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弟は失踪した時、住んでいたアパートを引き払っていた。警察からの報告によると、弟は失踪前、近所のリサイクルショップに何度か物を売りに行ったり、粗大ごみを出したりしていたらしい。職場の人にはなにも言っていなかったそうだ。そもそも、弟と親しい人は誰もいなかった。
失踪前、弟の様子に不審さを感じた人は一人もいなかった。アパートの管理も不動産屋もすべて自動化されていて、どこへ引っ越すのかと尋ねる人はいなかった。
弟の義母には、弟が失踪した時でも連絡を取らなかった。頭をよぎらなかったわけではないが、向こうからなにも言ってこないし、どうしてもためらってしまった。だから、失踪前になにか連絡があったのかどうかもわからない。弟の義母は、私にとっては赤の他人も同然だ。赤の他人よりも接しにくい他人だ。
弟のことも、赤の他人と思って忘れたほうがいいのかもしれない。そもそも弟とは共有している大切な思い出もなければ財産もなければ共通の友人もない。両親が死ぬ前の記憶はぼんやりと薄靄に包まれてそれを払う気力も出ない。
忘れていないということを思い出したのは、弟が失踪したという知らせを受けた時だった。その事実より、戸惑いのあとから打ち寄せてきた喪失感にショックを受けた。私は大切なものを失ったのだ、それ以外のなにものでもない体験をしたのだ、と思い、慌ててその考えを打ち消そうとしたが無理だった。
忘れることにはなんの労力もいらないのに、忘れようとすることには労力がいるらしい。じわじわと体の芯が蝕まれるような気がする。努力するより、楽なほう楽なほうへ流されることのほうが私にとって自然だ。
弟の住んでいたアパートの部屋にはもちろん別の入居者がいた。突然訪ねて行った私に、インターホン越しの男性の声は戸惑っていた。
「え? 前にここに住んでいた人のお姉さん?」
「はい。えっと……なにか残されていたものとかありませんか? 訪ねてきた人とか」
「あるわけないでしょ。何年前って言いました?」
「四年くらい前です」
「僕が越してきたのは二年前です」
「あ、そうですか」
「もう来ないでください。こわいなあ」
音声は切れた。
私は日の暮れた周辺の住宅街や商店街を歩き回り、弟ならどの店に入るだろうかなどと想像してみたが、私の想像は間違っているという妙な確信が無視できなくなっただけだった。タトゥースタジオはどこにもなかった。
なんだかどっと疲れてしまった。しかし、家に帰ってぐっすり眠った翌朝は、珍しく気分がよかった。程よい運動に心が満足したような。
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