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そんなことがあって、俺は自分を治すことも、仲間を見つけることも諦めた。俺にとって、諦めることはいつも簡単だったよ。
ほかの人は、未来のために、努力したり、我慢したりするだろ? それは、未来っていうのが、いつか自分のすべてである現在になるからだよね。未来が大切だから、諦めるってことは痛みを伴う。でも、俺にとっての未来は、ただ増える予定の場面の集まりでしかないから、どうでもいいんだよね。それが楽しいものであるほうがもちろんいいけど、どうしようもなくつらい未来だったとしても、俺は四歳の時に見た夕陽の場面にいつでも逃げ込めるから。
そんな感じで俺はなんとなくぼーっと生きてきたわけなんだけど、三か月前のある日、電車の床に落ちてたタトゥーマガジンの表紙が目に入って、汚れてたのも気にしないで拾って見てみたんだ。その表紙と巻頭特集に載っていたのが自さんという人の作品で、なんだかその単純な形と複雑な濃淡が特別に思えて、今までタトゥーなんて全然興味がなかったのに、すごく惹かれたんだよね。
別にすぐに入れたいって思ったわけじゃないんだけど、なぜか俺は自さんに、自分のことを長々と語った長文のメールを送りつけてしまったんだ。今まで、なんの目的もなく自分のことを誰かに話したいと思ったことなんかなかったのに、急に自分でも本当になんだかわからない気持ちになって。
俺のメールは施術依頼じゃないし、一週間以上経っても返事が来なかったし、もう気にしないようにしようと思った頃に、自さんから、会って話したいから来てとだけ書いてある返事が来た。すごく離れてるのに、俺は迷わず自さんのところへ行ったよ。
自さんと会って、全然タトゥーの話はせずに、俺はメールに書いたことも含めて改めて自分のことだけを話したんだけど、自さんはすごく興味深そうに聞いてくれて、あらかた話し終わると、俺の能力は素晴らしいって言ってくれた。
いや、俺は能力があるんじゃなくて、忘れることができないだけって言ったけど、自さんは、でも、そのおかげであなたはたくさんの世界を手に入れてるって言ってくれた。そういう解釈はしたことがなかったから新鮮に思ったよ。
たくさんの世界って言っても、俺が経験した世界でしかないんだけどね。自分ではない誰かになれるわけじゃない。でも、少しずつの変化だけど時間が変われば、そこには別の自分がいるわけだろ。子供の頃の自分は、大人の自分とは違うし。全然違う人間って言ってもいいかもしれない。ある意味、多重人格じゃないけど、俺の中には全然違う人間が何人もいるのかもしれないよ。
でも、俺はつまらない人間だから、つまらない自分とつまらない世界がたくさんあるだけじゃないかと思った。俺がもっと上等な人間だったら、いろいろな知識を身につけて、たくさんの人たちを助けられたかもしれないし、色あせない思い出があるってことにもっと尊い意味があったかもしれない。
自さんにそう言うと、自分の世界がつまらないなんて思う必要はないって言ってくれた。まだ若いんだし、これからいろいろな経験ができるんだから、そうすればいいじゃないかと。
俺の中には常に、現在だけではなく、今までの人生が展開されていて、俺はそのすべてを一瞬で俯瞰することができるんだ。一瞬っていうのは正確にどのくらいの時間の長さなのかはわからない。一秒よりは短そうだけど、刹那と言えるほど短くはない。その時間が、俺の脳の処理能力の限界なんだと思う。例えるなら、俺の前にはたくさんのモニター画面があって、俺はそのモニターを全部同時に見ることができるみたいな感じ。そのモニターはどんどん増えていくんだけど、意識すれば、一つ残さず全部見ることができる。それに映っているのは全部俺の人生。そのほとんど全部がつまらないわけだから、これから加わってくるモニターに映るものもつまらないと考えるのが当然だし、俺はそのつまらなさに心底慣れ切ってしまっていた。
だから、俺は現在にも未来にも期待できないんだ。頑張って説明すると、自さんは少しわかってくれたみたいで、それはよくないかもしれない、現在だけに意識を集中することはできないの、と言った。
別に俺は現在に集中していないわけじゃない。現在と過去に同時に生きることは、俺にとってはごく自然のことで、「現在に集中する」という言葉からイメージできるのは、自分の一部を切り捨てるみたいなことだった。
自さんは強く首を横に振ったよ。切り捨てるっていうのは、二度と戻ってこないっていう意味だと。あなたの過去は絶対に消えることはないんでしょって。
それもそうかと思った時、彼女は、あなたは脳の処理能力が高くて取捨選択をする必要がないんだろうけど、取捨選択は必要だと言ってきた。
確かに俺は記憶の取捨選択をしないというか、できない。脳の処理能力が高いから必要ないのか、ただ取捨選択の能力がないということが能力の高さのように思えているのかはよくわからない。
彼女に言わせると、タトゥーは究極の取捨選択だったらしい。今は簡単に消せるようになってしまったからタトゥーの意味が変わってきてしまっているけれど、もともとは、消せないということにこそ意味があったんだって。言われてみればそうだよね。タトゥーを入れる理由は人それぞれだろうけど、消せないからこそ、民族とか集団への帰属とか、強い思い入れを示すことができたわけだし。
彼女いわく、体表面積は限られるわけだから、そこにどんなタトゥーを入れるか決めるってことは、究極の取捨選択だろうって。俺は大げさな表現だなって思ったけど、それだけ彼女は自分の仕事にこだわりがあるんだろうなと受けとめたよ。
彼女は、脳の記憶処理の取捨選択と、自由意思としての取捨選択をごっちゃにして捉えだして、取捨選択の練習をすればいいんじゃないかと言ってきた。
練習してどうにかなるものなら、とっくにそうしてるんだけどね。話のかみ合わない彼女のタトゥーを入れることにしたのは、別に彼女に勧められたからじゃない。もっと自分を大事にしたかったっていうかな。気障っぽく聞こえるかもしれないけど、自分の体を芸術作品にしたかったんだ。彼女のタトゥーはそう呼ぶ価値があると思った。彼女にタトゥーを入れてもらえば、少なくとも、自分の体のことは大事にできると、簡単には死ねないと思えると思ったんだ。
別に俺は死にたいと思ったことなんてないんだけどね。だけど、死がこわいと思ったこともない。
何度も言うけど、俺にとっては過去と現在は同じで、時が流れているという実感が薄いから、死のイメージもほかの人とは違ってるみたいなんだよね。
俺にとっての死は、自分のすべてである現在の終わりって感じじゃない。さっきのモニター画面の例えで言うと、死の場面っていうのは、俺が眺めているモニターたちの端っこに最後に加わるはずの場面でしかないわけ。死によって、それらを眺めている俺は消えるわけだけど、消えたら痛みも残念さもないわけだろ? それがこわいとはどうしても思えないよ。
ちょっとおかしいかもしれないけど、俺は死をこわがりたいんだと思う。痛みとか恐怖が欲しいっていうのかな。苛つきとか怒りは欲しくない。そういう不純物のない、純粋な痛みとか恐怖とか、絶望とか残念さとか無念さとか、胸が冷えるような感覚っていうか。寒い部屋で震えてるみたいなイメージ。死の恐怖って、そう感じなんじゃないかなって思って。それが欲しい。
なんでそんなこと思うんだろう。もしかしたら、幸せになりたいっていう気持ちの裏返しなのかも。やっぱり俺にも期待があるのかなあ。生への執着がないと、死の恐怖もないわけだから。大切なものがあればあるほど、失うことが恐ろしくなりそうだし。
でも、本当の幸せは、そういうものじゃないのかもね。わからないけど。
というわけで話がとっ散らかっちゃったけど、それが俺がタトゥーを入れた理由です。とにかく言いたいのは、俺は自さんにタトゥーを彫ってもらってから、ちょっと気持ちが明るくなったってこと。それと、もし姉ちゃんが、俺と似たところがあったら、俺と同じだったら、教えてほしいなってこと。もしかしたら助け合えるかもしれないし。こんなこと、照れ臭くて言える気がしなかったんだけど、なんとなく言えるかもって思ったから。姉ちゃんがそうじゃなかったとしたら、別にいいや。気まぐれで長い話をしちゃってごめん。最後まで聞いてくれてありがとう。じゃあ、また。
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