1-5 ご近所さん無事に異世界に存在す
しばらくぼーっと台所に座っていると、唐突に
『このままでいいのか?』
と、心の奥でなにかが囁くのが聞こえた。
『このままでいいのか? 秋田県は異世界なんだぞ? お前は昔、異世界に行きたい、って駄々をこねて姉貴を困らせたよな?』
立ち上がる。ダッシュで、サンダルをつっかけ家を飛び出す。
あたりを見渡す。いつも通りの町内。モンスターも冒険者も見当たらない。ご近所のみなさんは無事だろうか。異世界に飛んだのはともかくきのうの地震はけっこう大きかったじゃないか。
本当に、ここは異世界なのか? 頬をつねってみる。痛い。叫び出しそうになるのをこらえ、俺は街の、昔お社のあった場所につながる路地に立ち尽くす。
犬の吠える声が聞こえた。ご近所の奥村さんだ。吾郎太、通称ゴン太という虎毛の秋田犬を飼っているのだが、どうも俺はゴン太に嫌われているらしく、さっきからずっとゴン太に吠えられているのだった。
「――陸斗。どうした」
奥村さんのおじさんがそう話しかけてきた。日焼けした、塗装会社の社長さんだ。無事だったようだ。
「な、なんか、ただ家サいるのが怖くなって」
「なんだっけな、秋田県が異世界サ飛ばされたズ話だものな。俺異世界つうもんがなんだのかわかんねくてや、陸斗だば分かるってねがと思ってそのうち話を聞こうと」
「あー……おじさんは、ドラクエわかります?」
「おー、ドラクエったばドラゴンクエストだべ。あれみたいな、魔法とかモンスターとか、そういう世の中になったズことか?」
「そうだと思います」
冷静に説明することで俺も冷静になった。でもゴン太はまだ吠えている。
冷静になったところで、奥村さんのおじさんは散歩を再開した。ゴン太は振り向きざまに俺に吠えている。どれだけゴン太に嫌われてるんだ俺。
しばらく、路地にぼーっと立っていると、姉貴が駆け寄ってきた。
「どうした。いきなり飛び出すのやめなさいって前から何度も言ったじゃんか」
「うん――うん――俺、なんか怖いんだ」
「大丈夫。すべての秋田県民が、そう思ってるはず」
「すべての……ってことは、姉貴も?」
姉貴は頷いた。
「そうだよ。異世界がどんなところか、前もってきちんと調べたわけじゃないからね。たまたま座標として適当だったから移動しただけ。けっこうおっかなびっくりでやってる」
姉貴はそう言うとへへっと笑った。
「ミツ祖母ちゃんちに冒険者が出たってほんと?」
「うん、大アヒルとかいうのに乗って、秋田県に来たんだって。そいで、モンスターっつってたけど、たぶんクマにやられて怪我をして、ミツ祖母ちゃんちに助けを求めてサラダ寒天食べたらHP回復して」
「HP……か。まるっきしゲームじゃないの。こりゃ面白くなってきたぞう」
「姉貴はなんでも面白がるなあ」ため息がまた出る。
「だって面白いじゃん。異世界だよ異世界。こんな面白いこと、日本にいてある?」
「いやないけど……確かに姉貴がライフラインを全部つないだのもすごいけど……」
そうやって話していると、道路の向こうで、アスファルトに色とりどりのチョークで絵を描いて遊んでいた小さい女の子が俺たちに気付いた。石垣さんちの環奈ちゃんだ。これまた無事でよかった。
「あー! ふしんしゃー!」
どうやら俺を不審者だと言っているらしい。小学生にしては幼い口調でそう言うと、環奈ちゃんはたたたと駆け寄ってきた。
「ふしんしゃ、そのきれいなおねえさんだれ?」
「俺の姉さんの萬海だ。菅原萬海」
「萬海さん? ふしんしゃにはお姉ちゃんがいるんだね」
「俺は不審者じゃない菅原陸斗だ。まあ、姉貴はだいたい仕事で家にいないからな」
「あきたけん、異世界に飛ばされちゃったんでしょ? 異世界って精霊の守り人とかデルトラクエストとか、そんなかんじのとこなんでしょ?」
「うん、まあ、そうだな。それで?」
「これからもアイスとかチョコとか、食べられる?」
「さあ、わからん。姉貴、そのへんはどうなんだ」
「うむ、物流は物理的にないな。現状、秋田県内で食べられるものしか食べられない。もしかしたら異世界のほうに食べられるものがあるかもわからない」
「……ええ……じゃあ、誕生日にスイッチ買ってもらうけど、それも買えないの?」
「そういうことになるのう」と、姉貴の非情な一言。
「ええ……やだぁ……やだよう……」
環奈ちゃんは唐突に泣き出してしまった。まいったな。とりあえず家に帰ったら、と声をかけるも、環奈ちゃんは完全なる駄々っ子、秋田弁でいうとこの「ゴンボホリ」になってしまった。小学生でここまでひどい駄々っ子する子、初めて見た。
「えーと、えーと……これ食べて機嫌なおして」
姉貴はポケットからなぜか金萬を取り出した。なんで生で服のポケットに入っているんだ、というCMに対する疑問と同じ疑問が出てくる。そもそもいまは夏じゃないか。腐るだろう。
「あー! ニジュウハチコたべるやつ!」
この、「金萬」というえげつない名前のお菓子は、要するに円柱状の饅頭である。「もちろんこれですよ」とサラリーマンがスーツからそのまま取り出したり、何故起用されたか分からない外国人が「ニジュウハチコ、タベマシタ!」と笑顔で言う、というなかなかのカオスなテレビCMが、県内で放送されている。
環奈ちゃんは金萬をもぐもぐして機嫌を直し、自分で家の鍵をあけて帰っていった。環奈ちゃんは鍵っ子だ。両親は忙しいし、二世帯住宅の一階に住んでいた祖父母はいまは施設にいる。結構孤独で可哀想な子なのだ。
「とりあえず帰ろう。ここで衝動と戦っててもなんにもならないよ」
姉貴にそう言われ、家に帰ることにする。どこから湧いてくるのかわからない暴力的な衝動を、ぐいっと抑えて心の中の箱に押し込む。
家に着くととき子祖母ちゃんがテレビを見ていた。ここまで分かっていることを、秋田のローカルニュースで解説している。
まず、いま秋田県は日本国内から遠く離れたところ、いや日本の存在しないところにある。
また、異世界にも人がいて、まだどんな人種かわからないので、北の県境には秋田県警が検問している、とのことだった。
そして、そこでは魔法を使う人やモンスターがいて、モンスターにはうかつに手を出してはいけないこと、要するにクマと同じ扱いでよいのだということが説明されている。
「あいしかっ。クマよけの鈴出してこねばね」
ニュースを聞くなり、とき子祖母ちゃんはいそいそと山菜採りセットからクマよけの鈴をとってきた。
「おめがだもクマよけの鈴つけれよ」
とき子祖母ちゃんはそう言い、海外旅行の免税店で買ってきたヴィトンのバッグにクマよけの鈴をぶらさげた。ハッキリ言ってちぐはぐだ。
とにかくクマについては対処法をよく心得ているのが秋田県民である。モンスターの心配はそれほどいらないかもしれない、と、俺は思った。
そのとき、俺たちはモンスターの恐ろしさをさっぱり知らなかった。クマと同じ扱いで、魔法を使える相手をごまかせると思ったのが、そもそもの間違いなのである……。
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