8-5(第一部完)秋田県民あるがままを認める

「すごい桜だね」

 あかりは小さく、そうつぶやいた。


「おう」


「陸斗に見せたかったんだ、中学校で友達になってからずっと」


「……そうか」


「あたしの故郷は、『秋田県』なんだ。陸斗は生まれた時からずっと、大館にいたから、大館が故郷だって言えるけど、あたしは小さいころから秋田県じゅうを転勤して回ってたから」


「そうか」俺は心が熱くて、うまく説明できない感情にかられていた。言葉が、うまく出てこなくなっていた。人を殴りたくなる気持ちに似ているけれど、それよりもっと、ずっと、優しくてふわふわした感情……。


「どしたの陸斗。なんで泣いてるの」

「わからん。涙が止まらない」


 俺がそう言って涙を指で拭おうとすると、あかりがポケットからかわいいレースのハンカチを取り出して俺に渡した。俺はそれで涙を拭くことがためらわれて、しばらくそれを見つめていた。あかりが、

「涙拭きなよ。男の子が泣くもんじゃありません」

 と、冗談めかして今普通に言ったら時代遅れなことを言い、俺の背中をばしばしたたいた。


「ありがとう」涙を拭く。


「そんなに嬉しかった? 桜」


「いや。俺は、あかりが……俺に、この桜を見せたかったという気持ちが嬉しい」

「やんだぁ、ひょしい。まるであたしが陸斗サ惚れてるみたいでねっかあー」

 あかりが全力で訛ってきたので、俺は思わず笑った。あかりも笑った。


「きれいだね」まるで、「月がきれいですね」というような口調。


「ああ。きれいだ」

 俺はそう答えて、

「あかり、……俺よ、あかりが好きだ」

 と、そうあかりに言った。あかりはふふっと笑って、

「あたしも、陸斗が好きだよ」

 と、答えた。



 結局その日は、あまりに桜がきれいすぎて、うっかり下戸のあかりのお母さんまで飲んでしまい、あかりのお祖母さんの家に厄介になった。石垣さんの家には詫びておいた。


 翌朝朝ごはんのひきわり納豆と激辛の塩鮭をつつき、すっかり二日酔いの姉貴とあかりのお父さんとお母さんが水を甘露甘露と言いながら飲むのを眺め、午後の列車で鷹巣まで戻り、そこから奥羽本線で大館に帰ってきた。


 大館は相変わらず、実に退屈なところだったけれど、いたって平和だ。環奈ちゃんは桜を見られたのが嬉しかったらしく、とても機嫌よく家に帰っていった。


 とき子祖母ちゃんはちょっと不満げに、やっぱり山菜のスジを剥いていた。

「桧木内川堤、こんなん」

 姉貴がスマホの画像を見せる。


「あいしか、きれいだこと。北秋くらぶの桜は咲かないんだか?」

 北秋くらぶというのは大館市内の料亭で、近くに桜並木がある。


「大館駅から帰ってきたときは咲いてなかったけど」


「んだか。いいなぁおめがだばり桜見にいって」

 ぶーぶー言うとき子祖母ちゃん。姉貴はしばらくぼーっとして、ふと気づいて

「やべ。きょうからまた仕事だ」と言って玄関前のテレポーターに飛び込んだ。


「……萬海は忙しいこと。こいだば結婚どころの騒ぎでねぇな」

「仕方ねーべ、姉貴はああいう人だったいに。働いてるのが一番楽しいんだびょん」


「んだか? まあ、んだべなあ。いまは無理に結婚勧めるのもセクハラになるったが」


「んだよ。姉貴は姉貴だ。結婚は本人の意志でねばだめだ」


 そんなことをぽつりぽつり話して、とき子祖母ちゃんは剥き終えた山菜を台所に運び、寝っ転がってテレビをつけた。きのうの桧木内川堤の様子をやっていて、異世界人も秋田県民も、みな楽しそうに酒盛りをしている。


 そこに「ニュース速報」というテロップが出た。

「秋田県を日本に戻す試みは中止」とある。桧木内川堤の映像が終わってすぐ、そのニュースが報じられた。


「速報です。秋田県庁は県民の意見を受けて秋田県を日本に戻す予定でプランを進めていましたが、異世界人やモンスターが出没するようになった秋田県をそのまま日本にもどすのは危険であると日本国政府が判断したため、一時、秋田県を日本に戻す予定を中止することを正式に決定しました」


 ……なるほど。防疫上の問題とかもあるかもわからんな。未知の病原体とか持ち込んだらまずいしな。


 姉貴のでっかいスマイルが想像できる。

 その日の夕方、また同じニュースが流れた。こんどは県民にインタビューしている。


 ふくよかな、若いころはさぞかし美しかったろうという印象のおばあさんが、秋田駅前で、

「モンスター? とか出てそれは嫌だったけれども、灯油いらねのはうれしなんす」

 と笑顔で言っている。


 秋田駅構内では中年の、JAの帽子をかぶったおじさんが、

「二期作二毛作ができるのは本当にありがたいことだす。いーいところだぁ異世界」

 と、やっぱり笑顔だ。


 今度は小さい男の子が、

「ずーっと夏休み! たのしい!」と、正直に言う。


 聖霊女子校の制服を着た女の子が、

「異世界人ってフツーにイケメン多くてかっこいいし、剣とか魔法とか、夢がある」

 と答える。


 いや、いい意見ばかり集めたからこの反応なのだろう。きっと、「モンスターが困る」とか、「異世界人は無遠慮で困る」とか、そういうことを言う人だっていただろう。


 だけれど、どうやら桧木内川堤の一件で、秋田県民の異世界に対する感情は、大きく変わったらしい。


 俺は、この異世界が好きだ。イルミィやロイがいる。モンスターが湧いて困るし、物がなくて困るけれど、それはこのさき対処法が生まれるものだ。


 そのニュースを観ていると、何故か、あかりに桜を見せてもらったときと同じ涙が、心の奥からこみ上げてきた。頬を、涙が伝っていく。


「たっだいまぁー」

 姉貴が予想外に早く帰ってきた。なにごとだ。玄関に出ていくと、施設で着ていたらしい白衣や、大量の文房具の入っている紙袋を抱えている。


「えへへへ、研究施設辞めてきたった」


「は?」

 喧嘩腰の返事が出てしまった。姉貴は、「これからは秋田県のために発明するんるん。あんな、世論に流されるコシヌケ集団と研究するなんでごめんだかんね」

 と、陽気に言う。秋田県を飛ばすのが中止になったのは知っているのか、と聞くと、

「うん知ってる。研究施設で見た。防疫上の問題っしょ? 現実世界にゴブリン連れてくわけにいかないかんね。……ありがとう、陸斗。あんたがこの世界を楽しんでくれているおかげでわたしは自信をもって研究施設を辞められた」


「……どうやって食ってくんだ?」


「なんとでもなるべ。便利グッズを作って売るつもりだからな。陸斗、とりあえずスコップにロケットをつけよう。加速がついてぶん殴る速度=パワーが増すぞ」


「いらんわ! どっかのSF漫画かよ!」


 姉貴はいつになくご機嫌で帰って来て、いつもと変わり映えしない夕飯を夢中で食べ、そして俺たちは、異世界で楽しく暮らすのだった。(第一部完)

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