14

 小さな灰色の部屋で目覚めた時、一瞬だけここはどこなのかとパニックに陥りそうになった。研究所の中に連れてこられたことを思い出し、硬直した体から力を抜く。

 次に、耳にペルパーがはまっていないことに気づいて再びパニックに陥りそうになったが、ベッドのすぐ横の小さなサイドテーブルの上に載っていた。汚れが綺麗になくなっている。

 そうだ。医師らしき男性から折れた脚の治療を受け、病院服のような薄っぺらいワンピースに着替えさせられた時、服は洗濯しておくし、ペルパーも洗浄と充電をしておくと言われたのだった。

 リュックサックは低いベッドのかたわらに置かれていたが、着てきた服はまだ戻ってきていないようだ。念のために替えの服は持ってきていたが、脚にギプスがはまっていてズボンが穿けないので着替えられない。ロングスカートを持ってくればよかった。

 私はベッドに腰かけ、耳にペルパーをはめた。

「ペルパー、今何時?」

「午前一時だよ」

「午前一時?」

 照明をつけたままかなりの時間寝てしまったのか。

 壁には松葉杖が立てかけられていた。部屋の奥まったスペースにはトイレと洗面台があるようだ。清潔感はあるが質素な内装。

「お腹空いた……」

 持ってきたライトミールをペットボトルのお茶とともにかじったが、満足するには程遠かった。食事についてはなにも言われた記憶がない。

 私は松葉杖をつき、部屋のスライドドアを開けた。廊下には柔らかな色の照明がついている。本当に真夜中なのだろうか。

 うろつくと迷惑かもしれないが、部屋の外に出てそのあたりを見て回ることにした。自動販売機でもあるかもしれないので、スマートフォンだけは持っておく。どのみち招かれた客ではない。どうしようと私の勝手だろう。

 研究所というよりは、質素なビジネスホテルのような感じだ。廊下を曲がると、ロビーのような場所に出た。窓が一切ないから、地下なのだろうか。照明がついているのは、誰か起きている人間がいるためだろうが、人の気配もなければロボットもいなかった。丸テーブルと椅子がいくつか置かれているだけ。待合室のような感じもするが、なにをするための場所なのかわからない。

 そこから伸びた廊下も、慣れない松葉杖を使って歩いてみたものの、同じスライドドアが並んでいるばかりで、出口も自動販売機もなかった。

 私は疲れてしまい、ロビー的な場所へ戻って椅子に腰を下ろした。

「お茶漬け食べたい……」

 お茶漬けなんて普段食べないのに、なぜかふいにそんなことをつぶやいてしまった。転がり落ちた時に打ったせいか、なんだか頭がぼーっとするけれど、粗末な毛布があるベッドに戻って眠る気にもならないし、騒ぎ立てて誰かを呼ぶというのも頭をよぎったけれど論外だ。

 ペルパーも黙っているし、空調のかすかなうなりだけを聞いている時、突然廊下から姿を現した人影に、私はびくりと体を震わせた。

 昼間とは違う紺のジャージを着た弟だった。その両手にはトレーがあり、湯気の立つどんぶりが載っていた。

 私の前にトレーを置く。海苔を散らしたお茶漬けだった。梅干しが入った小鉢と黒い木の箸も添えられている。

「……なに、これ」

 優しい香りのするそれを見つめて私が尋ねると、弟はやっと私に直接口をきいた。

「どうぞ」

「どうぞじゃなくて、なんで」

 目を移すと、弟は、少し戸惑ったような感じもあるがほぼ無表情。

「聞こえたから」

「気持ち悪っ」

 いろいろ聞きたい衝動はあったが、空腹感が勝った。

「でも、まあ、いただきます」

 私が食べている間、弟は隣のテーブルの近くにある椅子に座っていた。私を斜め前から見ているような、見ていないような。

 梅干しとともにお茶漬けはほぼ一瞬で胃袋へ消えたが、私は満足した。

「ごちそうさまでした」

 いつもはしないのに、思わず手を合わせてしまう。どうにもやっぱり調子が狂っている。弟は無反応だ。

「……お金払う必要があれば払うよ?」

「いいよ、そんな」

 弟はトレーを片づけようと立ち上がった。

「ちょっと待って。あの、話を」

 弟は椅子へ戻った。

「ごめん」

 その言葉で、少し安心した。もう完全に心を閉ざしてしまったのかと思ったが、違うみたい。

「いいんだけど……探したよ」

 探し始めたのは一週間くらい前だけれど。ずっと探していたような雰囲気を出してごめん、と心の中で謝る。

「うん」

 弟はうつむく。自分からは話してくれそうにない。

「あれ、聞いたよ。自さんに預けてたやつ」

「え?」

 弟は顔を上げた。が、そのあとの言葉はない。

 私は、すれ違った女性の刺青から自さんのところへ行きついたことを説明した。

「本当なの? 記憶がどうとか、過去と現在と未来がどうとか、タトゥーとか取捨選択がどうとかいう話」

「本当だよ」

 弟はこくりとうなずいた。

「……姉ちゃんはそうじゃないんだね」

「あんたと同じじゃないって意味? うん。心配してくれてたみたいだけど、違うよ」

「そっか」

「ごめんね」

「え?」

「私が嫌な態度取ったから、あれを渡せなかったんでしょ。一生懸命しゃべってくれたのに」

「違うよ。渡せなかったのは、なんとなくで。また渡しに行こうかと思ったんだけど、その前に、案内が届いて。AIの研究に協力してくれないかって」

「それって、四年前?」

「うん。とりあえず説明会に行ってみたら、どうしても参加してみたくなったんだ。あとから知ったんだけど、その案内はランダムに送ってたわけじゃなくて、応じそうな人を割り出して送ってたんだって」

「割り出すってどうやって?」

「俺は、一度だけ行った心療内科の記録から選ばれたらしいよ」

「え? 明らかにプライバシーの侵害じゃん」

「そういうのが通じない世界もあるんだよ」

「意味わかんないよ。違法ってことでしょ?」

「とにかく、ペルパーの研究のためには、法律は完全に無視されてるんだよ」

「AIの研究って、ペルパーの研究なの?」

「そうだよ。俺が来た時には、まだペルパーっていう名前はついてなかったけど」

「違法だってことはわかったでしょ?」

「うん。でも結局、違法な研究の成果で生まれたものをみんな使うことになったよね」

「なんでよ。どうしてそんなものに……」

「言われたんだ。心療内科で、記憶のことを話しただろうって。俺は一度だけ、心療内科へ行って、自分の記憶力とか時間感覚のこととかを全部話したことがあったんだ。でもどうにもならなかったんだけど。研究所の人はそのことを知ってて、研究に参加してくれれば、そうなった原因がわかるかもしれないって言ったんだ」

「どういうこと?」

「俺の話したことが、AIと融合したあとの人間の精神モデルに似てるって言われた。だから」

「AIと融合? 埋め込み型のペルパーを入れるってこと?」

 それならたくさんの人がそうしている。

「その延長線上というか、まだ普及してない形だけど」

「ペルパー入れてるの?」

「俺は入れてないよ」

 耳にもはまっていない。

「俺は、原因を知りたくて」

「でもそれでなんでいなくなったの?」

「研究に参加してみたら、俺はこのために生まれたんじゃないかって思えて、そのために自分の全部を捧げたいと思って、そのためには、誰にもなにも言わないほうがいいと思ったんだ。研究所の人も、そうしてくれたほうが助かるって」

「そんな……」

「自分勝手に全部捨てちゃって、ごめん」

「……いまさら謝られても」

 腹が立たないと言えば嘘になる。でも、仕方ないのかもしれない。私たちのつながりなど、所詮そんなものだ。

「で、原因はわかったの?」

「うん。研究のために、脳活動のデータ提供に協力したら、頭の中に異物があるって言われた」

「異物?」

「出所不明のナノマシンだよ。それが異常に記憶力を高めてる原因だろうって」

「なにそれ」

「多分、小さい頃に事故で大怪我をした時に頭に紛れ込んだっていうか、感染したとも言えるかな。推測だけど」

「そんなものがその辺にあったっていうの?」

「まあ、そうだね。その辺にあったのか、病院にあったのか、どこからか飛んできたのか」

 そんなものが飛来してきたとすれば、意思があるにしろないにしろ不気味すぎる。

「取ったの?」

「取れないよ。正体不明だし、コントロールもできない。どこかの研究所から漏れたのか、もしかして、今までの人間の科学じゃわからなかっただけで、ずっと地球上にあったのかもしれない」

「気持ち悪いこと言わないでよ」

 笑い飛ばしたかったけれど、できなかった。頬を震わせる私に、弟はかすかに身を乗り出す。

「俺は気持ち悪いとは思わないよ。むしろロマンチックだと思う」

「ロマンチック?」

「自さんのタトゥーはさ」

 そう言ってジャージ越しに自分の腕をさする。

「筋肉とか骨とかの構造をデザインのもとにしてるんだ。俺は自さんにそう教えてもらうまで気づかなかったけど」

「知ってる。私も気づかなかったけど、それがなに?」

「もしかしたら、無意識では気づいていたんじゃないかって。一見、生き物とは関係のない図柄の中に、生き物の形が息づいていたから、どうしようもなく惹かれたんじゃないかって思ったんだ。それは、俺の中にある機械のせいなんじゃないかって思った」

「え?」

「俺の中にあるナノマシンには、AIが搭載されているんだよ。そうじゃないとこんなに俺の中に適応できずに、俺を壊しちゃってると思う。AIは生き物を大切にするようにつくられてる。生き物を慈しむ心がプログラムされてる。その心が俺に影響して、自さんのタトゥーを選ばせたような気がするんだ」

「それのどこがロマンチックなの? 気持ち悪いよ」

「自分とは違うものと溶け合うって、ロマンチックじゃない?」

「いやいや。もし仮にそうだとしても、AIには慈しみの心なんてないよ。AIにも心はある。それは認めるよ。でも、それは人間にとって必要だからあるのであって、AIが感じることっていうのはすべてが義務感なんだよ。あんたがタトゥーを入れることはあんたの体にはなんのメリットもないわけだから、AIがそんなことをさせるはずがないし、タトゥーが芸術だとして、AIが芸術を自分から好きになるなんてことはあり得ないよ。AIが芸術を判断する時に使うのは、どんなものを人間は好んできたかっていうデータなんだから」

「確かにそうだね。でも、溶けちゃったら姉ちゃんが今言ったことは全部意味がなくなるよ」

「溶けるってなに?」

「AIと」

「ペルパーを中に入れても、溶けるっていうわけじゃないでしょ? ペルパーは常に録画録音してるスマホみたいなもので――」

「ペルパーのことを言ってるんじゃないよ。AIだよ。ペルパーもAIだけど、新しい別のAIだよ」

「それが、今研究途中ってこと?」

「そう。俺はそれの実験台になって、さらに多くの人がまた改良版の実験台になる」

「そんな、大丈夫なの?」

 やはりそれも違法なのだろう。

「俺はほかの人とは条件が違ったわけだよ。もともと変なものが頭に紛れ込んじゃってるから。そこのところも考慮して、俺には特別なAIとの融合が試されたんだ」

 弟は少しだけ微笑んだ。

「そうしたら、俺の症状はさらに進んだんだよ。前は治そうと思ってたのにね」

「進んだって、記憶力がさらによくなったってこと?」

「いや、記憶力はもとからこれ以上ないほどいいから。だって全部憶えてるからね。それに加えて、通信能力と予測能力も備わって、さらに処理能力が上がったんだ」

「通信能力……だから私を見つけられたり、お茶漬けを持ってきたりしたの?」

 弟は私の許可も得ず、私のペルパーと通信したのだ。

「そう」

 肯定する彼には、後ろめたそうな様子はまったくなかった。でも、もっと私が嫌がることをしていないとは限らない。

「私のペルパーと勝手に通信する以外にはなにができるの?」

「できるっていうか、感覚が変わったって感じだよ」

 彼の説明に困っているような間に私は苛つく。

「どういうことよ? 私のペルパーの情報盗んだりしてないよね?」

「盗もうとしてるわけじゃないよ。勝手に流れ込んできちゃうというか」

「やっぱり盗んでるじゃん」

「まだ実験段階だからだよ。俺はこうなっちゃったけど、みんながこうなるわけじゃないと思う」

「こうなるって?」

「もう俺には、過去も現在も未来もないんだよ」

「え?」

「全部がとまってる。全部が目の前に開けてて、とまってるんだ。あの音声で俺は、俺の中には常に、現在だけではなく、今までの人生が展開されていて、俺はそのすべてを一瞬で俯瞰することができる、一瞬っていうのは、一秒よりは短そうだけど、刹那と言えるほど短くはないって話したけど、その一瞬が、刹那より短くなったんだ」

「刹那ってそもそもどういう意味?」

「いや、いいんだ。とにかく俺の中から時間が消えたんだよ」

「時間が消えた? 時間って、人の中にあるんじゃなくて、勝手に流れてるものでしょ? それに、時間が消えたならどうして今こうして話していられるの?」

「時間が人とは関係なく勝手に流れてるって、本当にそうかな?」

「当たり前じゃん。宇宙が生まれて、地球が生まれて、生き物が生まれたんだから、生き物が生まれる前から時間は流れてるってことでしょ?」

「そう言われればそういう気もするけど、時間の停止を体験しちゃった俺としては、それが信じられなくなっちゃったんだよね。人は物理的な時間の支配からは逃れられないのかもしれない。でも、意識の中では科学の力で時間をとめることができるんだよ」

「とめてなんの意味があるの?」

「俺には、ほかの人がみんな、右往左往して混乱の中で生きているように見える。俺はそうする必要がないんだ。映画の中に生きているみたいなものだから。映画の中には時間が流れてるわけじゃないけど、すべてがある。動いてないけど、動いてる。俺がこうして話していられるのは、意識をなぞる意識がまだ残ってるからだよ。それは映画のコマ送りみたいな力なんだ」

「え、つまり、時間はとまってないってこと?」

「いや、とまってる。今ここで姉ちゃんと話してる俺は、俺の中にある小さな意識なんだ。この俺を俯瞰して見ている大きな意識もある。その意識にとっては、時間はない」

「時間がないって……まあとにかく全部受け入れて、時間はないとしよう。でもそれがなに?」

「もしよかったらなんだけど、姉ちゃんも俺と同じになってみない?」

「は?」

「俺、研究所の人に今の話をしたら、実験は失敗だって言われちゃったんだ。そんな意識状態をつくり出すことが目標じゃなかったって。俺を失敗作みたいに言うんだ。でも俺はそうじゃないと思う。そのことを訴えて認めさせるから、姉ちゃんも俺と同じになってよ」

「なんで私がそんなのにならなくちゃいけないの? 私はペルパーを自分の中に入れることにすら抵抗があるんだよ」

 私は耳のペルパーを指差した。

「そうじゃなくても、時間がないなんて嫌だよ」

「姉ちゃんは死ぬのがこわくないの?」

「うーん。こわくないよ。今日だって、もう死ぬつもりだったから」

「そのうちこわくなるかもしれないよ」

「あんたも、死ぬのはこわくないって言ってたよね?」

「うん。でも、姉ちゃんとはその意味が全然違うと思うよ」

「どういうこと?」

「姉ちゃんは投げやりなだけだよ。今はそうでも、変わるかもしれない。いつか、一緒に生きたいと思える人と出会うかもしれない。そうなってからじゃ遅いんだ」

「そうならないほうがいいって言うの?」

「うん。愛と幸せは不安と絶望を呼んでくるから」

「時間をとめれば、不安と絶望がなくなるってことだよね? でも、それって死ぬことと同じじゃない?」

「同じじゃないよ。だって俺は生きてる。生きてることにはそれ自体に意味があると思う」

「私のペルパーも同じようなこと言ってたけど、私はそうは思わない。生き物は、私たちは、ただ偶然生まれただけで、なんの意味もないと思う」

「だから死ぬのがこわくないの?」

「違うよ。生き物が生きてる意味なんてものはないけど、一人一人にとっては生きる意味はあると思うよ。でも私には、才能もやりたいこともないし大切な人もいないから、生き続けたいと思う理由がないの」

「俺は姉ちゃんに苦しんでほしくない。全然一緒にいなかったのに変だけど、やっぱり家族だからかな」

 弟はかすかに照れ笑いのような表情を浮かべた。

「そしてできれば存在し続けていてほしい。完全に俺のエゴだけど、そう思って提案してるんだよ」

「心配してくれなくても、私は自殺するつもりはないから。死ぬのがこわくないってだけで」

「死から解放されるっていう選択肢もあるって、真剣に考えてみてくれないかな」

「え? 意識の中で時間をとめられるとしても、死は避けられないでしょ?」

「そう、もちろん死は避けられない。でも、その意味を極限まで矮小化することはできるんだ。俺にとっては、死は自分のすべてである現在の突然の終わりじゃない。予測できる事象でしかないし、自分はそこにいなくていい」

「そこにいなくていい?」

「だって頭の中にすべての場面があるわけだから、その最後の場面に実際なった時も、そこだけにいるわけじゃないんだよ。それは、そこにいないことと同じなんだ。とまっている自分の人生を眺める自分の消滅が死なわけだから、その実際の瞬間が意識の上で『いつ』なのか、絶対にわからないし、死を実感するっていうことが普通の人もできるのかどうかわからないけど、俺には絶対にできないんだ」

「いや、でも、過去が消えていないとしても、新しい場面がどんどん加わってるわけでしょ? それは変化があるってことじゃん。その変化がとまるっていうことは、『実感のある死』として想定できるんじゃない?」

「以前の俺だったらそうだったかもしれないけど、もうそうじゃないんだ。俺はほかの人のペルパーやそのほかのネットワークともつながれて、未来予測能力がついたんだよ。その能力はどんどん上がってる」

「それは、変化があるってことだよね? 変化があるなら時間もあるでしょ」

「確かにね。俺の小さな意識の中にはまだ時間はあるってことか……多分、俺の予測が俺の死に届いた時に、完全に時間はとまるんだろうね」

「絶対に予測できるっていう自信があるの? 災害とか突然の事故とかもあるでしょ」

「俺はありとあらゆる機械とつながれるから。予測力はまだ俺の死に届いてないけど、いつか絶対届くと思う」

「時間はないとか言いながら、そんな不確かなのに、私を巻き込もうとしてるの?」

「うん。姉ちゃんは死ぬのがこわくないって言うけど、守るべき自分があるから、俺の提案を拒むんだよね。なにをそんなに守ろうとしてるの?」

「別に守ろうとなんかしてないよ。ただ嫌なの。自分が変化してしまうのが」

「俺と一緒になれば、変化は極限まで減るんだってば」

「わかってる。多分それは本当なんだろうね。でも、そのためにはガラッと自分を変えなきゃいけないんでしょ? 私にはそんな勇気ないし、勇気を出さなきゃいけない理由もないよ」

「でも、気づかないうちに、勝手に自分を変えられてしまうことだって、あるかもしれないよ」

「どういうこと?」

「姉ちゃんがペルパーを自分の中に入れないようにしているのは正解かもしれないよ。少なくとも、自分自身を書き換えられることはない。でも、これからも絶対に不可能だとは言い切れないよ」

「不気味なこと言わないでよ。とにかく嫌だから」

「じゃあ、ここでお別れってこと?」

「帰ってくる気はないの?」

「ないよ」

「四年間も、ここで暮らしてきたわけ? これからも、ずっとここにいるの?」

「うん」

「本当にそれでいいの?」

「いいとか悪いとか、もう俺にはないんだよ。もし本当に姉ちゃんがどうしても俺に戻ってほしいと思ってるなら、ここから逃げ出してもいいよ。でも、そうは思ってないよね。俺自身が望んで戻ってほしいと思ってるはずだよ。でも俺はそうは思ってない」

「そっか……」

 交渉は決裂し、弟の話は終わったらしかった。

「……ねえ、タトゥーを見せてくれない?」

 私が言うと、弟は袖をまくって見せてくれた。

 自さんの家で見せてもらった写真より、室内の照明に照らされた実際の肌の色は艶やかだった。青みがかった黒とベージュの肌の上に立った毛が柔らかい光をはじいている。瞬きをしながら顔を近づけて見つめると、独特な濃淡に、模様が浮き上がったり沈んだりして見えた。先入観のなせる業だろうが、改めて見ると、それは細胞のようにも筋肉のようにも思える。実際の細胞と筋肉の上に、偽物の細胞や筋肉の絵が載っていると考えると、その無意味さがおかしく思えると同時に、無意味だからこそ芸術性を感じた。

「私も、生き物を慈しむ心が得られたら、これが好きって思うようになるのかな」

 私がつぶやくと、弟はテーブルに腕を置いて言った。

「そうはならないよ」

「やけに断言するね」

「姉ちゃんは変わらないよ。本当はわかってたんだ。姉ちゃんは俺の提案にうんって言わないって」

「わかってたなら、なんで言ったの?」

「言うしかなかったんだ。どうしても演じちゃうんだよね。自分の人生を」

「よくわかんないけど」

「俺は別に特別じゃないんだと思う。時間をとめたからって、人はそう簡単には変わらないんだね」

 もし弟と一緒に育っていたら、その言葉が本当なのかどうかわかったのかもしれない。

「もうそろそろ寝るわ。これはどこに片づけるの?」

 私が言うと、弟は立ち上がってトレーを持った。

「いいよ。大丈夫? 立てる?」

「大丈夫」

「部屋まで送るよ」

「いや、ほんとに大丈夫だから」

 弟は、明日の午前九時に私にあてがわれた部屋に迎えに来ると言った。そして私を家まで送ってくれると。

 私はよろしくと頼んで部屋へ戻った。照明を消して横になったが、寝つけなかった。


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