035 帰;水泡(後)

 姐さんは出産以来、よく床につくようになった。産後の肥立ちがあんまりよくなかったんだろうね。


 ターゲスアンブルフ卿がうちに客として来たのはそのころだよ。もう覚えていないけど……どこかのお貴族様に連れられて来たんだ。なにせあんだけの男前だ。女たちがキャーキャー騒いでいたのは覚えているよ。


 ──でも、あのお人はお気に召さなかったみたいだね。ひと言も口をきかなかった姐さんを指名して、これからってときに……


 アタシがちょっと目を離したらユスラがいなくなっててね。


 ようやく見つけたと思ったら、あの旦那の足にしがみついてた。


 血の気が引いたよ。子ども嫌いの貴族なんてよくいるからねぇ。おまけにここは娼館だ。そういう・・・・、家庭を連想させるようなモンはダメなんだよ。


 一夜の夢っていうかさ、まあ、この世ではないところだから、なんでも許されるっていうか……。


 なんにしても、ヤバイと思った。


 ところがあのお人は怒るどころか、なんか不思議そうで。


 ……そのまま長いこと、足にしがみつくユスラを見下ろしていたら、姐さんが悲鳴をあげてユスラを奪ってねえー…。


 いやもう、そのころにはいくらか修羅場ってヤツを見たけど、あのときほど冷汗が出たことはなかったね。


 けっきょく、その場はなにもないまま、ターゲスアンブルフ卿は帰ったんだ。


 姐さんもアタシも、こっぴどく女将に叱られたのは言うまでもないか。


 で、次の日あの人は娼館に来て、姐さんを指名した。部屋に入るとき、アタシとユスラを呼んで、眠くなるまでずっと一緒だった。


 姐さんは言葉を知らない人だし、あのお人はあんまり喋らないし、沈黙が重たい重たい。なんでアタシまで呼んだんだって恨んだよ。……まあ、ユスラがお目当てだったんだろうけどねぇ。


 肝心のユスラはずーっとお貴族様にくっついてて。


 姐さんは、最初こそはもう引き剥がそうと必死だったんだけど、なにせユスラのほうがくっついてるから、そのうち諦めて……。



 思い返しても、不思議な時間だったよ。


 もし姐さんが普通に結婚して、普通の子どもを産んでいたとしたら、こんな風かなとも思ったもんだ。



 一年過ぎて、もうすぐ二年かなってところでユスラの母親は死んだ。


 育てるのは実際アタシがやってたし、まあそのままの予定だったんだけどね。



「ターゲスアンブルフ卿が引き取るってことで話はついた。詳しいことは知らないけど、女将の性格を考えるといろいろと取り引きがあったんじゃない? ……ま、あのお貴族様は一方的に請求されるような人じゃないっぽいし、その辺は上手くやったんだろうから心配してないけど」


 確かに、とリヒトは同意した。


 シュウは他人に搾取されるような人間ではない。必要とあらばこころよく支払うが、つり合いのとれていない天秤は薙ぎ払ってしまうだろう。過分な請求があれば遠慮なく条件を追加し、暴力に物を言わせるような態度が見られれば相応の態度で応じる。──貴族の体裁をきちんと保ったまま。


(やっぱり敵わないよなぁ……)


 呆れつつも、リヒトはここにいない男に向かって両手を挙げてた。


 シュウのことを考えるたびにリヒトは全面降伏し、次の瞬間に決意を固めるのだ。


(でも、いつか、絶対)


 女は煙草の火を灰皿できゅ、ともみ消した。


「アンタ、ちょっと手ぇ貸しな」


「は? 手?」


「手」


 否と言う間もなく手首をとられ、両手の平を上向きにされた。成長に合わせて骨っぽさが増した甲、太くなった指を、女は丹念に覗き込む。


「あの……?」


「アンタ、早死にするよ」


 どきりとした。でも次の瞬間には冷静になっていた。


「覚悟はしています」


「そうかもね。でもそのとき・・・・は、アンタが思っているよりも、もっとずっと早く来る。後悔と得熟の両方が得られる人生になるよ。……ま、守護者の人生なんてそんなもんかもしれないねぇ」


 最後はひとり納得して、両手は解放された。


 早死に、という言葉が後を追ってリヒトにのしかかる。


 ──いつかなんて言っている場合ではないのかもしれない。





 戻って来たユスラの後ろには三十代後半くらいの女がいた。じろり、と粘着質な視線にねぶられて、リヒトは思わずのけぞる。


 年齢から考えて、彼女が娼館の女将なのだろう。


 明らかにユスラを迷惑がっている。女将の権限で追い出したり出入り禁止にしたりできないのは、ユスラの訪問がシュウとの取り引きにふくまれているからだと察した。


 女将は垂れ下がったまぶたの向こうで険を強め、忌々しさを隠そうともせずリヒトの後ろの女に向かって言った。


「帰るそうだよ、送っていきな」


「分かったわ」


 きびすを返す一瞬だけユスラを睨み、女将は娼館の奥に消えた。「送っていけ」──親切な響きだが、リヒトの耳にはとっとと追い出せと聞こえた。


「行きましょ」


 女に促され、食堂へと戻った。ひと気の無くなった屋内はしんとしていた。


 勝手口を出て表に向かうまでの短い間に、背中を向けたまま女がぽつりと言った。


「……分かってたことだけど、もう会えないってのは寂しいねぇ」


 ユスラも同じ寂しさを感じていることは想像にかたくない。


 リヒトは思わず身を乗り出す。


「俺が連れて来ます。必ず」


 神女は帝宮で暮らすものとされている。入ればもう二度と出られない。なんらかの形で外出は可能だったとしても、沢山の護衛がつけられて悪目立ちする。神女という存在に常にまとわりつく大衆の印象を少しでも考えるならば、神女はそも色街に近付くべきではない。だから許可などおりない。


 今日という日を今生の別れだと考える後ろ向きな思考に一石を投じたかったのだが、


「少年、あんたも男なら、見込みのない約束はしないこった」


 リヒトに向けられた答えは頑なだった。


「女を傷つけるだけだよ」


 ユスラはなにも言わなかった。


 女もそれ以上、言及しなかった。


 二人が黙っている以上、リヒトになにか言えるはずもなく──


 来たときと同じ経路で色街を出て、帰した馬車が戻ってくるのを待った。


「……お姐さんね、あそこを出るんだって」


 ぽつり、とユスラが言った。


「私を育ててくれたお礼にって、シュウがお金を渡していたの。本当は全額すぐに払って良かったんだけど、お姐さんがいいって言ったんだって。怪しまれるからって」


「怪しまれると、なにか問題あるの?」


 貴族が気に入った娼婦を身請けする話はよく聞く。実際、ユスラは娼館の一部の人間に「色惚け貴族に金で買われた」と思われていた。


「寄合いに登録されたお店のお姐さんたちは、ひとりひとり名簿に名前がちゃんと載っているんだって。その名簿から名前を消すのにすごくお金がかかるのよ。大きな金額だから、ちゃんと記録が残るの。誰が誰を引き取ったって」


 ユスラが名簿に載っていなかったのは、三歳の彼女が「商品」ではなかったためだ。だから十五年前は店との直接交渉で割と迅速に片が付いたのだとリヒトは察した。


「シュウの名前が花街に残るのは、あんまり良くないだろうって……。そこを足掛かりに私のことが知られるかもしれないから、お姐さんは今日までずっと我慢してくれてたの。自分で自分を身請けするようなお金が貯まってもおかしくないくらいの年数が過ぎるまで、ずっと」


 もしも神女ユスラの存在がもっと早くに明らかになっていたら、あの娼婦はそれだけ早く苦界から解放された。あるいは、自分の幸せだけを考えていれば──。


 しかし彼女はどちらも選ばず、ユスラの将来を選択した。


「……私、むだなことさせちゃったかな」


「神紋がバレたのは、ユスラのせいじゃないだろ」


 ぽんぽんと頭を叩いてやると、少しだけ縦に頭が動いた。ユスラは本当の意味で理解していた。己がどれだけの幸運と、良い人間に恵まれているかを。



 馬車が到着し、素早く乗りこんだ。


 二人は予定よりも少し早く屋敷に到着した。


 玄関ホールでシュウに迎え入れられ、ユスラが彼の腰に腕を回すのをぼんやりと眺める。


「着替えてこい」


「うん」


 ユスラが部屋に向かったところで、シュウの目がこちらを向いた。


「どうした?」


「ん……、もしかして今日、俺を同行させたのって……」


 護衛役だけでなく、ユスラの出自を教えるためだったのでは?


「いや……なんでもない」


 聞くのも野暮だと言葉をひっこめた。


 シュウは意味深な笑みをひとつこぼし、「お前も着替えてこい」と執務室に向かう。


 男らしいがっちりとした背中を見ながら、リヒトはあの女の言葉を反芻した。



 ──アンタがちょっとだけ運が良かったからよ。


 ──これからも続くとは限らない。



 ──そのときは、アンタが思っているよりも、もっとずっと早く来る。

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