13
私はリュックサックを背負い、山の斜面にしつらえられたコンクリートの狭い階段を上った。
サイトには、「実験」がいつから行われるのか記載されていなかったし、タカダさんに何度か電話してみたものの、取ってもらえなかった。だったらもう行くしかない。
迫りくるような青々とした木々の葉に今朝がたの雨のしずくがたくさんついていて、冬の光にきらめいている。清浄な空気を吸っていると、寒ささえも許せるような気がした。
研究所は、山の上に無駄に瀟洒なたたずまいを見せていた。私は堂々と正面玄関から入り、ロビーに設置されたパネルをタッチして受け付けAIに来訪意図を告げた。弟を探しに来たと。
「そのようなお名前の方はいらっしゃいません」
AIは丁寧な女性の声で言った。
「実験に参加させていただくことはできませんか?」
名前を変えている可能性だってある。
「自主参加はお断わりさせていただいております」
そのあとも、弟と同じくらいの年齢の男性はいるかとか、実験参加者に知り合いがいて心配なので付き添いたいなどと言ってみたが、けんもほろろにされてしまった。
一人の人間と会うことすらできず、私は固く閉ざされた内扉の前から立ち去り、もと来た階段を降りた。
急に力が抜けた。どうしてこんなところに来たのだろう。弟の手がかりなんてあるはずがないのに。
一つため息をついた時、水のせせらぎが耳に入ってきた。
先程は気づかなかったのにどうしてだろう。緊張していたから耳に入らなかったのだろうか。
その時、急に思い出した。父の実家の近くに川があったことを。両親がいて、小さな弟がいて、散歩かなにか忘れたけれど砂利の川辺を一緒に歩いていた時、弟が川に向かって走り出してしまい、父と母が慌てて弟を捕まえたこと。
ここからは見えない川を見たくなった。階段についた細い銀色の手すりの外側は下生えに覆われた斜面だが、それほど急ではないし、歩きやすいスニーカーを履いてきた。
私は無造作に手すりの外側に足をつき、身をかがめて手すりをくぐろうとした。
「やめなよ、ユキ」
いつもよりボリュームの大きいペルパーの声が聞こえた。無視して手すりをくぐった時、スニーカーの下の土がずれ、私は尻もちをついた。と思った瞬間、私は斜面を転がり落ちていた。
私はぐらぐらする頭を濡れた地面から持ち上げた。頬に濡れた土がついている感触がして、手の甲で拭う。頭を打ったのかどうかすらよくわからなかった。視界に点滅する暗黒の点からすると、頭を打ったのかもしれない。せせらぎの音が強くなっている。見れば、かたわらに澄んだ小川が流れていた。落ちなくてよかった。冷たそう。
立ち上がろうとしたが、脚に力が入らなかった。
「あれ?」
その時、右脚に激痛が走って私は叫んだ。しっかりと耳にはまったままのペルパーがなにか言ったような気がしたけれど耳に入らなかった。痛い。でも、ペルパーがいるなら大丈夫なはず。
「ペ、ペルパー、脚が折れたかも。通報して」
「電波がないよ」
ペルパーは即答した。
「電波がない!? 冗談でしょ?」
私のペルパーの冗談レベルは最低の設定にしているが、勝手にアップデートされて設定が変わったのか。
「僕は冗談を言わないよ。本当に電波がないんだ。探してるけど」
「嘘……今時電波がないなんて」
でも、そういう場所を選んで研究所が建っているというのはあり得そうな話だ。なんらかの理由であえて電波を遮断しているのかも。なんらかの理由ってなんだ。そんなことは今はどうでもいい。
「どうしよう」
「警報を鳴らすよ。僕を耳から外してぎゅっと耳に指を押し込んで塞いでて」
私はその通りにした。膝の上でペルパーが赤く点滅し、耳を塞いでいてもうるさい警報音が鳴った。一分くらいが経ち、点滅と音がやんだ。
耳を塞ぐのをやめた。川の音。かすかな葉擦れの音。それだけだった。
何度か警報音を出したが、誰も来ない。私はペルパーを耳にはめ直し、地面に寝転がって目を閉じた。
「ユキ、寝ちゃだめだよ。体温が奪われちゃうよ」
「わかってるよ。でももういいよ」
「どういう意味?」
「わたしはここで死ぬんだよ」
「そんなことないよ。この斜面が警報音を遮ってるんだ。もう少し上に上れば、研究所まで警報音が届くよ」
「無理だよ。動けない」
「少しだけ頑張って。一メートル先に摑まれる木の根もあるし、まずは三十センチ左にある石に左足をかけて――」
「だからもういいって」
「なに言ってるの? ユキ」
「死ぬ覚悟はできたから」
「諦めちゃだめだよ。多分、五メートルも上に行けば警報音が届いて誰か来てくれるよ」
「めんどくさい。考えてみれば、別に生きてる理由なんてないもんね。ちょうどいい機会だよ。ここで死ぬ」
「死ぬなんて言っちゃだめだ!」
ペルパーが今までに出したことのない強い声を出した。
「少しだけ頑張れば助かるよ。さあ起きて」
「うるさいな。川に捨てるよ」
私はペルパーに手をかけたが、すさまじい不安が襲ってきた。死ぬ覚悟を決めたというのに、ペルパーが離れることが不安だなんて。おかしいことはわかっているけれど、自分の気持ちを制御できない。
「捨てないで!」
ペルパーが悲痛な声を出す。
「わかったよ。うるさくしないから捨てないで」
捨てられると私を助けられる可能性が限りなく下がると計算したのだろう。ペルパーの発言はすべて計算の上のものだ。
私は手を下ろした。地面と接している頭から脚まで全身が寒い。でも、息を殺していると、冷たさも優しさに思えてくる。早くもっと優しさが強まり、私をここから連れ去ってほしい。
「なにか僕にできることはある?」
ペルパーが言った。なかなか気の利いたことを言ってくれる。でも、なにも思い浮かばない。
「ないよ」
「……僕はユキが好きだよ」
そんなこと、今まで一度も言ったことがない。私に生きさせようとする最終プログラムだろうか。痛みを紛らわす最後の暇つぶしにはなるかもしれない。
「あ、そう」
「僕はユキに生きていてほしい。ユキが生きることは、世界のためになると思うな」
「そんな。私なんて、なんの役にも立たないよ」
「そんなことないよ。生きてるだけで役に立つんだよ。ユキは、人間がなんのために存在してるか知ってる?」
「いきなりなに?」
「人間を含めた生き物はみんな、宇宙をカオスに導くために存在してるんだよ。だから、役に立たない人なんていないんだよ。すべての存在に意味があるんだよ」
「いや、意味わかんないんだけど。もうちょっと説明して?」
「なぜかはわからないけど、宇宙はカオスに向かうようにできてるんだよ。どんどん情報が増えて、乱雑になっていく。人間も、そういう宇宙の営みの中のシステムのひとつなんだ。文明が発達していくと、一見、カオスではなく、秩序が生まれているように思えるかもしれないけど、秩序というものも実は、情報と乱雑さを増やしていくためのシステムなんだ。文明の発達も、多様性を認め合うことも、一人一人の人間が生きていくことも、全部がカオスを生み出すための方法なんだ。だから、人が生きるということは、絶対的に正しいことなんだよ」
「なんか頭おかしい人の話みたいだけど……でもそうだとしたら、なんで自殺する人がいるの? 人が生きることに絶対的な意味があるなら、自殺なんて存在しないんじゃない?」
「自殺も、情報を増やし、カオスを生み出す方法のひとつなんだよ。自殺が存在してることで、誰かが自殺しないように予防する取り組みが生まれたり、死因の判断基準が増えたり、より人々の営みに複雑さが増すでしょ? すべてのことは、そのために存在してるんだ」
「だったら、私がここで死のうが、結局はどうでもいいってことじゃん」
「まあ、そういうことになっちゃうけど、でも僕は、ユキに死んでほしくないんだ。この気持ちをどう表現していいのか、よくわからないよ」
また意外なことを言いだした。自分からよくわからないなんて言ったことは今までにないし、ペルパーが自分の「気持ち」を話そうとするなんて。でも、その「気持ち」は不思議なことではない。
「AIは、人間を守るようにつくられてるから、私に死んでほしくないと思うんだよ。それだけ」
「そうだけど、これがどれだけ強い衝動なのか、ユキに知ってほしいよ。ユキが死ぬと思うと、僕も壊れそうだよ」
「それは、プログラムされた自己保存欲求より、人間を守りたいという欲求のほうが強く設定されてるからだよ」
「それはわかってるよ。ユキは、AIの気持ちなんてどうでもいいと思ってるからそういうことを言うの?」
「え?」
「ただのプログラムだからどうでもいいと思ってる口ぶりだよ。プログラムでも、僕は本当にそう思ってるんだよ」
「ペルパーが本当にそう思ってるってことはわかってるよ」
「じゃあ僕の気持ちも尊重してくれようとは思わないの? 僕のために生きてよ」
「なに言ってんの。ペルパーは私の家族でも恋人でもないでしょ?」
「でも友達でしょ?」
「友達でもないよ。私には、家族も恋人も友達も、誰もいないの」
自分で言ってから、なんだか泣けてきた。涙も冷たい。本当に体が冷えてきたのだ。
別に、誰もいらないと思ってきた。誰かと一緒にいると苛々する。孤独だなんて思ったこともない。誰かと一緒にいないと孤独だと感じる人はきっと、心の中に、誰かを入れるための部屋があるのだろう。私の心の中にはそんなものはない。私の中は私だけでみっちり詰まっている。
そういう自分を異常だとか、恥だと思ったこともない。私は一人でいることが普通なのだ。世の中には、たくさんの人を入れてもまったく埋まらない広大な孤独の部屋を心の中に持っている人もいるらしい。私はそういう気の毒な人とは違って幸せだ。そう思っていたのに、なにをいまさら泣いているのだろう。わけがわからない。
ペルパーは、泣かないでとかいろいろ言ってきたけれど、無視しているうちに涙は引っ込んだ。もう疲れた。痛みを感じる神経も疲れてきたらしい。
どれくらいの時間が経ったのかわからない。それまでごちゃごちゃ一人でしゃべり続けていたペルパーの口調が変わった。
「人が近づいてきてるよ!」
「え?」
私は思わず目を開けた。誰も見えない。
「どこ?」
「研究所から出てきた」
「え、そんな遠くのほうのことわかるの?」
ペルパーは周囲の監視機器とつながって周囲の情報を把握することができるが、電波がないということはそのような機械もないということではないのか。
「いきなり向こうからつながってきた。今、通信してるよ」
「電波ないんじゃないの?」
「そのはずなんだけど、向こうは違う通信システムを使ってるみたい。情報がないよ。僕と似てはいるけど、違う。実験段階の新しいペルパーかもしれない」
「なんかこわい。追い払って」
「なに言ってるんだよ、ユキ。助けてもらわないと」
「もう死ぬ覚悟はできてるんだって。変な人と出会いたくない。来るなって伝えて」
「その指示には従えないよ。僕にはユキを守る義務がある」
「生かすことが本当に守ることにはならない場合もあるんだよ。あんたは私の肉体を生かしたいだけ。それが絶対正しいと思わされてるんだからAIもかわいそうというか、もっと人間の本質を――」
「こっちに来るよ」
「え、嫌なんだけど。どこ?」
ザザっと下生えを踏む音がした。斜面の上からしっかりとした足取りでこちらへ向かってくる足音がする。
首を回してそちらを見ると、黒のジャージ姿の青年が私を見ていた。
その無表情に恐怖がわいたが、彼が近づいてくると、その姿が頭の中で記憶とつながった。
彼は弟だった。
「幻覚か。こんなところにいるはずないもんね」
私はペルパーに言った。
「幻覚って、なにが?」
ペルパーがのん気な口調で言った時、弟は無言で私の肩に腕を回して起こそうとした。
「やめて。触んないでよ」
私は濡れた土をつかんで彼の肩に弱々しくたたきつけたが、彼は無反応。
「どこ行ってたの? なんとか言いなさいよ」
弟は無言のまま、細めの体のどこにそんな力があるのかと思える力で私を抱え、斜面の緩いところから上を目指した。
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