039 6305分

 ユスラに名を呼ばれたような気がして、シュウはまぶたを持ち上げた。


 しかしそこに望んだ娘の姿はない。よく観察すると、馴染んだ町屋敷の私室でもなく、帝宮のユスラの部屋でもなかった。


 多少、手狭てぜまではあるが、貴族の客室として十分に機能する部屋だ。さすがに生花などの飾りはないが、必要な家具が適切に配置され、窓からは日差しが差し込んでいる。あいにくの雨でなければ、室内は明るく温かだっただろう。


 しくじった、というのが最初の感想だった。


 少し離れてはいたが、帝都を目の前にして気が抜けていたのかもしれない。木陰で休息していたとき、刺激臭を嗅ぎとった。あわてて飛びのいて難を逃れるも、いくらかのやりとりの末に意識を奪われてしまった。


 最初に気を取り戻したのは馬車の中だった。手足を縛られ轡を噛まされていた。傷の痛みのため意識は朦朧としていて、どんな道を通ったかすら不明瞭だが、手がかりがないわけではない。


 シュウはベッドに転がったまま、視線だけを巡らせた。


 これだけの部屋を有する屋敷を所有、維持できるとなると、場所そのものが限らる。たとえばシュウが捕まった寒村のような所に、このような立派な屋敷は建っていない。


 相応の建物は必要に応じて造られるものであり、所有者はたいていが貴族か名士だ。彼らは体面も気にしている。比較的帝都に近いとはいえ屋敷を建てるのであれば、寂しい村よりも帝都の隅に土地を買うだろう。


 また、腹の空き具合から、まだ一日、二日程度しか経過していないと思われる。


 となれば。


 距離的にも、場所柄的にも、ここはおそらく帝都だ。


 物理的な距離は遠くはないが、ユスラとの間に立ちはだかる障害を憂いてため息が出た。


 約束した日を過ぎても戻らないシュウに対してユスラは心配してくれているだろう。


 リヒトはシュウの不在を補ってくれているはず。彼はこの一年で急速に逞しくなった。


 体格だけではない、もともと優れた心映えを持っていたし、身体的な能力も高かった。父親が士爵という地位にあったため最低限の教養も身につけており、作法に関しては帝宮そのものが良い試練の場となった。


 ユスラを任せても大丈夫だ──


 唐突に。


 シュウの脳裏に、ぽんっと愛らしい人形が思い浮かんだ。大人の手のひらほどの大きさの布人形はユスラの造形を模していた。


 その娘人形が嘆いている。しくしくと涙を流すしぐさをしている。


 そしてもう一体、舞台袖から同じような人形が流れるように彼女に近付いた。リヒトの形と色を持っている人形はユスラを優しく抱いて慰める。


 娘は泣くのをやめて、ふたり仲睦まじく歩き出した。


 ところが世間はなかなかに厳しい。


 ユスラはしたたかな娘だが、温室育ちであることはまちがいない。


 リヒトは優秀だが、いかんせん経験が足りていない。


 じわじわと真綿にくるまれるように、削り落とされるように疲弊し、そして……。


 シュウは、がばっ、と跳ねるように起きた。両手足を戒められたままだが、動きは俊敏だった。寝転がらされていたベッドがきしりと音を出す。その上でぎゅうと眉間にしわを寄せた。


(無理だな)


 任せられない。


 領地の視察の間だけならともかく、今後一生となると不安が募る。


 うむむ、とシュウは難しくうなった。


 ともすれば、ここから無事に帰らなくてはならない。元より易々と相手の思惑にはまるつもりはなかったが。


 決意も新たに目標を定めると、かちゃり、とドアの鍵が回った。


 悪魔が出ようが蛇が出ようが対応できるよう、程よく緊張し腹に力をこめて来訪者を待つ。


 そして──


 顕わになった訪問者の顔を見て、しばし思考が止まった。


「エーミール」


 己に言い聞かせるように、唇を動かし、音を発した。


 旧来の仲、長い付き合い。


 助けにきてくれたのか。──と考えたのも一瞬だった。


 すぐに思考を転じて、そうなのか? と自問する。


 なぜ、こんなに早く居場所を突き止められたのか?



 シュウがエーミール・ヒュッテンバッハ=カルトッフェル卿に出会ったのは二十八歳のときだった。軍の訓練場で、体格が見合うからという理由で相方になったのだ。


 どこかつかみどころのない言動が目立つが、誰に対しても一線を画した態度はシュウに好ましく見えた。だから親しくなり、事業を持ち掛けられたときは金貸しにも応じた。屋敷に招待したこともある。


 ──が。


 リヒトのように全面的に信用できるかというと、そうでもない。


 リヒトはユスラの人狼で、シュウの同志だ。裏切りはない。


 しかしエーミールにその方程式を当てはめることはできない。


 こんな状況下なら、なおさらだ。


 シュウは警戒の目を彼の挙動に向けた。なにかあれば容赦なく応じるつもりで。


 そしてふと気づいた。


 目前のエーミールとシュウの知るエーミールとが合致しない。


 背が、いくらか低いように思える。男装だが、肩や腰の線がまろやかだ。


「ちがうな。誰だ」


「……おどろいた」


 声が、高かった。


 外見は八割五分がたエーミールと大差ないが、声だけは明らかに異なっていた。──これは女性だ。


「見分けられる人、あんまりいないんだけど」


「服で隠しても元々の体格の差はどうしようもない。ましてや彼は軍人で、君は女性だ」


「それでも、気づく人、少ない」


 エーミールと同じ瞳で、女はじい、とシュウを見つめた。深淵まで覗けそうな目だなと思った。これもまたエーミールとはちがう。彼はもっと他人と己を隔離した目で見る。


 加えてもうひとつ。


「君は神女シンニョだな」


 シュウの鼻腔を甘い匂いがぬけた。


 甘露の神女は貴腐ワインの、果実の神女はレモンの、ユスラは薔薇の匂いがする。


 目の前の女性からは、刺激性のあるローレルの香りがした。


「……人狼の鼻はごまかせないね」


 しかも。


「私を捕らえ、果実の神女の人狼を殺した男からも、同じ匂いがした」


「そう。あれは、わたしの犬」


 言い切る娘の背後から、背中がひどく曲がった男が現れた。襲われる直前に薬品にまぎれて嗅いだローレルの香りはない。目深にかぶったフードを払い、口元にあてていた布をとると、渓谷のように深いしわが刻まれた顔が出てきた。


 シュウは二人を長く見つめ、長く息を吐いた。


 神女の体液は人狼を生むと言われるが、その文句が正確性に欠けていることを、シュウは実体験として知っていた。


 全身を覆う体毛、尖った顎、尖った耳。人間の理性と獣の本能のはざまの守護者は、あるじたる神女の愛液をふくんで人狼となりうる。そして一度、人狼に変化へんげしたら、もう神女なしでは生きられない。定期的に愛液を摂取しなければ、心臓が止まって死ぬ。


 だが、得た体液が愛液以外であれば。


 唾液や血液なら、人狼になることはない。一時的に肉体が活性化されるだけなので、まだとりかえしがきく。


 リヒトがそうだった。血を舐め、ユスラの唇を得て、リヒトはかりそめの力を得た。シュウが彼を別室に閉じこめさせたのは、刹那的な身体能力の向上を隠すためだ。


 同時に、容姿に大きな変化へんかが現れることを予測しての処置でもあった。


 体の活性と成長は密接な関係にあり、成長とは老化は同意義だ。


 背中が曲がった男は、その成れの果ての姿。何度も何度も──シュウが知る限りでは三回──ローレルの神女の体液を服用したのだろう。老人の姿をしているが、実年齢はもっとずっと若いはずだ。


「いっそ人狼にしようとは思わなかったのか」


 ローレルの神女は首を横に振った。


「望まない。それに、きっともう、人狼の変化へんげに耐えられない」


 人間は人狼に変わるとき、多大な苦痛を味わうことになる。老いが進みすぎれば、体力がもたないのだ。


 また、若者であっても適合しないと死に至るという。ユスラはそれを『闘牙とうきが足りない』と言っていたが。


「君の目的は──」


 もとより、まともに答えてもらえるとは思っていなかった。


 だがこうして対峙し、理性的に話し合えている以上、立場的にも投げかけなければならない質問だった。


 ところがシュウの問いかけをさえぎって、空気を切り裂かんばかりの大声が割り込んできた。


「ウーテ!」


 エーミールの声だ。


 どすどすと遠慮のない駆け足のあと、後ろに控えていた老人が勢いよく廊下に吹き飛ばされた。彼は背中をしたたかに打ちつけて、気を失う。いくら実年齢は若かろうとも、老いが早まった体には辛い仕打ちだっただろう。


 続いて、エーミールとよく似た顔の女の肩が強くつかまれた。女は振り返って驚いた声で、けれど顔は無表情のまま独言した。


「エーミール」


 ぱあん!


 小気味よい音が響いて、女の左頬が打ち据えられる。


 エーミールのほうは、いかにも腹に据えかねた様子だった。


 二人のやりとりの隙間から小柄な動物が飛びこんで来、リスのように素早く飛びついてきた。


「シュウ!」


 ユスラだった。


 春咲きの薔薇の匂いが安心感をもたらす。


 両手と両足の戒めがもどかしい。いますぐ抱きしめて、ユスラの体の柔らかさを堪能したいと思った。


「良かった、生きてて……!」


 代わりに、うなじの、髪の、二の腕の匂いに溺れる。帝宮を出て領地に赴き、すでにひと月近く。ようやく納まるべきところへ帰れたのだと安堵した瞬間、緊張の糸が切れたらしく、襲われたときにつけられた傷が急に痛んだ。


「…!」


「シュウ? 大丈夫? どこか痛いの!?」


「いや──」


 否定するも、ユスラは騙されなかった。身を引いて、シュウの服が血に汚れ、浅からぬ傷を負っていると見抜き、顔をこわばらせた。


 何年もずっとそばにいて、初めて見る顔だった。見開いた眼は凍り、怒気が炎のように立ちのぼる。


 人狼の本能がぶるりと戦慄した。


 ユスラはウーテと呼ばれた女に向き合った。


「どうして…」


 強く握りこまれたこぶしが震えているのは、あつかい慣れていない激情を押さえこもうとしているように見えた。


「どうして、こんな…っ! あなたがやらせたの!? …っクリスタ様を襲ったのも……守護者を殺したのも──!!」「そう」


 言い募ろうとしたユスラを、ウーテは遮った。


「私が、やらせた」


「ウーテ!!」


 たしなめるようなエーミールの叫び。


 ユスラはそんな大音声だいおんじょうも聞こえていないようだ。ただただ怒っていた。


「わたしが、誘拐されかけて、どんなに怖かったか……。大切な守護者をうしなって、クリスタがどんなに悲しかったかっ……!!」


 一歩踏み出す。そのまま駆け出してウーテの首を締めそうな勢いに、シュウは戒められたままの手でユスラの手をつかみ引き止めた。


 こんな時こそ落ち着く必要がある。


 ウーテにはまだまだ聞かなくてはならないことが山ほどある。


 しかしユスラにとって到底許せる所業ではない。こみ上げてくる衝動を押さえきれず、シュウの手を振りほどく勢いで叫んだ。


「あなたもっ…、同じ目に遭えばいいのよ! 誘拐されて、大切な守護者を殺されてみなさいよ! どんなに辛いか味わえばいい!!」


「ユスラ、落ち着け」


 強く引いて呼びかけると、ユスラは再びシュウに飛びついて泣き始めた。


 嗚咽が続く。


 雨が降り続ける。


 雨脚は、どんどん酷くなり続けた。


「……ターゲスアンブルフ卿」


 しばしの間のあと。


 エーミールが改まった声音で切り出した。


「君たちが怒っていることは重々承知している。聞きたいこともいろいろあるだろうが、いまは少し時間をくれないか。こちらも、まだ全てを把握しているわけではない」


 彼もまた、努力して冷静になろうとしていることが、ありありと分かった。いつもの気安さなどかけらもない、事務めいた口調。友人関係は崩壊したのだと覚悟した声。


「いいだろう」


 シュウもそれに応じて、仕事上の取り引きのように装った。


「すまない」


「説明はしてもらうぞ」


「分かっている」



 馬車が二台あったため、片方をエーミールとウーテと連れが、片方をシュウとユスラが使った。片方の馬車はエーミールの町屋敷へと向かい、片方は帝宮へ向けられた。


 ユスラはずっと泣き通しで、シュウはなにも言わず抱きしめ続けた。



 雨が降る。


 音を立てて。



 ぴちゃり、ぴちゃん。


 ……ぽちゃん。




 ──屋敷へ向かったエーミールの馬車が強盗に襲われ、全員が死亡したとの一報は、翌朝にもたらされた。

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