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その後の一週間は、特に何事もなく過ぎた。新しい学年になると畳み掛けに訪れるイベントもひと段落して、通常授業が始まって教室も少しずつ賑やかになっていった。当然といえば当然なんだけど、相原とは身体測定以来会話がなかった。

週末の金曜日。次の授業は化学だったんだが、俺はあいにく前の授業で眠ってしまっていたらしい。たしか実験で化学実験室に移動なんだったな。梨紗と歩も起こしてくれればいいのに。意地悪な奴らだぜ。俺は大きく伸びをしてから移動の準備をした。授業が始まるまであと三分もなかった。化学実験室、四階だから遠いんだよな……軽く走れば間に合うかな。

そう思いながら席を立つと同時にガラッと教室の扉が開いた。現れたのは相原だった。どうやら急いで来たらしく若干頬が上気している。

相原はこちらに気づくと、ふっと目をそらした。……そりゃそうだよな。あられもない姿を見られた好きでもない男なんざ嫌いの方にメーターが振り切れてもおかしくない。俺は心の中でバク転からの土下座をキメながらいそいそと席を立ったのだが、相原は何を思ったのかこちらに声をかけてきた。

「あの……松島くん」

相原は何か言いにくそうにつま先をもじもじさせている。

「え?はい」

「その……この前はごめんなさい!」

相原は、あろうことか頭を地面につきそうな勢いで下げ、俺に謝ってきた。

「いやいや、あれは俺が不注意で開けたから俺が謝るべきことだよ。あの時は本当にごめん」

「私、思い込みが激しいところがあって……」

「もう全然気にしてないから大丈夫だって」

良かった〜。相原はどうやら怒っていなかったらしい。そういえばと思い出したことがあるので俺は相原に聞いてみることにする。案外早く質問の機会が回ってきたな。今思えばだけど、多分これが『魔が差した』ってやつなんだろうな。口に出した数秒後には死ぬほど後悔した。

「そういえば一つ聞きたいことあったんだけどいい?」

「うん、どうぞ?」

「相原ってさ、『ゆめこ』って名前でツイッターやってる?」

「 」

相原は笑顔のまま固まっていた。彫像のように微動だにしない。俺も笑顔のまま動くことができない。この教室の時が止まった。それは太陽を失い、世界の全てが凍ってしまったよう。窓の外からは体育の準備をするクラスの歓声が、廊下からは慌ただしく廊下を歩く音が、壁の向こう側からは楽しげな談笑が聞こえてくる。ただこの空間だけが静かだった。

いやいや、落ち着けよ。俺は「『ゆめこ』?なあに、それ?へんな松島くん」とか、「ごめん私そういうのには疎くて……」みたいな反応を予想していたんだが……。この空白は一体なんだ……?

考えられる線は二つしかない。一つ。相原はたまたま『ゆめこ』というアカウントとその内容を知っていて、その話を振ってきた俺に失望している。もう一つは……本当に『ゆめこ』って名前で相原がやってる。まさかな……。だって相原は見るからに真面目で誠実そうな女の子だ。『ゆめこ』さんの投稿内容とは見るからに正反対。とりあえず落ち着いて深呼吸しよう。

キーンコーンカーンコーン。

ちょうどいい具合にチャイムが鳴ったので俺はこの話を切り上げることにした。

「いやごめんな、なんでもないよ。忘れてくれってちょっと相原さん⁈」

「もうだめだ終わった終わった死ぬしかないさよならマジ無理リスカしよ」

相原は絶望をそのまま顔に貼り付けたような表情をしていた。目が虚ろでひたすら何かぶつぶつ呟いている。

「落ち着け相原、頼む落ち着いてくれーーーーーー‼︎‼︎‼︎」

そこから必死のフォローをして、筆箱からカッターナイフを取り出そうとする(なんてモン持ってるんだこいつ)相原をなだめ、一五分ほどしてひとまず発作(?)はおさまった。今から実験室に行っても班員に迷惑をかけるし、何より先生に怒られる。心の中でみんなに謝っておく。ごめん。……とりあえず相原に話を聞くとするか。

「なぁ相原?」

「はっはひっ⁈」

テンパりすぎだろ……。

「さっきの話なんだけど」

「さっきの話を秘密にしてやるから私にエッチなことしてもいいかって?」

「ちっげーよアホ‼︎」

梨紗に聞かれたらどうするんだっつの⁈控えめに言っても一〇回くらい殺される。のっけからトばしすぎだろこいつ。俺の麻雀レベル。隼人たちとやるといつも飛ばされるんだよなぁ。なんでだろ。それはさておき。俺は気を取り直してもう一度聞く。

「そうじゃなくて……お前、本当に『ゆめこ』なの?」

「……………うん」

マジか〜……。想像以上の超展開だぜ……。一生会うことはないって断言したばっかなんすけど……。全米もひっくり返るわ。トランプが選挙で勝っちゃうレベル。それ実現したじゃん……。それよか、俺はクラスの隣の女の子にエロいな……って思ってたんだな。なんてこった。

「あ〜、OK」

「全然OKじゃないよぅ⁈」

取り乱す相原。まぁ普通に考えればそうに決まってるな、うん。全然OKじゃないわ。

「すまんすまん」

しかしこのどう見ても内気で大人しめな可愛らしい女の子がフォロワー五二一六人のメンヘラ?……いやいやまさか。三年前の田舎の女の子と入れ替わってるって言われたほうがまだ信じるぜ。中学の時、寝てる間にノートに「お前は誰だ?」って書かれて胸キュンしちゃったもんね。隼人絶対許さん。俺の顔見て大爆笑しやがった。俺のこと騙しやがって。

「絶対広めないでお願い‼︎エッチなお願いでもなんでも聞くから!もし広めたら松島くんが私に無理やりエッチなことしようとしてきたってあることないこと全部先生に言ったあと広めるから」

「あることないことどころか一つもやってねーよ!てか最後脅迫じゃねえか……。とりあえず冷静になれ‼︎俺は別に広める気はねえよ」

「本当?マジ?ほんとにほんと?」

「マジだから……」

「いやでもいつ裏切られるかわかんないし……」

こいつ、人間不信すぎるだろ……。前世で配下に下剋上でもされたのか?

「何すれば信じてもらえるんだよ……」

「とりあえず発信機と盗聴器を体に埋め込んでもらえれば……」

「んなもん誰も持ってねーよ‼︎……はぁ、とりあえず連絡先教えてやるから、それじゃダメか?」

「まぁギリギリ……」

それでギリギリかよ。てかなんでいつの間に立場逆転してんだよ……とは口に出せず、渋々スマホを差し出した。相原をそれを受け取るとしばらくぽちぽちと自分のスマホに打ち込み、俺に返した。

「さて、俺のターンだ」

「……はっ、まさかエッチな」

「だからしねえつってんだろ‼︎」

エロいこと頭から離せ‼︎こいつ実は望んでない?違う?違うか。

「まぁ……その、なんだ……なんであんなことやってんのかなって」

「や〜その……なんとなく?」

「なんとなくって……」

「なんか投稿したらみんな構ってくれるし優しいし嫌な奴はすぐにブロックすればいいし……」

「そんなもんかねぇ……」

相原は、客観的に見て普通に美人だと俺は思う。その気になれば学校でもそういう奴はいくらでも作れそうなもんだが……。俺の考えを察したのか、相原はスマホを軽く掲げて続けた。

「学校とかだとさ、嫌なことあっても離れることって無理でしょ?でもこれなら結構気軽にできるから」

なるほど、それには一理ある。俺もSNSを通してできた友達は何人かいる。いるが……。

「寂しくないの?」

「学校の寂しさよりも嫌なことがもしもあった時の方が嫌っていうか……」

相原は少し困り笑いを浮かべて、続ける。

「承認欲求?っていうの?なんか結構あっさり満たされちゃってさ、まぁもうこれでいいかなって」

「そんなの̶̶̶ 」

寂しすぎる、と続けようとした俺の声は、相原によって遮られた。

「寂しいって思う?でもどうしようもなくてさぁ……それとも、松島くんがその分の承認欲求を満たしてくれる?」

今度は寂寥と悲しさの少し入り混じった顔で笑う。

実際、俺にはきっと無理なんだろうなと思う。つい一週間前に知り合ったばかりの覗き魔には荷が重すぎる。

それでも、それでもだ。悲しそうな顔をしている目の前の女の子をなんとかして助けたいって思ってしまうのは世の男子の共通意識なんじゃなかろうか。多分その奥底にはカッコつけたいとか、女の子にいいとこ見せたいとか、そういう下賤な欲望とか、肥大した自意識が渦巻いてるんだろうけどさ。誰かの助けになるんならそれは悪いことじゃないと思うんだよ。

「……出来る限りのことならしてやりたいと思ってる」

 そんなことを考えていたからか、口から出なくていい言葉まで出てくる。あークソ、恥ずかしいなこれ。口がうまく回らん。小学校とかで好きな女の子の名前呼ぶ時もこんな感じじゃなかったっけ。

目線を無理やり上に戻して相原を見る。相原は一瞬呆けた顔をしてから、驚愕の表情を浮かべた。むしろ戦慄と言っていいかもしれん。まぁ、驚くべきなのはその後の相原の顔と台詞なんだけどな。

「ま、まさか私の完璧な周囲を遠ざける演技でそれ以上踏み込んでくる人がいるとは……」

「……は⁈」

こいつ、俺が恥ずかしい思いまでしてマジな雰囲気出したのにぶっ壊しやがった。演技ってなんだよ演技って。シバいたるぞワレ?

「相原ァ……」

「ひゃいっ!ご、ごめんなさいっ」

キーンコーンカーンコン。

なんともまぁ絶妙なタイミングで、授業終了を告げるチャイムが鳴った。俺は一時間まるまるこいつを宥めて話聞いて喧嘩売られることで費やしてしまったらしい。相原はあからさまに動揺している。もしかして気づいてなかったのかよこいつ……。

「えっ嘘⁈私化学の先生に言い訳してくるから!じゃあ!」

相原はそう言い残すと風のように教室から逃げていった。

「あっおい!クソ……逃した」

しかしさっきの相原の表情はとても嘘をついているようには見えなかったが……。うーむ。

ま、今はいいか。どうせ相原はいないし。それにしても……やれやれ、学年上がって早々に授業サボっちゃったじゃん……。どうしたもんかなぁ。そう思っていると、ガラッと教室の扉が開いた。どうやら実験が終わった奴から戻って来たようだ。

「雄太」

……現実を見ることにしよう。かなり怒ってる梨紗でした。

「正座」

「……へい」

結局その日は相原と話すことはなかった。梨紗はどうしたって?土下座して母さんにチクるのだけはやめてもらいました。とほほ……。

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