12

 真剣に耳を傾けて聞いた。私が今しているように、「現在に集中する」という言葉からイメージできるのは、明晰な意識だった。

 でも正直、弟の言っていることの半分も理解できなかった。私は弟が予想したような、弟の同類ではないから。私が自さんに、弟の言っていることがわかるかと尋ねると、直接何時間も話を聞いてわかったと彼女は答えた。

「彼は、あたしたちとはまったく違う時間感覚の中を生きてるんだよ。それと感情も違う」

 彼女はきっぱりと言うと、「コーヒー淹れ直すわ」と私の前のコーヒーカップを持ってキッチンへ向かった。

「感情も?」

 私はソファーから身を乗り出して彼女を目で追う。

「そう。彼にとっては、複雑な模型を組み立てながら歴史かなにかのテキストを暗唱することも、楽しく笑いながら悲しい過去を思い出すことも朝飯前なの。彼は苦しみながら楽しめるし、よろこびながら心の中で泣ける。そのことに気づいた時、あたしは彼と一緒にいるのがこわくなった」

「こわくなった?」

「だって、同時に全部の感情があるってことだよ。それって、感情がないことと同じでしょ」

彼女は私の前に新しいコーヒーを置いた。

「そういうあたしの気持ちを感じ取って出て行っちゃったんだと思ってた」

「私に渡せなかったって言ってたんですよね? どうしてかわかりますか?」

 その時には、姿を消すと決めていたってことじゃないか。

「さあ。家まで行ったとは言ってたけど」

 きっと、洗濯機が壊れたと言っていた時だ。私が弟の刺青を見て、態度で拒否してしまったからじゃないか。そうに決まってる。まさか、姿を消したのも私のせいなのか。

「じゃあ、また」という録音された声の響きは、嘘には聞こえなかった。それなのに。

最後に会った時、弟が別れ際になにを言ったのかは、憶えていない。「じゃあ、また」と言ったのだろうか。

別れはいつも、あとになってから、あれが別れだったのだとわかる。いつでも、そういうものなのだ。


自さんは弟に入れた刺青の写真を持っているというので見せてもらった。

 彼女の話によると、彼女の刺青のデザインは、彫師として修業を積みながら独自に確立したスタイルらしい。遺伝子や細胞や筋肉や骨などの生体構造から着想を得て、トライバルタトゥーと写実のエッセンスを混ぜ合わせたものだとか。

 私にはよくわからなかったが、弟には刺さるものがあったのだろう。弟に芸術的センスがあるのかどうかもわからない。今まで、弟が抱え込んできたもののことも、まったく知らなかった。

 私は家に帰ったあと、完全記憶者のコミュニティに弟の行方の手がかりはないかとさぐったが、弟の影も形も見当たらなかった。仲間ではないと思っていたとしても、一番弟に近い人たちであるとは言えるだろうと思ったのだが、弟はそこには属そうとしなかったようだ。

 諦めと執着の間を静かに揺れ動きながら、キャベツの塩漬けとザラメでつくったホットケーキを交互に延々と食べている時、私のスマートフォンが鳴った。

 表示されているのは知らない番号で、私はかすかな期待に心拍数を少し上げながら応答した。

「はい」

「あのお、勝手に撮ったうちの画像をタトゥー屋さんに見せたって聞いたんですけどお」

 高い女性の声がだるそうに言った。

 話を聞くと、なんと、あの駅ですれ違った、首に刺青を入れた女性だった。タカダと名乗ったその女性は、私が連絡先を渡した彫師の店にたまたま客として訪れ、そこで見覚えがあると言われ、私のことを教えられたのだという。

「どういうことですか? うちのこと、嗅ぎまわってるんでしょ?」

「すみません」

 その女性の口調は、怒っているというよりは純粋に疑問を解決したがっているような感じだったが、私はとりあえず謝った。

「顔は見えないようにしたつもりだったんですけど、わかっちゃったんですね。申し訳ありません。あなたのことを嗅ぎまわったわけではなく、あなたのタトゥーが、その、弟のタトゥーと似ていたので」

 私は、行方不明になった弟を探していることを説明した。

「それで、自さんのところまで行ったんですけど、結局手がかりは得られなくて、はい」

「自さんのところまで行ったんですか」

 彼女は驚いたようだった。

「はい。あなたも、自さんに入れてもらったんですよね?」

「はい。うちもわざわざ自さんとこへ行きました。自さんって、めっちゃすごいから」

「めっちゃすごいって、えっと、なにがすごいか具体的に教えてもらえませんか?」

 弟と似た感性を持っている人の話を聞いてみたかった。

「具体的にって言われてもお。うーん。とにかくすごいんです」

 会話が終わってしまいそうで私は焦った。手がかりになるはずはないのに、また弟との糸が切れてしまうような気がした。

「弟のこと、なにか知りませんか?」

「知りませんよ」

「えっと、完全記憶って知ってますか?」

「え? なに?」

 私は弟が異常な記憶力を持っていたらしいことを説明した。ついこの間、弟の残した音声でそのことを知ったと。

「弟なのに、今まで知らなかったんですか?」

 意外にも彼女はしっかりと私の話に耳を傾けてくれた。

「あ、弟が三歳の時に両親が事故で死んで、それぞれ別の親戚に引き取られたんです」

「ふーん。弟さんも一緒に事故に遭ったんですか?」

「あ、はい。私は幼稚園にいて、弟は両親と一緒に車に乗ってて大怪我したんですけど、助かって」

「何十年も前の話じゃないでしょ? 自動運転じゃなかったんですか?」

「相手の車がビンテージ車だったらしいです」

「ふうん。うちも子供の頃に大怪我したことありますよ」

「え?」

「ジャングルジムのてっぺんから落ちたらしいです。うち田舎だったから、古い遊具がまだ公園にあって」

「その時のことは憶えてないんですか?」

「まだ小さかったから」

「あなたは記憶力がいいとかそういうのはないんですか?」

「全然。あの、そろそろ切りますね。事情はわかってすっきりしたんで」

「すみません、会ってお話しできませんか? もっと弟との共通点があるかもしれませんし」

「そんなこと言われても。弟さんのことはなにも知りませんよ」

「いや、でも。食事ご馳走しますんで。いつでもタカダさんがご都合のいい時に」

「うーん。でもしばらくここ離れるんですよねえ」

「え、どうしてですか?」

「実験に参加するんですよ」

「実験?」

「ペルパーの開発に関わってる研究所から案内が届いてえ。報酬もらえるんで、泊りで研究所に行くんです」

「なんか怪しくないですか?」

「怪しくないですよお。ちゃんとサイトにも案内載ってます。でも、応募してくる人の中から選んじゃうと条件が偏るから、研究所のほうからランダムにいろんな人に協力を呼びかけたらしいです。うちはたまたま選ばれたっていうか」

「それ、私もついていくことはできないでしょうか?」

「え? だから、選ばれないとだめなんですよお」

「付き添いもだめなんですか? 宿泊費とか払ってもだめですかね?」

「いやあ。どうしてそんなに来たいんですか?」

「わかりません。でも行きたいんです」

「ごめんなさい、もう切りますね」

「ちょっと」

 通話は切れた。

 自分でも、どうしてそんなことを突然言い出したのかわからなかった。いや、でも、考えてみれば、理屈はある。弟が失踪した時にはペルパーはまだ支給されておらず、一般的なものではなかった。弟が生きているとしたら、ペルパーを使っていない数少ない人の中の一人だという可能性もある。ということは、逆にペルパーに関する実験ならばそれに関係していることも考えられるのでは。

 ネットで研究所のことを調べてみた。確かに、一般人の中からランダムに抽出した人の中から実験への協力者を募っているという説明があった。ペルパーの性能向上のための研究。一人一人のポテンシャルを引き出し、新しい思考の扉を開くお手伝いをすることで、より高次元の社会貢献を目指す――

 なんだかよくわからない美辞麗句を読み飛ばし、ペルパーに記憶させるため、私は研究所の住所を見つめた。


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