希望

 その光景はこの男の眼にも映っていた。

「やっぱり俺の言った通りじゃねえか……」

 歩兵たちがすべてを諦めるかのように逃亡する。何も知らない兵たちの中にもそれに続いて逃げていく者がいた。同じ数の軍による衝突。その肩書はもう失われていた。その時まで保たれていた均衡は失われ、今や山中隊の優勢。

 仲間たちが次々に殺されていく。積み上げられる屍に彼は何を見ていたのだろう。恐怖かそれとも希望か。

 その時、勘太はすでに走り出していた。

 しかし、その足先は敵のいる前を向いていなかった。後ろを向いていた。

 必死に走った。後ろを振り返ると、勘太と同じように逃亡する仲間たちの背中に次々と矢が突き刺さり、倒れていく。

 それでも勘太は走り続けた。

「故郷へ帰る!故郷へ帰るんだ!」

 そしてそのまま勢いよく時田隊の東に位置する山に逃げ込んだ。




「時田様を守れ!」

 時田清のもとに集まった足軽たちは、時田清の周りを囲み敵と交戦する。重蔵と平吉、他数人の足軽たちは時田清の様子を見ていた。息はしている。だが意識はない。左の首元に矢が刺さり、そこからは大量の血が流れ出ている。重蔵たちは尾山家の旗や自分たちの服の布を破き始める。

「重蔵!このままじゃあもたない!俺たちも逃げよう!」

「ダメだ!俺は最後まで尾山家のために戦う!」

「戦うたって時田隊は総崩れだ!」

 必死なって平吉は訴えかけた。そんな訴えに重蔵は西に見える山を指さす。

「あの山の向こうに尾山家の本陣がある。もし俺たちが逃げ、この道を通してしまえば、山中隊が尾山家の本軍の背後から回りこんでしまう! 残りの村岡軍が本陣の前方から攻めれば挟み撃ちだ!だから守らなくてはならない。何としてもここを死守する!!」

「無理だ! 時田隊は全滅する!」

「いや俺に考えがある。平吉と他数人で時田様を本陣まで連れて行って欲しい。それまで俺が時田隊の兵たちの体勢を立て直してこの道を守る。」

 重蔵は時田の黒い甲冑を脱がす。もちろん口元を覆った黒い布もだ。そこには噂されるような端正な顔立ちが現れた。

 重蔵はその顔に注意を向けることなく、傷口を開いてしまわないように矢を刺さっている部分の手前で折った。そして布を時田清の傷口に巻く。

「どうやって!?ただの下級武士のお前に何が出来るってんだ?」

「出来るさ。」

 そういうと重蔵は黒の兜を頭に装着した。そして次々に「漆黒の侍」の漆黒の鎧を全身に着ける。最後には黒い布で口元を覆った。

「お前まさか……」

「どうだ? 『漆黒の侍』に見えるだろう? 隊長が生きているとなれば兵たちの士気も取り戻されるはずだ。」

「だがすでに逃亡した兵もいる……長くはもたないぞ」

「ああ、だから一刻も早く時田隊の現状を本陣にいる尾山義澄様に伝えるんだ。」

 平吉にその決断は委ねられていた。他の足軽たちはもうその覚悟を決めたようだ。もともとあの光景を見て、逃げずに隊長のために戦っていた男たちだ。彼らには何を選ぶべきなのか火を見るよりも明らかなんだろう。

 だが、平吉は違った。彼は気付いていた。自分が重蔵や彼らとは全く違う人間であることを。あの光景を目にした時、不覚にもこの場から逃げ出したいと思っていたことを。彼は自分と彼らの違いを痛感していた。

 だが、そんな平吉にとっても「尾山家のため」というだけで自分が戦わなくてはならない理由になるのではないかと思った。それならそれに従うべきだ。

「分かった。行こう。」

 そう言うと平吉を含めた八人の足軽と、そのうちの長身で大柄な兵衛次郎へえじろうに背負われた時田清は、その場を去って行った。




 もうすでに山中隊は勘太のすぐそばまで迫っていた。北以外の三方向を山で囲まれたこの地で、勘太は東の山という最悪の場所にいた。西の山の向こう側には尾山軍の本陣がある。西の山と南の山の間には道があり、その道を辿って行けば本陣の背後に出ることが出来るのだ。

 しかし、この東の山を越えた先は村岡家の領土なのだ。東には尾山家と村岡家の国境がある。だからいくら戦場の東側にいて、東の山に逃げ込むことが必然的だったとはいえ、それは勘太にとって大きな痛手であった。

 東の山には尾山家の軍勢はいない。いるのは勘太たち逃亡兵とそれを追う少数の村岡家の軍勢だけだ。

 それでも勘太は山の中を走り続ける。全ては生き延びるために―――




「山中隊が来るぞぉ!逃げろ!」

 兵たちが喚き散らす。山中隊は一方的に時田隊を蹴散らしていた。

「もう駄目だ……」

 一人の歩兵の膝が地面へと崩れ落ちた。断念したのか、その眼には涙を浮かべていた。

 その時、その歩兵の眼には到底信じられない光景が映った。その男は黒い馬に再び腰を下ろしていた。歩兵は先ほどその男が矢を受ける瞬間を目にしていた。その瞬間はこの歩兵だけが見た幻想だったのだろうか。それとも今この瞬間が歩兵の願望を映し出した幻影なのか。

 いや、他の足軽たちも自分たちの眼を疑っているようだった。黒い甲冑を着たその男は高らかに叫ぶ。

「お前らは皆、隊長が倒れたら何もできない腰抜けどもだったのか!? 敵前逃亡をするような臆病者なのかァ!? 俺は死んでない! 俺は死んでないぞォ! なぜなら俺は尾山家最強といわれた武士だからだァァ! つまり時田隊は最強の軍隊ってことだ!! じゃあ、お前らはどうだ!? お前らがこの最強の隊の一員であることを今、この場所で、証明して見せろォオ!!

 数の差? 戦局不利? 関係ない!! 俺たちは最強の軍隊だ! そうだろ!!??」

「うおおおおお!!!」

 諦めかけていたその歩兵は地に落ちたその膝を起こしあげ、刀を握りしめる。南へと走っていたその男はその足を回転させ、敵のいる方を目掛けて地面を蹴る。刀を投げ捨てようとしていたその足軽はその刀で敵兵の首をはね落とす。

「俺たちはこの国一最強の軍隊だァァア!!」

「うおおおォォォオオオ!!!!!!」




 濃緑の茂みの中から一人の男が這い出て来た。それは何とか追手をやり過ごした勘太の姿だった。辺りには先ほどとは打って変わって静けさが漂っている。

 歩き出した勘太の足に何かが当たる。足元を見下ろす。そこには屍があった。首のない死体だ。綺麗に切られた首の断面からは溢れんばかりの血が流れ出ていた。近くを見渡せば何人もの死体が転がっている。勘太は屍の中を歩き出す。

 仰向けに転がった死体が勘太を見上げる。その顔には見覚えがあった。そうだ、彼はともに逃げていた逃亡兵じゃないか。隣を走っていた男だ。ともに逃げていた同志たちはもういない。

「お前はそっちを見ろ。」

 突然男の声が聞こえてきた。その声がこちらに近づいて来る。どうやら敵兵のようだ。

 勘太は息を呑んだ。

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