042 涯へ



 果実の神女クリスタは寝台の上で目を覚ました。


 右の目尻から、滴が落ちる。


 ゆっくりと上半身を起こすと、部屋に控えていたライナーがいぶかしげに声をかけてきた。


「どうした」


 一年前よりもいくらか優しく響く声を、しかしクリスタは聞いていなかった。


 起きる直前に見た甘い夢をもう一度追いかける。


 ひとつひとつを丁寧に咀嚼して、両手でそっと顔を覆った。




 つやつやとした葉から、ぴちゃんと雨が一滴落ちた。


 離宮の庭の薔薇は二番花が咲き終わったころから摘芯されるようになり、花は咲いていない。かわりに土が乾かぬようこまめに水がまかれ、害虫対策が行われている。


 ユスラは少し残念に思いながら、青空を見上げた。


 白い綿雲が浮いて、太陽が強く輝いている。これから午後にかけてかなり暑くなるにちがいない。


「ねえ」


 呼びかけに反応して振り返ると果実の神女が立っていた。みるからに不機嫌そうだ。そばにはライナーも控えているが、彼女は手を軽く振って離れるように指示した。


「一人でなにやってんのよ。不用心すぎるでしょ」


 問われて、ユスラは少し戸惑った。背の高い彼女を上目遣いで見上げ、慎重に言葉を選んだ。


 クリスタの形の良い眉が顰められる。


「なに」


「あなたに、そんな風に怒られるなんて、思ってもみなかったから」


「けんか売ってんの」


「そうじゃなくて」


 純粋に嬉しかった。最近のクリスタは少し丸くなった。他人を寄せ付けようともしなかったのに、いまはこうして声をかけてくれるようになった。悲しいこともあったけれど、結果としてそれが彼女を変えたように思う。


 この世は、悪いことばかりではない。


 ときどきだけれども、良いことが悪いことに、悪いことが良いことに変わることもある。


 二人はそれ以上なにも言わず庭を思うように眺めた。


 色とりどりの薔薇が咲いて、かぐわしい匂いに満たされて、天気が良くて。


 こんな極上の日を、よりにもよってクリスタと味わえる奇跡を嬉しく思った。


「……ねえ」


「なあに?」


「行くんでしょ」


「…………」


 冷静になるよりも先に、体が強張ってしまった。


 クリスタの顔色をうかがう。彼女の表情は硬かった。


「……どう、」


「夢を見たの」


 だめだ。


 おそらくその夢は、例の予知なのだろう。いままではずれたことがないという未来図。


 言い訳もごまかしも通用するはずがない。ましてやユスラは嘘や駆け引きとは無縁だったし、クリスタは感受性が鈍っているとはいえ神女だ。


「そんな顔しないでよ。誰にも言わないから」


「…………え?」


 彼女の意図が理解できず、ユスラは目をまたたかせた。


「誰にも言わない。あんたには借りがあるから」


「借り?」


「あんたは、あたしのそばにいてくれた。神女だろうと嫌なことはしなくていいって教えてくれた。


 ──その分よ」


「…………」


「勘違いしないでよ。別にあんたのためとかじゃないから。いつまでも借りがあるなんて気持ち悪いでしょ。ずるずる返さずにいたら、いつかとんでもない要求をしそうだし、あんた」


「しないわ」


 反射的に、口をとがらせて抗議していた。言ってしまって「あ、」と怯えた。不意をついた言葉がどんな作用をもたらすか恐れたのだが、クリスタに変わった様子はなく、むしろいつも通り取り合ってくれなかった。


「どうだか」


 つん、とそっぽを向く。


 それが彼女の強がりであることを、ユスラはすでに知っていた。


「ねえ、…寂しくない?」


「ぜんぜん。まったく。むしろ、せいせいするわ」


「うん。私は寂しい」


「聞いてんの?」


「私は寂しいよ、クリスタ」


 笑ったつもりだった。


 けれど眉が少しだけ寄って、口元が上手に動かなかった。


 なんてへたくそなんだろう。笑顔すら作れないなんて。


 クリスタの腕が伸びる。ユスラをつかまえて、引き寄せられた。両手でぎゅっと、より近くに。──つんと鼻をつくレモンの匂い。


「ばかね、あんた」


「……うん」


「体に、気をつけなさいよ」


「……うん」


「ちゃんと歯、磨いて。ごはん、ちゃんと食べなさいよ」


「……うん」


「疲れたら休んで。無理しないで」


「……うん」


「…………」


「…………」


 お互いに、もう、言葉は出なかった。


 温かさを、匂いをしっかりと記憶に刻みこみ続けた。


 やがてどちらからともなく腕を緩め、お互いの顔を見た。


 クリスタのほうが少し背が高い。ユスラが彼女の瞳を上目遣いに見ると、そこには少し厳しい光が宿っていた。


「気をつけなさい。きっと、良いことばかりじゃない」


 予言者クリスタの忠告。


 ユスラは強くうなずいた。


「うん」




* * *




 その日クリスタは、クリームヒルトとともに皇子の呼び出しを受けた。


 それぞれの人狼をともなって奥の宮の玄関を出る。本宮に通じる一本道は両側を背の高い垣根に遮られていて、まるで迷路の奥に閉じこめられているような気分にさせる。


 太陽の光がまぶしい。垣根の葉は自ら発光しているように見えるほど、煌々と輝いていた。


 そういえば、ここを出るのは久しぶりだ。かれこれもう──何年になるだろう。


 ことあるごとに外出するクリームヒルトとはちがって、クリスタはほとんど離宮を出たことがない。私室の他にも大広間や図書室まで備えられているので、出る必要もないのだ。


 赤ん坊のときに連れてこられたから、帝宮に入った日のことすら覚えていない。


 クリスタにとって、離宮はまぎれもなく「実家」なのだと、妙に得心しながら皇子の執務室に入った。


「話は聞いているな?」


 命令することに慣れた有無を言わせない口調にかちんときたので、クリスタは黙秘した。


 代わりにクリームヒルトがのんびりと場をつなぐ。


「あの子がいなくなったのでしょう? わざわざ呼び立てていただいて申し訳ないけれど、わたくしたちはなにも知らないわ」


「隠し立てするとためにならんぞ」


「あら、心外」


 クリームヒルトはにっこり笑った。隙のない完璧な笑顔は、常日頃の社交術のたまものだろう。


「わたくしたちは、あなたがどれだけ怖いかよく知っているもの。もちろん嘘をついたりしないわよ」


「嘘つきが『嘘をついていない』と言ったら、それは嘘か本当かという命題があるな」


「これ以上は口頭で身の証を立てようにも難しいのではないかしら。代わりにと言ってはなんだけれども、あなたのしつけが行き届いた狼が、すでに報告しているのではなくて?」


「…………」


 無言になった皇子を見、クリスタは二人のやりとりの真意を見抜いた。


 クリームヒルトはたくさんの人狼をはべらせているが、その中に、クリスタと同じように皇子から宛がわれた守護者が混じっているのだ。


 それをこの場で当てこすりに使う胆力を尊敬する。半分、呆れ混じりではあるが。


「お前は?」


 皇子に水を向けられて、クリスタはふい、と横を向いた。


「知らない」


「……本当に?」


「なんであたしがあの子のこと知っておかなきゃいけないのよ」


 さぐるような視線を感じる。


 こちらはクリームヒルトとはちがって、ずっと離宮に引きこもっているのだ。こんなときのあしらい方など知るよしもない。


 視線ひとつ、指の動きひとつから、なにかを悟られそうで怖い。けれどここでうっかりぼろを出したら水の泡だ。必死に耐え続ける。脳裏にユスラの顔を思い浮かべながら、慎重に。


「なにか、夢を見たりもしなかったのか」


「…、するわけないでしょ」


「使えんな」


 冷淡な一言が、ひと息にクリスタを沸騰させた。


「…なにを、今さら! あたしの異能が自由に使えないことくらい、あんたも知ってるでしょう!?」


 謝罪しろとまでは言わない。ただここで「もういい」とか「分かった」とか、不毛な会話を打ち切る言葉が出てくれば、クリスタも引くことができた。


 だが皇子はさらに言葉を積んだ。


「ああ、肝心なときに使えないことは、よく分かった」


 激高が突き抜けるには十分な言葉だった。


「あんたにとって神女は、異能を使う道具ってわけね! あんたがそんなだから、あの子たちいなくなったんじゃないの!?」


「あの神女はともかく、ターゲスアンブルフ卿はそのような無責任な人物ではない」


「は! あの子の言った通りね、あんたはなにも知らない」


「なに?」


「神女と人狼が、ただ慣れ合っているだけだと思ったら大間違いよ。あたしたちは奪い合うから与え合うの」


 急に頭が冷えてきた。


 なぜこんな男にこだわっていたのだろう。こんな、なにも分かろうとしない男に。


神女あたしたちにも守護者たちにも、それぞれ意思ってもんがあるのよ。ただ異能を使うだけの道具なんかじゃない。……あんたには一生分からないでしょうけどね!」


 クリスタはきびすを返し、隣で成り行きを見守っていたクリームヒルトを促した。


「行こう。こんなやつなんかと話す必要なんてない」


「あらあら」


「待て! まだ話は終わって──」


「終わったわ。あたしたちはなにも知らない! 以上!!」


 扉を叩きつけるように閉めた。


 腹の虫はおさまらないが、言いたいことを言って少しすっきりした。


 クリームヒルトが小さく笑っている。


「……なによ」


「なんでもないのよ。ただ、頼もしく育ってくれて嬉しいのよ」


「はぁ!?」


「ついこの前まであんなに小さかったのに、よくよく見てみるとこんなに育っているのだもの。わたくしもとしをとるはずだわ」


「なによそれ、あほくさ」


 半眼で一瞥し、二人は離宮に向かって歩き出した。


 ときどき貴族とおぼしき人間とすれ違うが、三人の人狼を見てそそくさと離れていく。


 おかげで廊下が歩きやすい。


 二人はすぐに本宮を出ることができた。


 途中の庭を眺める。季節の花々の中に、薔薇の葉がつやつやと光っていた。


「……ねえ、あんた知っ──」「わたくしたちは」


 クリームヒルトが、クリスタの顔を覗きこんで人差し指を唇に押し付けた。


「なにも知らないの。あなたの人狼もね」


 クリームヒルトの甘い色香が漂う。


 クリスタの爽やかな匂いも。


 かつて薔薇が咲いていた庭に、まぎれ、遠ざかり。


 そして消えた。

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