037 LíːMíːt
シュウが旅立って五日ほど経過した日。
晴天の下、ユスラはテラスのテーブルに茶道具を一式、準備した。ティーポット、シュガーポット、カップ、ソーサー、ティースプーン。それから茶葉。甘さ控えめのクッキーをお茶請けとしてそえれば、仕事はひと通り終わりだ。
リヒトが持ってきたお湯を使って茶葉を蒸らしていると、絶妙のタイミングで背の高い男が現れた。
「こんにちは」
「こんにちは。良いタイミングですね、カルトッフェル卿」
「ちっちっちー」
カルトッフェルと呼ばれた男は、わざとらしく人差し指を振った。
「堅苦しいよ、リヒトくん。エーミールでいいって言っているだろう?」
「さすがにそれはちょっと……」
貴族としての地位も、年齢も目上に当たるエーミールを相手に、リヒトは苦笑するしかなかった。
気の良い人なのだ。親しみやすい、話しやすい。シュウを通じて知り合ったが、ただの一度も彼の怒ったところや嫌がっている顔を見たことがない。そのくせ、他者に深く踏み込まない。絶妙な匙加減を心得ている。
だからこの一連のやりとりも、リヒトとエーミールの間の定型句のようなものだった。
「ユスラちゃんも、僕のことはエーミールと呼んで欲しいな。なにせ君は、かのターゲスアンブルフ卿の
エーミールはさっとユスラの右手をさらい、手の甲に親しみを込めた挨拶を落とした。
「なによりこんな可愛い貴婦人に距離を置かれるのは寂しいしね」
「ちょっ……! なにをやっているんですか!」
「いいじゃないか、リヒトくん、このくらいは許したまえ。男の役得というものだよ」
「ユスラに不用意に近づかないで下さい。オレがシュウに殺されます」
「彼ならやりかねないねぇ」
「分かっているなら、やめて下さいって。もう本当」
げんなりと肩を落とすリヒトを見て、ささやかな笑いが起こる。
その笑い声を引っこめて、ユスラは二人に席につくよう促した。
茶葉が少し蒸されすぎてしまったが、充分に美味しさは保っている。
ポットからカップへ、三等分にし、ユスラもまた椅子に腰を下ろした。
「今日は、わざわざ離宮まで足を運んで下さって、ありがとうございます」
「ん、ユスラちゃんが気にすることはないよ」
茶をひと口呑みこんで、エーミールは首をかたむけた。
「ただでさえターゲスアンブルフ卿の穴は大きいのに、ユスラちゃんには守護者が二人しかいないわけだし。リヒトくんは仕事はできるけど、やっぱり一人じゃ無理があるしね。
その点、僕は割と暇だし。これでもあちこち顔が広いから、日用品の調達くらい簡単だよ」
なにより、と彼は続けた。
「あの岩みたいなターゲスアンブルフ卿が、他人に、しかも君のことを任せるっていうのがね。ほら、あいつはそういうところ、ぬかりがないだろう? だから信用してくれてるってだけで、友人冥利に尽きるというか、ひとかどの仕事人間としても嬉しいというか」
「ええ」
ユスラが頷く。
リヒトもまた隣で首肯した。
領地への視察が決まって何度も打ち合わせを重ねたが、シュウの目は常に四方に光っていた。ユスラのことはもちろん、仕事も、ターゲスアンブルフ家の町屋敷の管理も。不意のトラブルの対応法まで。
と言っても内容は不在時の仕事の進め方が主で、シュウの代理を認可としての仕事ではない。責任者の承諾が必要な案件に発展すれば、据え置けと言われている。
保留にしておいて問題のない期間だけ席を空けるからこその指示だ。他者に預けられないような仕事でもあるが、それ以上に、シュウは他人が信を置かない気質であることを示していた。
「念のための非常要員でも、声をかけてもらえて嬉しいよ。おまけに君みたいな可愛い子とお茶を飲める特典つきだし」
エーミールはそこでカップをソーサに戻し、改めてユスラと向き合った。
「ユスラちゃん、ほんと久しぶり。僕のこと覚えてる?」
「はい、おぼろげですが」
「そりゃ嬉しいな。二度か三度くらいしか会っていないし、普通、こんなオジサン覚えてないよ」
「そんなことは……」
「最初に会ったのはたしか五年くらい前だったかな。……ターゲスアンブルフ卿は皇子に、君を見つけたのは二年前だと上奏したらしいけど、嘘だよね?」
ユスラは体を硬くした。完全に不意をつかれてしまい、平静を装うことすらできなかった。
対して男は
「大丈夫だよ、告げ口するつもりとかないし。それにたぶん、皇子も気づいているんじゃないかな。まあそこの辺りは、いまとなってはあまり重視されていないから、君たちも気にする必要はないさ」
「いまとなっては?」
ユスラと同様に警戒心を最大にしたリヒトだったが、
エーミールが頷く。
「そ。いまはどちらかというとユスラちゃんの異能にばかり気が向けられてるんだよ。君がいつ見つかったとか、どうやってとか、そういうのはとっくに通り越したってこと」
リヒトとユスラは互いに顔を見合わせた。
離宮と言うのは帝宮の一画にありながら、本宮とは物理的にも情報的にも隔絶されている。特にユスラは離宮から出ることがない。シュウの町屋敷にいたころと同じように、日がな一日をのんびりと過ごしていて、
ゆえに外側から見た自分のことなど気にすることもなかった。……おそらくシュウが意図的に耳に入れないように注意を払っていたのもあるだろうが。
「神紋の解析もあまり進んでいないって聞いたよ。まあ、海の神もいれば川の神もいるのに水の神もいるっていう状況で、過去の神女たちの神紋を参考に神様を特定するっていうのは至難のわざだよね」
はっはっは、と笑い飛ばすエーミールに二人は深く同意した。
様々という言葉では言い尽くせないほどの、あまたの神々。彼ら彼女らが気まぐれに、あるいは意図的に愛でるのが
そういった神々の都合はさておき、人間はむかしから神女を実際的に扱ってきた。例えば異能を権力者の都合によって使用したり、しなかったり。大昔ならば神女そのものを崇拝の対象にしたり。
また人狼を生むという特性上、争いの火種にもなってきた。化け物と呼ばれても、力は力。武力で他者を威圧する時代には、神女は暴行の対象だった。各地から誘拐されて。ときには金銭でやりとりされ、物のように扱われた。
そのうち神女を憐れむ人々が増え、神の娘として丁重に扱う派閥が大きくなった。
時代が移ろったのだ。
数千人、万人に一人の確率で、前触れもなく生まれる神女は数の上でも貴重だ。ゆえに代々の為政者たちは神女を保護するようになった。
帝国が宮内に神女を押しこめるのは、もちろん神女の異能を利用する目的もあるが──世俗から守るためなのだ。
たとえば果実の神女クリスタは、無作為に予知夢を見る。いままで外れたためしはなく、予言は必ず達成される。もしもこの能力が野にあれば、そして予知の被害が大きければ大きいほど、爆発的な混乱を招いて予知以前に争いや恐慌を招きかねないだろう。予言の成就率が高い一方で神女本人が予言を制御できないことも問題だ。予言を期待する人々から役立たずだと罵られる可能性も考えられる。彼女の健全な精神を守るためには、社会から隔絶し理解者をそばに据える手段も効果を成すだろう。
甘露の神女クリームヒルトはあらゆる傷をたちどころに治してしまう。別名、癒しの神女。彼女の力が市井にあればどうなるかなど、想像するにかたくない。あらゆる怪我、病気を抱えた人間たちが、クリームヒルトの都合など考えずに押しかけるだろう。しっかりしているようで情に流される女性なので、限界まで異能を使い続けることは目に見えている。異能を酷使した結果どうなるかは記録にないし、本人もそこまで使い込んだ前例がないので分からないそうだが、体力を使い果たせばどうなるかは普通の人間と押しなべて同じはずだ。
そして、ユスラは。
「なんか能力が発動した感じとか、変だなーとか思ったこともないの?」
「はい、特には」
「んー、難しいねえ。どんな異能なのか分かっちゃえば、お偉いさんたちも興味本位に騒いだりしないんだろうけどねえ」
「……あの」
ひとりごちるエーミールに対し、ユスラはおずおずと切り出す。
「異能が分からないせいで、シュウやリヒトに迷惑をかけることになるんでしょうか?」
「それはないと思うよ」
きっぱりと否定された。
「普通、神女の異能っていうのは小さいころに特定されるのが普通だから、君の場合はちょっと変わってるねって騒がれているだけだよ。そもそもあのターゲスアンブルフがさ、噂の一つや二つでどうこうっていうほうがないよ」
もちろんリヒト君も、とけらけら笑いながら。
「特にいまのターゲスアンブルフ卿はね、歴代の中でも飛びぬけて優秀だし、あの怖ぁぁぁい顔で睨まれたら、大臣方でも尻尾を
怖い、の部分で眉を意図的に吊り上げるエーミールにユスラは噴き出した。顔は似ていないが、眉間のしわの寄せ方が同じで笑えてしまった。
エーミールは楽しい人物だった。場を盛り上げるために自ら道化を演じても、他者も自分も貶めたりしない。穏やかに微笑んだり見守るような笑みを浮かべたり、様々に形を変えつつも常に笑顔を絶やさない。
あっという間に時間は過ぎ、予定通り解散の運びとなった。本人は暇だ閑職だと言うが、貴族の一端を担っている以上、相応に予定はあるものだ。
手ずから茶器を片づけテーブルを拭き清める。
春の風がふわりと吹いて、ユスラは顔を上げた。
日差しはまだ少し弱いが、外にいるのに不足は感じない。充分に暖かい。出歩くのに優れた季節だ。シュウの旅路もはかどっているだろう。
「……シュウ、いまどの辺りかしら」
「もうそろそろ領地に着いていると思うよ。そしたら仕事して、終わらせて、あと十日もあれば帰って来るだろ」
「十日……」
日数を呟き、自分の内側に浸透させる。
遠方を見つめるユスラの目は、待ち遠しいと物語っていた。
リヒトは彼女の様子を見て可愛いと思う一方で、思われるシュウを羨ましいとも感じる。とはいえ、もしも立場が逆であっても──視察に出かけたのがリヒトであっても、彼女は同じような目で同じように思ってくれるのだろう。
それにリヒトもシュウの帰還は待ち遠しかった。ユスラを挟んで三人でいることが、たった一年の間に、当たり前になっていたから。
ところが。
そのシュウは十日を過ぎても戻って来なかった。
彼らしくないと思いつつも、仕事が長引いたのだろうとリヒトは考えた。
明日になれば、ユスラが注文したもの、していないものを土産に帰るだろう。ユスラが遅いと怒ると、シュウはすまないと笑う。リヒトにも謝罪して、不在中の出来事について訊ねる。
そんなことをひと通り思い描いて、リヒトは自らを安心させた。同じ内容を語って、ユスラの不安を
だが翌日になってもシュウは戻らなかった。
沈む夕日を睨み、リヒトは考えを改める。
そもそもシュウが予定通りに仕事を終わらせないはずがない。もし想定以上に仕事があったとしても彼ならばきっちり期日を守るだろうし、不可能な量であればユスラかリヒトに一報を入れただろう。だがそれもない。
皇子に頼んで信頼できる兵士を動かしてもらった。まずは領地に向かわせて現状確認をしてもらう。きちんとあちらを出立したのか、現地に赴いてもらって伝書鳩を飛ばしてもらうのだ。
ただそれだけの確認に数日は費やさなければならないのはもどかしいが、他にやりようもなかった。
下手に大騒ぎするのも
──もっとも、その「人狼であること」が、いまや不安の芽になっているのだが。
「大丈夫ですか?」
お茶会と称し、ユスラを訪ねてきたクリームヒルトは、帰り際に声をかけてきた。
ユスラは奥の寝室で休んでいる。年長の神女に顔色が悪いと指摘されて床につかされたのだが、早々に寝入ってしまったのだ。リヒトの想像以上に精神的な疲れが酷かったらしい。
コネクティングルームにいるのはリヒトとクリームヒルト、そして彼女の人狼が三人。いつもなら甘露の神女はもっと多くの人狼を
シュウの不在の影響が、こんなところにまで現れ始めていた。
「……その、つもりですが」
浅く苦笑し、リヒトはクリームヒルトの心配そうな顔を見た。「あなたにそう指摘されるほどには、大丈夫ではないようですね」
「そうですね、あなたも疲れているように見えます」
椅子に座るように勧められたので、大人しく従う。
ずっとユスラに付き添うだけなので体力は有り余っているが、いかんせん、気力の不足がリヒトを消耗させていた。
「そろそろ二十日ほど過ぎましたか?」
「はい」
なにが、とは言及しなかった。
二人とも同じことについて考えていた。
神女は
人狼は定期的に神女の体液を摂取せねば発作を起こして死ぬ。
クリームヒルトは以前、その様子を間近で見たことがあった。ユスラやクリスタが帝宮に入るよりもむかしのことだ。ここにいた
「一か月、と言われていますが、個人差があります。必ずしもそうなると決まったわけではありません」
「だと、いいのですが」
個人差と言っても限度はあるだろう。せいぜい数日が関の山。それに個人差ゆえに早まる可能性もある。
期日まであと十日程度。
時間はあるようでなかった。
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