども、どんなに科学や常識で自分に言い訳を重ねてみても、実際に目の前に視えてしまっているものには、どうにも明確な理屈がつけられない。それがたとえば、私が幻覚を視ているだけだったとしても、その理由が知りたかった。


 かくしてそんな「痛い子」であった幼少期には、それなりに世間の波にしっかりともまれ、中学を卒業する頃には、私は「自分ルール」を策定することで、自分の霊視能力と、いわゆる世間体のバランスをうまく保つようになっていた。


 ────ルール1。目の前に現れる霊達が、たとえ自分の心が作り出した幻覚だったとしても、生理的嫌悪を感じるものには、そっと近寄らない方がいい。


 そんな自分ルールを決めなければならない程度には、私もそこそこ恐い目にもあってきたのだ。もちろん、思い出したくもないものも数多くある。


 更に困ったことに、私のこの自称「霊感」は、私自身の性格の影響によるものなのか、相当に不安定なのだ。


 その不安定さといったら、昨日視えた霊が今日視えるとは限らない。今日視えている霊が明日は視えないかもしれない。といった有様で、これを私は「日替わり霊視」、と勝手に名付けている。まあ、自分の問題だから勝手でもないか。


 とはいえ、そんないい加減な霊視でも、そのおかげで今まで何度か窮地を救われたこともあったし、反面、ピンチに陥ったこともあった。もうこれが、私の妄想なのだとしても、一生付き合っていくしかないんだろうなあ、と腹を括って今に至っている。


 だが実はここ数ヶ月、そういうことに慣れている私ですら、少し頭を悩ませているものがあるのだ。


 深夜になると、この駅の改札そばに、霊らしき「なにか」が出るのだ。


 そう、今いる、この深夜の最寄り駅だ。


 決まってそいつは深夜になると現れるようで、定時であがった時には視たことがない。終電間際の改札にだけ、それは決まって現れる。


****


 ────私がそいつを見掛けたのは、およそ三ヶ月程前。


 ちょうどその日も今のように、長引く深夜残業からようやく開放され、この駅に辿り着いたところだった。いつもなら、駅を出てすぐそばのコンビニで、安いテーブルワインと適当なチーズを買って、足早に家に帰る。それが私のささやかなルーティンだ。


 電車から降り、駅のホームに立った時は、さして嫌な空気などは感じない。


 絶賛ダイエット中の私は、いつも通り快適そうなエスカレーターを華麗に横目でスルーし、その先のホームの階段をゆっくり降りて、改札前の通路に辿り着く。ちなみにこれは、下り階段は急いで降りずに、ゆっくり降りた方が筋トレになると、友達のしほちゃんがドヤ顔ながらに教えてくれた知識を、そのまま実践している。


 駅構内から改札に歩いていくと、改札横の壁に設置してあるコインロッカーが目に入る。よくあるタイプの普通サイズのコインロッカーだ。


 だがしかし近づくにつれ、そのコインロッカーが、薄黒い煙のようなものに覆われていることに気がつく。深夜とはいえ、改札前はまだ駅構内。それほど明るすぎない程度に明かりは点いており、見紛うはずもない。そこに漂っているのは、照明が作り出した影などでは決してない、不自然な漆黒。


 例えばそれが、もしただの黒煙であるならば、そよぐ風に煽られ、動いていそうなものだが、その黒塊はねぶるようにコインロッカーの前で不規則に渦巻いている。渦の中心には、子犬ぐらいの、より黒い塊がうごめいており、周囲の黒い煙のようなものは、それから発生しているのが見て取れる。


 普段、色々と霊の類いを視てきた私からみても、あれがよくないものであるというのは、ひと目でわかる。あれは近寄ったらダメなものだ。きっと、ろくなことにならない。


 何故、コインロッカーから霊が出てくるのかは、敢えて考えたくもないが、あそこに憑いている、ということは、少なからず死んだ場所があそこであると想像するに難くない。更に、ロッカーに入れられた時は、多分生きていたであろう、などと余計なことを考えると、そのおぞましさに身が固くなる気がした。


 目の前に突如現れた黒い塊にひるんだ私が、改札前通路で歩みを止めていると、私より後ろの車両から降りた人が、おもむろに私を追い抜いていく。あのまま、まっすぐ歩いて改札を抜ければ、間違いなく問題の黒い塊の直前を、横切ることになるだろう──


 前を歩くそのスーツ姿の女性は、改札にカードをかざし、開かれた改札のゲートを足早に抜けていく。


 (────ぺたっ。)


 すると、ロッカーの前の黒い塊から、ぬるっと手足のようなものが生えてきて、遂には四足になり、這いずるようにその女性に近づいていく。その動きは、水辺の爬虫類のように滑らかで、素早い。


 前を歩く彼女はそれが視えていないようだ。

 まるでそこには何も存在しないかの如く、這いよってきたそれを、履いている紺色のヒールで蹴り飛ばすように通り抜け、駅の外へ歩いていってしまった。


 あっけにとられて背後からその様子を視ていた私をよそに、這いずっていた四足のそれは、所在なさげにロッカーへと引き返してゆき、程なく黒煙もろとも霧散した。もうロッカーの前にはなにもない。


 私は視たくもないものを、視てしまった。

 あの四足は……明らかに彼女に噛みつこうとしていた……


 「あれはさすがに無理……」。


 その日は駅を出るのに、問題のロッカーから一番離れたところにある改札を抜けたのは、言うまでもない。なにしろ駅の出口はこの改札しかないのだ。


 実害があるのかどうかもわからないが、たとえ無かったとしても、あんなものには絶対噛みつかれたくはなかった。考えただけで体中の毛穴が粟立ってくる。



 ──とはいえ、私のそんな些細な決意も、数日後にはあっさり瓦解することになったのだが。


(後編へ続く)

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