三人の足軽
シュンジュウ
漆黒の侍
橙色の太陽の光が容赦なく男たちの体に突き刺さる。男たちは汗を拭い、必死に足を前へと運んでいく。話し声はおろか弱音すら聞こえない。そこにあるのは、息を漏らしながらも強い意志を顔に宿らせた男たちの姿であった。
体にまとった装備が、男たちの体に絡み付いて重力を与える。右を向いても左を向いても視界に入るのは木々が緑に生い茂る山々だけで、気も滅入ってしまうほどの殺風景だ。そのうえ地盤が緩んでいて歩きづらい。近頃、雨が降っていたのだろう。
それでいて今日の空は雲一つない快晴だ。足場の悪い道を歩く彼らには、炎々と降り注ぐ日光は厳しいものであった。しかし、戦を前にしている彼らは、炎のような陽光に照らしつけられるほどむしろ闘志を熱く燃え上がらせていた。まさに戦日和である。
そんな士気の高まる男たちの空気に水を差す男がいた。足軽の一人、
「そんなに意気込んだって死ぬときは結局一緒さ。英雄だろうが、臆病者だろうが、生き延びる奴は生き延びるし、死ぬ奴は死ぬ。」
華奢な勘太は行進する大柄な足軽たちに押し潰されそうになりながら何とか顔を出して言う。
「みんなの士気を崩すようなことを言うなよ。俺たちは尾山家に従う下級武士だ。俺たちは尾山家のために死ぬまで戦い続けるんだよ。」
体が大柄でいかにも勇敢そうな男、
しかし、勘太が主家への忠誠をコケにする一方で重蔵は下級武士ながら武士道を重んじている。だから勘太が重蔵にたてつくのは日常茶飯事だ。
「そんな忠義を守って何になる?俺たちを知りもしない家のために死ぬのがそんなに偉いことか? 死んだ後の名誉がそんなに大切か? 死んだらその名誉どころか感謝すら受けられないのに。いやそれは生きていても一緒か。結局は自分が生きていることが一番大切だろ。」
「いや、俺たちは命を懸けるべきだ。感謝なんて求めていない。それが俺たち兵士の本分だからだ。」
そして、その日常を思わせる光景は平吉に今戦場に向かっているのだという事実を忘れさせてしまう。
「平吉だって敵将の首を打ち取る意気込みで戦に臨むんだろう?」
「もちろんだ。尾山家のため大奮闘するさ。きっと
「その『漆黒の侍』とやらがとんだ腰抜け野郎じゃなきゃいいがな。」
「何を言っているんだ、勘太。
「漆黒の侍」こと
今平吉たちのいる歩兵が為す列の中盤辺りからも、先頭を歩く黒い影がかすかに見える。それは時田清の後ろ姿であろう。兵士たちのほとんどが彼のことを慕っていた。だがもちろん、勘太という例外もいる。
「所詮噂は噂だ。この目で見ない限り真実なんて何一つ分からない。『漆黒の侍』とやらも案外間抜け野郎かもしれないぞ。」
平吉ら時田隊はようやく緑の木々が生い茂る小道から抜け出した。目の前に広がるのは大きな更地だ。
薄くかかった靄の向こうを、眼を凝らしてみても、やっとうっすらと何かの影が見える程度である。それが何だかは分からない。
ようやく靄が晴れると、そこには村岡家の軍勢が厳めしく並んでいるのが分かった。ついに両軍勢が向かい合ったのだ。
向こうの軍勢は二万といったところだろうか。大軍であった。普通なら威圧され尻込みをしてしまうだろう足軽たちも闘志を漲らす。それは時田隊にいるという自信からか、はたまた満ちあふれる活力からか。
いずれにせよ時田隊の足軽たちは誰もがこの時田隊にいる限り負けるはずがないと強気になっていた。
実際この土地は尾山家の領土。この土地をよく知る尾山家の方が、戦局が有利であることは間違いなかった。
そのうえ村岡家が投入している二万という大軍に対し、尾山家も互角の約二万の大軍を編成していた。
同数の兵による戦争で、なおこの土地を領するのは尾山家。加えて言えば英雄だっている。兵士たちが勝利を信じてもおかしくない状況だった。
「義澄様、こちらの陣形は整いました。」
これは総大将の
「そうか……」
「心配なんですか、義澄様?」
「いや、大丈夫だ。時田なら必ずやあの道を抑えてくれるだろう。心配はしておらん。」
「
一人の歩兵の声で平吉は我に返った。敵方の家臣の一人、山中の軍がこちらに迫ってくる。ついに戦が始まったのだ。平吉は強く刀を握りしめた。
「弓矢隊前へェェ!!!」
時田清の声に弓矢を持つ歩兵たちが歩兵たちの前へ勇み出る。
「構えェ!!」
一斉に矢を番え、弓の弦を引く。矢先は前方のやや上向きだ。
山中隊の地面を踏み鳴らす音と雄叫びが次第に近づいてくる。時田清はじっと山中隊の動きを見極める。矢を打ち出すタイミングをうかがっているのだ。一方山中隊の方にも弓矢を構えている男たちが見える。
時田の額から一滴の汗が流れた。
「撃てェ!!」
時田清の一声に弓矢隊が一斉に手を離した。大量の矢が山中隊を目掛けて飛び出した。その矢の行く末を見る暇もない。山中隊からも大量の矢が飛んで来る。平吉は思わず身をかがめる。矢が清々しい青空の中を飛び交った。
歩兵の悲鳴。馬の悲鳴。辺りにあらゆる悲鳴も飛び交う。平吉は何とか立ち上がった。重蔵と勘太は? そんなことを確認する暇はない。もう平吉の数十メートル先には先陣を切る山中の姿がある。刀を今一度強く握りなおす。
その時、時田隊と山中隊は衝突した。
そこからはまるで一瞬のことのように感じられた。その一瞬でこの場所は暗赤色の流血に包まれた。
どこからともなく悲鳴と雄叫び、馬の声、足音、弓矢の音、あらゆる音が響き渡る。それぞれが何の音かも分からないくらいに混ざり合ったその音は、平吉にとっても誰の耳にも地獄を感じさせた。この世の終わりを思わせるような心地。それこそが戦場だ。
隣にいる男が味方なのか敵なのか分からない。それまでに場は混沌としていた。味方であると信じることが出来るのは自分の存在のみである。
そんな混沌の世界で、平吉が目にした光景は、平吉が自身の眼を疑ってしまうほどの衝撃的な光景であった。まるで崖から絶望という淵に突き落とされたように、生きた心地がしなくなった。全ての力が、戦うことへの意欲が、一瞬で無に帰したような気がした。
その時、一本の矢が「漆黒の侍」の首元に直撃した。何の奇怪さもないただの矢だった。恐らく撃った射手も那須与一のような素晴らしい才能を持った英雄ではなく、今後名を残すこともないただの弓兵の一人だろう。もちろんその矢が変幻自在に空を舞う魔法の矢であったわけはない。おそらく流れ弾だ。
ただそんな奇異もない偶然の一撃が、一人の英雄の首元を射抜いたのだ。
その光景を見た時、あの闘志を熱く燃やしていた兵士たちはどうしたのだろう? ある者は落馬した時田清のもとに駆け寄り、ある者はその光景に気付くこともなく戦い続け、ある者は刀を投げ捨て逃亡した。そして、ある者は自分の置かれた絶望に足がすくんで体を動かせずにいた。平吉もその一人であった。
「平吉!平吉!!」
重蔵の声にようやく平吉は我を取り戻した。手に握った刀で目の前に飛び込んできた敵兵の一人に刀を振るう。
そして、ようやく時田清のもとに走りだした。
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