038 ノ人余

 待っていた知らせは予定よりも早く届いた。


 呼び出されたリヒトは皇子の執務室で報告を聞いた。


「水を得るために立ち寄った寒村に、不似合な馬がいたらしい」


 帝王ライヒの嫡男であり、氏族大公クラン・エルツェツォーグでもあるアインホルンは険しい顔で言った。


 さびれた村に、立派な体格をした駿馬がいた。兵士であれば思わず二度見するような。


 目撃した兵士は疑問に思ったそうだ。こんなひなびた村にあのように鍛え抜かれた馬がいるのは珍しい。よほど腕の良い調教師がいるのかと。


 好奇心もあって彼が馬に近付くと、粗末な納屋の片隅に馬具が置かれていた。くらあぶみ、手綱など、使い込まれてなお丁寧に手入れされた馬具のはしには、ターゲスアンブルフの紋章が刻まれていた。男は腰を抜かすほど驚いた。


 納屋の主を問い詰めたところ、馬は近くの平原に放置されていたと証言した。少ない荷物もくくり付けられたままで彷徨っていたらしい。


 兵士の迫力に負けた村人は、まだ残っていた荷物を母屋から持って来た。


 食料は食べられてしまっていたが、剣があった。


 皇子が派遣した兵士たちは部隊を二つに分けて、片方を都へ帰らせた。


 皇子は口を引き結んだまま、くだんの剣を机の上に置いた。


 刃渡りの短いそれにはターゲスアンブルフの紋と、血がついていた。シュウが旅のともに、護身をかねて持って行ったナイフだ。


「怪我をしているのでしょうか」


「分からん。何者かに襲われ、返り討ちにした可能性もある」


 だがそれでは本人が帰還しない理由に説明がつかない。


 馬も荷物も放り出したのは、なぜなのか。逃げるならせめて馬だけは手放さなかったはず。


「……死んだ可能性は……」


「ない、とは言い切れん」


 うわ言のようなリヒトの疑問を、皇子はばっさりと切り捨てた。


「だがあのターゲスアンブルフ卿がと言われると疑わしい。彼は武人としても優れているうえ、人狼でもある。只人ただびとたばになったところで傷ひとつ負わせられないだろう」


 理論的に筋道の通った結論だった。


 シュウ個人に対する過大評価や、人狼の能力に対する過度な認識を差し引いてもうなずけるほどに。


「ターゲスアンブルフ卿が自らの意思で消えた可能性についてはないと断言してよいだろう。彼が神女のそばを離れる理由はないはずだ……神女に不満があれば別だが?」


 ちらりと視線を投げかけられたので、リヒトは苦笑して肩をすくめた。


「ありえませんよ」


「では決まりだな。ターゲスアンブルフ卿の失踪は、本人の意思で行われてはいない。第三者の介入が疑われる」


「第三者…って……」


「我々に心当たりは一つしかない。ターゲスアンブルフの町屋敷に侵入し、ついには前庭とはいえ帝宮にまで入り込んで、果実の神女の人狼をあやめた人物だ」


「……」


 リヒトは言葉を失った。


 もしそれが現実なら、シュウの身も危ういということだ。


 しかし皇子は前言をひっくり返す発言を続けた。


「奴の目的は不明だが、ターゲスアンブルフ卿の死体がないことを考慮すると、なんらかの取り引きを目論んでいるかもしれない。いささか楽観ではあるが、生きている可能性もあるだろう」


 ほっと胸をなで下ろしたのも束の間。


 皇子は極めて厳しい表情でリヒトを見据えた。


「グレンツェン卿」


「はい?」


「由々しき事態だ」


「……は、ぁ」


「敵はなぜ、ターゲスアンブルフ卿の視察を知っていた? 彼が領地へ向かう旅程を知り得た?」


 しばしのあいだ、リヒトは皇子の言葉が理解できなかった。耳を滑るだけで意味を成さない。


 ただじわじわと、焦りと不安がこみ上げてくる。


「きみと、きみの神女は当然知っていたはずだ。ではその内容を誰か別の者に話したことはないか。あるいはターゲスアンブルフ卿自身が何者かに話したことは?」


 リヒトの脳裏に一人の男が閃いた。


 皇子の側近のブリッツ卿だ。


 のちに否定されたが、町屋敷を襲った犯人について、シュウはブリッツ卿の名前を挙げていた。


 再び彼を槍玉にあげるわけではないが。


 ──事の黒幕がシュウの同業者、貴族である可能性は極めて高い。


「……分かりません。シュ……ターゲスアンブルフ卿が視察へ向かうことは、奥の宮でたびたび話題にしていました。女官や、他の神女たちも知っているはずです。彼女たちの守護者も……。ですが旅程については……」


 知らないはず、と続けようとしたが、喉に声が詰まった。


 本当にそうだろうか。


 近衛に守られ、守護者が配置されて、帝宮の奥は日々、穏やかだった。安全に慣れると人は警戒心が緩む。もしかしたらユスラは、リヒトは、しゃべってはいけないことまで話題にしたかもしれない。


「…………」


「……分かった。いまから調べたところで間に合うまい」


「申し訳ありません」


 唇を噛む。


 自分の失態がシュウを窮地に陥れたかもしれないと考えただけで、体が震えた。


「いずれにしろ、あちらから接触してくる可能性は高い。いまはそれを待とう。君は、君の神女のそばにいろ。異変があればすぐに知らせを」


「はい」


 簡潔に、だが深くリヒトは首肯した。


 いったいなにが起ころうとしているのだろう。




 * * *




 雨が窓を叩く音で目を覚ます。


 ユスラはベッドの上からしばらく窓の外を見て、雨音に耳を添えた。


 人々の話し声に音階があるように、雨粒の音もそれぞれ異なる。ぽたり、ぽしゃん、ぱたぱた。音の連なりは耳から思考の深層へと侵入し続けた。奥へ、奥へ……意識の下の無意識の中に。さらに深いところへ。


 音は熟思を経由せず、直接、皮膚に感覚をもたらす。


 ──自由のない両手足。目隠し。


 ──乗り物に揺られる。馬車。


 ──舗装された道。大きな町。建物。


「シュウ」


 唇が動く。瞬間、ユスラは自我を取り戻した。


 閃光の隙間に浮かんだ建物の形が、脳裏に焼き付いていた。うっかり忘れてしまわないよう、念のため、もう一度思い起こして特徴を記憶する。


 すぐに身をひるがえしてベッドからおりた。毛の長い絨毯が足音をかき消してくれるから気兼ねなく進める。


 それにしても人気ひとけがない。寝室を出てもリヒトの姿は見えなかった。いつもなら、特にシュウの行方が知れなくなってからは、付きっきりで傍にいてくれたのに。


 疑問に思いつつも、コネクティングルームを通過して廊下に出た。


 いつもなら女官が行き交う回廊も、今日ばかりは鼠の気配すらない。ざあざあと雨音だけが響いている。


 いったいなんのおぼし召しだろう。こんなことが起きるなんて。こんな偶然があるのだろうか。


 ──帝宮の外に出る、絶好の機会だ。


「……」


 たくさんの人が心配するだろうし、迷惑がる人もいるだろう。特に皇子が激怒している様子が目に浮かぶ。


 神女であるという事実を除いても、ユスラは外の世界に出たことがなく勝手を知らない。


 士爵の息子として町で育ったリヒトが一緒なら、護衛としても案内役としても頼もしいのだが……。


 ユスラはきゅ、と唇を結び、足音も最小限に駆け出した。


「ユスラちゃん」


 心臓が、肩が、跳ねた。


 反射的に振り返る。


 少し離れたところにエーミールが立っていた。ついさっきまで誰もいないと思っていたのは、勘ちがいだったらしい。


 エーミールは、ユスラの挙動からなにかを察したらしく、目をすがめた。


「……なにかあったんだね」


「ごめんなさい──」


 先日のお茶会で、エーミールの優れた洞察力は体験している。ユスラは説得をそうそうに諦めて、逃げようとした。


 だが失敗した。


 右手首を強くつかまれた。


「…っ、行かせて下さい!」


「冗談。きみだって分かっているだろう? 離宮は神女を守るところなんかじゃない。神女を囲って、監禁するための場だって!」


「シュウが! シュウの居場所が分かったんです! だからお願い!!」


 力は少し緩んだが、逃げられるほどではなかった。


「……本当に? どうやって?」


「分かりません。なんとなく──でも、絶対にそこにいます」


 言葉を尽くして説明するべきなのかもしれない。


 けれどユスラが体験した感覚は、表現するにはあまりにも難しかった。


 まるで自分がシュウと一体化したような感覚も、絶対と思えるほどの確信も。


 エーミールはしばしば無言でユスラを見つめ、かろうじて聞こえる程度の声音で呟いた。


「……神女と人狼の絆、か……?」


 そうかもしれない。


 内心で肯定しながら、ユスラは手をほどいてくれるように祈った。目で、全身で、行かせて欲しいと嘆願した。


「……ああ、もう。分かったよ」


 赤い痕跡を残して、エーミールの硬い手が離れる。


「ただし、僕も行くよ」

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