041 口十7ラ
雨はまだ止んでいない。
少し前なら領地の水害を心配しただろうが、シュウは一切余計なことは考えず日記をむさぼり読んだ。
リヒトが部屋の扉をノックしたのは、終わりに差しかかったころだった。
「もしかして仕事してる? あんなことがあった後なんだし、少しは休んだらどうだよ」
「ああ」
曖昧にうなずきながら、シュウは眉間をもみほぐした。
休みたいのは山々だが、それどころではない。
「ユスラはどうしている?」
「さっきちょっとだけ起きて、また寝たよ。まあ、明日には回復するんじゃないかな」
「そうか」
「なんかあった?」
リヒトとの付き合いはエーミールよりも短いが、ユスラを真ん中に据えた距離は近い。その分、お互いの普段の状態を知っている。加えてリヒトは人狼でもある。ささやかな変化にすら敏い。
「そうだな……。とりあえずそこに座れ」
シュウの部屋には大きな寝台と書き物机がそろっている。
あいにく椅子は一脚しかないので、リヒトにはベッドの端に座ってもらった。
「なに? 日記になんかヤバイことでも書いてあった?」
「いくらか気になることはあった。が、」
エーミールとウーテにまつわるあれこれは、帝宮に戻ってすぐリヒトに話し終えている。
日記を読んで分かったのは、帝宮の神女たちのことをウーテが知ったのは産婆のせいだということだ。帝宮の神女と比較すればなにか分かるかもしれないと、そそのかしたらしい。
この産婆の指示のもと、ウーテの能力を見極める実験も何度か行われていた。なかなか研究者気質な人間だったらしく、現実的な理論が重ねられていた。実験の結果は精緻に記録し、考察も欠かさない。ウーテとエーミールの体調も気遣うような走り書きが見られるあたり、人間的に悪い人物ではなかったような印象を受けた。
一介の産婆で終わらせるにはもったいない観察眼を持っていたが──いまとなっては詮無い願いだ。
「が?」
それに差し迫った問題をどうにかするのが先決だ。
「ユスラだ。あのとき、これまでの事件がウーテの仕業だと知ってユスラは言った。『同じ目に遭えばいい』と。その後ウーテはエーミールとともに暴漢に殺された」
「……それが?」
「分からないか」
「ぜんぜん。なに? もったいつけないで教えてよ」
シュウは再び目頭を押さえた。
「おそらくそれが、ユスラの能力だ」
「…………。え、」
「ユスラは、正確にはこう言った。『誘拐されて、人狼を殺されてみろ。同じ目に遭え』と。さて、そう言ったところで実際その通りになる確率がどれくらいある?」
「それは……」
「かなり低い。だが現実に起きた。お前は知らないが、以前にも似たようなことがあった」
あれはリヒトが甘露の神女にまとわりついていたときだ。嫉妬にかられたユスラが「雪でも降ればいい」と叫び、翌日その通りになった。季節柄、雪が降ってもおかしくはない時期だったが……。
「普通なら偶然で片づけられるかもしれない。だがユスラは神女だ。
ウーテが殺されたのは現場の成り行きだったとして──。馬車が襲われたこと、エーミールが死んだことは〈ユスラが望んだから〉あるいは〈ユスラが発語したから〉と考えるべきだろう。果実の神女のように他にもなにか条件があるかもしれないが──」
「ちょ、ちょ、ちょっと待って!」
リヒトは大げさに手を振り、なかば呆然としたままシュウの説明を消化した。
「そんなことホントにあるのか? どっかで気付くだろ、そんなえげつない能力。そりゃユスラはあんまりワガママ言わないけどさ」
「その我がままも、いつもちょっとしたお土産ていどのものだった。度を越えた願いではなかったせいで、気づくのが遅れたと考えるべきだろう」
どんな願いも、ささやかだった。
権力も財力も兼ね備えたシュウでなくても、誰にでも叶えられるような些細な願いだった。
屋敷から出られない分、我がままくらい言えばいいのに、と思ったのは一度や二度ではない。
あるいは──
屋敷の中で完結する日々は、ユスラを満たしていたのかもしれない。
だから、我がままを言う必要がなく、能力を隠すベールになってしまった。
「じゃあ、もしユスラが雨が降り続けとか、どっかの国が滅びればいいとか言ったりしたら」
「雨は永遠に降り続け、〈どっかの国〉とやらは滅亡する」
信じられないものを見るような目で見られたが、なんとか平静を装った。
神女が帝宮に匿われるのは、世俗から切り離し神女を守ると同時に、監視下に置いて特異な能力を活用するためでもある。四十年ほど前、ロート湾沖で起きた他国同士の戦争に介入した際も、神女の異能が関わっていたことは新聞で大々的に報じられた。
甘露の神女の癒しの力も、果実の神女の予言も、どちらも有用ではあるが、ユスラほど直接的で実際的な能力はあるまい。
「……ユスラは、気づいているのかな?」
「分からない」
シュウは正直に答えた。
彼女は昨日からずっと寝込んでいる。話などできる状態ではなかった。
「話すの?」
リヒトの問いかけをじっくりと味わったシュウは、静かに席を立ち、少し歩いて窓際に寄った。
瞑目し、大きく息を吸って、吐いて、気持ちを整える。
「ユスラには知る権利と……責任がある」
「そっか」
同意と納得と了承と、すべてが含まれた一言だった。
正直なところ、リヒトに反対されればやめるつもりでいた。ユスラにはなにも知らせず、気づいていてもごまかし、安寧の真綿でくるんで守るつもりだった。
神女の能力には責任がともなう。
だがそれは神女が望んだ責任ではない。
本人の意思に関係なく、強制的に背負わせられるのだ。
それは、生まれたときからターゲスアンブルフの後継者であったシュウと似て異なる。
シュウには当主に立たない道もあったが、ユスラにはなかった。
シュウはターゲスアンブルフの当主であることを選び、領地を経営して貴族としての振る舞いを身につけた。
ユスラは普通の少女である道など選べなかった。神女として生きるしかなかった。
選択権のない不自由は不幸のひとつだ。
果実の神女クリスタはそのために苦しんでいた。
そんな不自由を背負っているからこそ、せめて他のことは優しさで満たしてやりたいと願っていたが──
「大丈夫だよ」
心のうちを読まれていたのかと思った。
振り仰ぐと、リヒトが穏やかに言った。
「ユスラなら大丈夫だよ」
窓越しに見える世界は連日の雨で染み透っていた。
*
たぶんシュウは、ユスラが望めば逃げる覚悟もあったのだろう。彼のことだ。ユスラを引き取ると決めたときから、もしものときの対応策をいくつも巡らせていたにちがいない。
例えば、帝宮から逃げる方法。
協力してくれそうな人間。
謝礼。
逃げたあとの、身の振り方。各地を放浪するのもいいだろう。一か所にとどまらず、流れるように。だが大きな都市はともかく各所の村々はよそ者に優しくはない。自分たちが何者であるかを確固と説明できない以上、身元の知れない人間は犯罪者予備軍という目つきで見られる。もちろん対応も厳しい。満足に食べられないこともあるだろう。屋敷や帝宮からろくに出たことのないユスラが旅に耐えられるだけの体力があるかどうかも不安ではある。
ならば異国に腰を落ち着けるか。移民も商売人であれば風当たりはいくらか軟化する。実際にシュウは領地で特産物を扱う商店を立ち上げた実績がある。難しくはないはずだ。上等な品物と大きな取引金額が扱えるようになれば、現地の貴族に取り入れるかもしれない。確固たる立場を築き重用されるようになれば、帝国から手配が回ってきたとしてもいくらか擁護してくれる、かもしれない。だがこれは時間がかかる。
根本的な問題もある。諸外国での神女のあつかいは帝国ほど丁寧ではないのだ。ユスラが神女だと知られれば、流れの商人という身分は大きな不足を起こすだろう。
安全を第一とするなら、利用されても帝宮にとどまり続けることが最善なのだ。
シュウがユスラに異能のことを打ち明けている。
リヒトはその言葉を無言で聞きながら、そんなことを考えていた。
「お前はこれからどうしたい」
問いかけに対する答えは長い時間を要した。
ベッドに腰かけたユスラの目がシュウの瞳を覗き、リヒトへと移り、床に沈む。それからもう一度、リヒトを見た。
「なにか書くものを」
「あ、うん」
願いが叶う、なんて言われた直後に、不用意に望みを言えるはずがない。
書き物机から紙と万年筆を取り、ユスラに渡した。
〈皇子とお話ししたい〉
思いもしなかった要求に、シュウとリヒトは顔を見合わせた。
「え、皇子に異能のことを話すの? いいの?」
狼狽したリヒトが質問すると、ユスラは明瞭にうなずき、こちらがどうしてと聞くまでもなく万年筆を動かした。
〈異能を悪いことに使わないでってお願いする〉
シュウの顔がいくばくか曇った。
「皇子は
「そもそも帝国が神女を保護しているのは異能を利用するためだ。
異能を使った結果、死人が出ようとも。戦争が起きようとも。
帝室と帝宮のためなら、契約にもとづいて利用する。
「皇子、そういうの
あー、だったらいっそさ、なにも言わずに逃げちゃったほうが親切なんじゃない? 下手にユスラの気持ちを理解してもらうよりもさ、ってゆーかあの朴念仁にそもそも理解とかできないだろうし。それより、俺たちを恨めたほうが、本人楽なんじゃないかな」
「…………」
ユスラは二人を見てしばし考えたのち、万年筆を走らせた。
〈だったら言わなくてもいい〉
〈でも〉
〈逃げたせいで二人が悪く言われるのは
ははは! と声を上げて笑ったのはリヒト。
シュウは目元と口の端を緩める。
「他人の評価など久しく気にしたことはない」
「シュウは、ほんとにそれやってるからすごいよね。俺はすごく気にするけど。ま、逃げたらどうせ聞こえないから、今度からはあんまり気にならないかな」
あ、そうか。
声に出したのかと錯覚するほど、ユスラの表情が変わった。
それを見たシュウは、ますます顔の筋肉を弛緩させ、優しくユスラの頭を撫でる。
リヒトはユスラに目線を合わせ、ありがとうと言った。
「心配しないで。俺たちは覚悟してユスラのそばにいるんだから。
ユスラが望まないなら俺たちも望まない。異能を使いたくないなら、使わなければいい」
「でも」
反射的に声を出したものの、思いとどまって再び筆をとる。
〈逃げ切れるって、言ったほうがいい?〉
望めば叶う。ならば、執拗に追いかけてくるであろう帝国からの追っ手に捕まらぬように……。
「いいや。帝国から出る方法などいくらでもある。心配するな」
「シュウがそういうんだから大丈夫だろ。でもま、いざとなったら考えててよ、ユスラ」
ゆっくりと首肯するユスラを見ながら、リヒトはシュウの懸念をひしひしと感じ取っていた。
ユスラには明確に言わなかったが、彼女の異能にはまだまだ謎が多い。
望みが叶う──とは、発音すれば叶うのか、あるいは心に思っただけで叶うのか。
果実の神女が夢を見たあと失神するように、異能が働いたあと、なんらかの代償を払わなければならないのか。
望みはいったい「いつ」から「どこ」まで叶うのか。もしも過去の願いもいまだに有効なら、現時点でそれと矛盾する願いを望んだときどうなるのか。
神女とは神紋を背負い、人狼を生み、異能を持つ。
いままではただそれだけを知っていればよかったが、エーミールとウーテの存在が二人の意識を変えた。特に異能は、なにもしらずぼんやりと使ってよいものではない、と。
そんな心配を知らず、ユスラは少しあごを引いて表情を変えた。困ったような、恥ずかしいような、
「あのね」
「ん?」
「私は神女だから、シュウとリヒトに会えたの」
直前の少女らしさは消えて、そこにいたのは神紋を背負う神女がいた。
「だから私は、神女であることは否定したくない」
たぶんそれが、ユスラの一番の望みなのだろう。神女である事実と真正面から向き合い、受け入れているからこそ、皇子と話し合う決意ができたのだ。
「分かった」
シュウがうなずく。
そして、リヒトも。
「んじゃ、どうする親分?」
水を向けられた男は一瞬の沈黙後、確信をふくんだ底意地の悪い笑みを見せた。
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