040 「目」
シュウは念入りに支度を整え、早いうちに帝宮を出た。
ユスラはまだ眠っている。泣きはらした瞼が痛々しく、リヒトに起こさないよう言いつけた。
エーミールの屋敷はひっそりとしていた。外には黒い箱馬車ひとつが用意されて、使用人が沈痛な面持ちで黒いリボンをかけていた。
エーミールが亡くなったのは昨晩なので、あと五日から七日ほど時間をかけて葬儀の準備が行われる。故人にゆかりのある人間は、その間に訃報を受け取りメッセージカードを送ったりするのだが、どれほど親しかろうと直接訪問することはない。
そのため、エーミールの両親夫妻はシュウの来訪に少なからず驚いていた。ターゲスアンブルフともあろうものが常識もないのかと言いたげだが、シュウには慣習がどうのと言っていられない事情があった。
「お忙しいところに、申し訳ありません」
「いえ」
簡潔に握手で挨拶をし、決まりの口上を交わす。
ソファに座るよう勧められたので喪服の裾を払って腰を下ろし、さっそく尋ねた。
「表の馬車にはエーミールが乗るのでしょうか。ウーテ嬢は密葬に?」
夫妻は息を呑んで驚き、互いに顔を見合わせた。答えに詰まり、困っている。
だが間を空けず夫が夫人の手を握り、意を決めた目でシュウを見る。隠してもしかたがない、といった風だ。シュウがエーミールの親友であることは誰もが知っている。そしてシュウが人狼であることも。
夫妻は、エーミールが生前に打ち明けられたのかもしれない、と考えたのだろう。
実際は最悪な形で知ってしまったのだが。
「同じ
「彼女が神女であることを申告しなかったのは家のためですか」
シュウの強い口調は非難に聞こえたかもしれない。しかし言葉を選んで優しく聞き出すほどの余裕がなかった。
夫人は子どもができにくい体質だったというのは、小耳に挟んだことがある。エーミールはようやくできた長男で、唯一の子だ(実際にはもうひとり子どもがいたわけだが)。そのため夫妻はシュウの両親よりもさらにひと回りは年上だ。
それでも追及の手は緩めない。貴族の地位ではシュウが上回るため、尋問まがいの問いかけが許される立場でもあった。
「……それもあります。が、一番の問題はエーミールでした」
いまにも泣き出しそうな夫人の背中をさすりながら、夫はぽつぽつと当時の心情を話し始めた。
医師の診察により、双子であることは早期から分かっていた。
ひと昔前なら双子を不吉とする風習もあったが、帝国に多数の民族が入り乱れるようになってからは、逆に吉祥であると言われるようにもなり、現在では珍しい事例として扱われる程度にとどまっている。
子宝に恵まれなかった二人は、一度に二人も子どもを得られることを、大きく喜んだ。
日数が過ぎるのを指折り数え、ひと月早く出産の日を迎えたのだ。
果たして生まれた子は男女の一対で、しかも女の子は背中に
「神女の体液をふくめば人狼になる……では、母親の胎内で同時に育った双子の場合は?」
シュウはその問いかけの答えを持っていなかった。
眉間にしわを刻んで
なぜいままで思いつかなかったのか不思議だった。確率は低くてもあり得ないことではない。
「私などよりも、ご夫妻のほうがよくご存じでは」
「ええ……ええ!」
シュウが促すと、夫はひたいを押さえた。当時の苦悩を思い出して頭痛にさいなまれているのかもしれない。
「我々は、二人をとりあげた産婆とともに知恵を出し合い、ひとまず出産そのものを隠すことにしました。ひと月、なにもせず息子の様子を見守った。しかしなにも……なにも起きなかったのです」
つまりエーミールは死ななかった、と。
(ある意味、当然だな)
問題なく成長できたから、シュウは彼に出会ったのだ。死んでいれば出会いもなにもあったものではない。
そう考えて、シュウはふと「なにも起きなかった」という言葉に別の意味もあるのではないかと思い至った。
「人狼に変化することもなかったのですか?」
「結論から言うと、そうです。十年、いやそれ以上、我々は監視しました。エーミールが十歳のとき田舎の崖から、あの子が…、娘が、落ちたことがあるのです。
夫人が、とうとう
夫は何度も何度も夫人の背をさすり、手を握りしめた。
一方で、シュウは
神女の愛液を得ずとも生き延び、人狼化することもない。これはつまり、普通の人間だ。普通に生活できる人間なのだ。
だが、と疑念が払いきれないのは、あまりにも特殊な事例を目の当たりに突きつけられて、神女とは、人狼とは、という、シュウにとっては当たり前だった現象が非日常であることに気づかされたためだろう。
「他に、普通の子どもとちがったところはありませんでしたか。重い物を持ち上げたり、足が速かったり、匂いに敏感だったり」
「息子は、満ち月よりも早くに生まれたわりには育ちがよく、体格も大きかった」
そうだった、とシュウは舌打ちをしたくなった。
体格の良いシュウに見合う相手がおらず、エーミールとしょっちゅう組まされていた陸軍時代を思い出す。
「ですから、分からないのです。たしかに普通の子どもでは難しいような重い物を持ち上げて、足も速かった。しかしそれが……双子だったせいなのか、体格が良かったからなのか、分からないのです」
陸軍に所属していたころ、シュウはまだただの人間だった。
エーミールはそのシュウと、ほとんど互角だった。
普通の人間の範囲……かもしれないが、二人が陸軍の歴代の平均記録から突出していたのは事実だ。
比較できるサンプルが絶望的に少ない。
そのため、これについて考えることはやめて、思考を次に移した。
「せめて、ウーテ嬢だけでも帝宮に預けることは考えられなかったのですか」
「考えました」
意外にも、返事は明朗だった。
「しかし、いろいろと問題がありました。二人は顔が似すぎています。エーミールが……カルトッフェル家の唯一の跡取りが、神女と双子であることに気づかれるかもしれない……。
──仮に、ただの兄妹と思われたとしても、神女は帝宮に住まわなくてはなりません。万が一を考えたら、二人を引き離すのは……大きなためらいがありました」
なにも起きない、とは言い切れない。なにせ前例がない。確信が持てない。ある日突然、エーミールが人狼としての症状に襲われたら? 発作を起こして死んだら──
ようやく得られた跡取りを、子どもたちを、命を。彼らを切望していた両親が、仕方がないと諦められるはずがない。自然、彼らの判断は安全なほうへ、安全なほうへと流される。
一方で、待ち望んだ跡継ぎを屋敷の中に閉じこめるわけにもいかず、さりとて死んだことにもできなかった。
息子を社交界に出すのであれば、健全性を示すために神女と双子である事実を隠さなければならない。
結果、ウーテは帝宮に預けられることなく存在を抹消され、屋敷に封じられた。
シュウに言わせれば、夫妻の行動は矛盾している。
けれど案外、こういうものなのかもしれない。
十年、二十年。思い
「我々は、時間をかけて少しずつ二人の体質について調べました。事情を知った産婆も加わって、知恵を出し合って……」
その言葉の中には、ウーテが「私の犬」と言ったあの男もふくまれているのだろうか。あるいは夫妻は知らないのではないか。
(ウーテがユスラを狙ったのは、神女と人狼の因果関係を調べるため、か?)
あのときエーミールはひどく動揺していた。一連の犯行に彼が加わっていなかったことは明白だ。
ウーテの真意について夫妻に訊ねることはできても、あくまでも推察の域を出ない。まともな返事がきけるかどうかすら怪しい。夫妻は一般的な精神の持ち主だ。ウーテのように大胆に、帝宮に侵入して誘拐しようなどと考えすらしないだろう。
けっきょく
「おまえ、あれを」
「……はい」
目を赤くした夫人が席を立ち、ほどなくして戻って来た。
手に、紙の束を持って。かなり厚い。
「それは?」
「産婆の日記です。二人のことは、これに書かれています」
……嫌な予感がした。
「そのご婦人はいまどこに」
長い沈黙があった。
シュウは根気強く待ったが、けっきょく明確な返事はなかった。
仕方なく、こちらから質問を投げかける。
「そこまでする必要はあったのでしょうか」
「……二人は──二人は、死にました。もう、終わったのです。もう──」
なんという幕引きだろう。
なにも得られず、なにも解決せず、しこりだけを残して。
眉間のしわが深くなる。
ユスラの柔らかな体に支えられたいと、これほど思ったことはなかった。
「あの……」
ここにきて、夫人が横から口を挟む。
「わたくしたちは、なにか裁きを受けるのでしょうか」
普通なら、そんなに自分の身がかわいいのか、と棘を刺したくなるかもしれない。
しかしシュウには、貴族の体裁を気にしなければならない立場が重々に理解できた。
ひどく疲れて、二人を責める気力にもなれなかった。
「エーミールの名誉のために、ここだけにとどめておいて良いかと」
夫妻の言う通り、二人は死んだのだ。双子の場合の神女と人狼の関係を調べようにも、もう検証はできない。
ならばせめて死者が安らかになれるように。何十年も悩み続けた夫妻が以後、安らかに過ごせるように配慮したところで問題はないだろう。エーミールも望んでいるはずだ。
「ただし口止め料として日記を引き取ります。今後の長い歴史の中で、エーミールとウーテ嬢のような事態が起きないとも限りません。そのときのためにも何らかの形で記録は残すべきです」
「しかし……」
「公表時期はずらし、エーミールのこととは分からないよう配慮すると約束します」
強い口調で告げれば、夫妻は了承する確信があった。
罰を避けるためにも二人はそうせざるを得ない。万が一ばれたところで上席からの命令で仕方がなかったと言い訳できるように追い込まれてもいる。
胸中で、我ながら狡猾だなと
交渉が成立したところで、シュウは紙の束を回収した。一枚一枚の紙の大きさはばらばらで、雑色が多く、粗末な麻紐でくくられていた。
いっけんすると重大な書類とも思えないものを土産に、彼は帝宮の奥へと戻った。
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