034 帰;水泡(中)
促されるままに食堂を横切り、ドアをくぐって廊下に出た。かなり狭い。大人がようやく一人、通れる幅しかない。
外から建物を見たときに想像したよりも小ぢんまりとしているのは、こちら側が従業員のための区画だからなのだろう。
表とは一線を画した裏の世界。
色街という特殊な場所の深層を堂々と歩くには、リヒトはまだ若すぎた。下町の共同住宅に似た造りの屋内をおっかなびっくりで進んだ。
案内された部屋はかなり狭かった。ベッドがひとつ、椅子がひとつ。生活感がまったくない。枕元に置かれた煙草だけが人間の存在をわずかに連想させる。
ユスラを椅子に座らせて、自身は扉のそばに立つ。万が一の事態が起きるとは思えないが、もしもそのときはリヒトが素早く壁となれる位置だった。
「で、なんの用なの?」
女は古いベッドに腰かけて煙草を取り寄せ、慣れた手つきで火をつけた。
「まずはこれね」
「ああ、いつも悪いわね」
受け取った封筒の中身をあらためて、女は片眉を上げる。
「今回はずいぶんと気前がいいのね」
「うん、私が帝宮に入ることが決まったからって。たぶん、もうここには来れないと思うわ」
「そう……とうとう、ね」
女は、ユスラとは逆の方向に向かって紫煙を吐き出した。
「よくもまぁ、ここまでもったもんだよ。いまは十八だっけ?」
「うん」
「姐さんが亡くなって十五年か。アタシも
誰のことだろうと考えを巡らせる間もなく、ユスラがこちらを振り仰いで教えてくれた。
「私のお母さん、十五年前に亡くなったの」
十八のユスラが三歳のころだ。そして、
「シュウに引き取られたとき?」
「そう。お母さんが死んじゃったから、シュウが引き取ってくれたの」
「あのお貴族様にやたらと懐いてたからねぇ。アタシらも……まあ、ここにいるよりはと思ってね」
そう言って、女はじいっとリヒトを座視した。それからふいっとユスラに目を移す。
「アンタ、他のコらにも挨拶してくんだろ?」
「うん、そのつもり」
「じゃあ、その間にこのコ借りるよ」
「リヒトを? 私は構わないけど……」
どうしようと目で
リヒトがユスラに付いて来たのは護衛のためだ。ここはユスラの事情も把握している人間ばかりのようだが、そばを離れては仕事にならない。あとでシュウに知られたらなんと言われるか……。
「心配する気持ちは分かるけど、まあ大丈夫だよ。若い
太鼓判を押されて安心しつつ、リヒトはどうしても聞き逃せなかった単語を反芻した。……してしまった。
「色惚け貴族……」
「行ってきな。もうすぐみんな寝ちまうよ」
「はーい。リヒト、なるべく早くに戻るから」
「分かった」
さっと立ち上がったユスラは、スカートのすそをひるがえして部屋を出た。ぱたぱたと廊下を歩く音が遠ざかったところで、女が「さて」と切り出す。
「アンタ、リヒトだっけ? ユスラの母親のことはあんまり知らないんだね?」
「はい」
言われて初めてユスラにも両親がいるのだな、と思ったくらいだ。
もちろん、神女は化け物だから親などいない、などと考えていたわけではない。ユスラはシュウのそばにいることが自然で、当たり前で、あまりにも違和感がなくて……血肉を分けた家族の存在を考える余地がなかったのだ。
「ターゲスアンブルフ卿は知っているけど、悔しくないのかい?」
「悔しい?」
「そういうもんだろ。惚れた女のことを自分よりも知ってる男がいるんだよ?」
あえて視線をそらし、己をじっくりと振り返ってみた。
「……いや、あんまり……。なんて言うか、そもそもあの人に勝とうとか悔しいとか、そういうことを考えることすら、おこがましい気がする」
シュウは、父親のような年齢の、偉大な師匠で──
大海のように悠々と、
大樹のようにどっしりと、
大空のように偉大で──
「いまのところ勝てる要素なんてないし、勝つつもりも……まあ、そのうちとは思うけど。でも悔しいって言うのは、」
感じて普通なのではないだろうか。
どれだけ手が届かない相手でも、羨ましい、妬ましいと思うのが普通なのではないか。むしろどうして一度も負の感情を抱かなかったのか。
「あー……、たぶんユスラのせいだ」
「ユスラの?」
「そう」
つまり。
「ユスラはさ、自分がどんだけ大事にされてるかも、幸運なのかも、全部ちゃんと知っているんだよな。シュウがどれだけスゴイのか一番知っているのはユスラなんだ。そのユスラがさ、俺を選んでくれたっていうのは──」
うん。
「すっげーことなんだよ。金とか権力とかじゃなくて、もっと人間の素のところで俺とあいつを対等だと思ってくれてるんだよ。だから悔しくない。確かにいろいろ負けてるけど、でも負けてない」
女はきょとんとしていた。そのしぐさが少しだけユスラに似ていて、なんだか可笑しかった。まったく知らない実母よりも、いま現実に存在してユスラの身の上と将来を案じている彼女のほうが、よっぽど母親のように感じた。
「なるほど」
「……なに?」
「ごちそうさま、という言葉はここで使うのが適当ね」
ふっと煙草の煙を吹きかけられて、迂闊に吸い込んだリヒトはごほごほと咳をする。
「なんなんですか、もー」
「あの子の母親はね」
「え」
「──異国の女だったのよ。言葉も喋れなくて、泣きもしなけりゃ笑いもしなかった。ワケアリって、ああ、
長くも短い昔話の始まりだった。
立ち居振る舞いはキレイだった。きっと良い家の生まれだったんでしょうね。見た目も悪くはなかったから、出しゃばらない物静かな女を欲しがる客によく指名されてたわ。
アタシは彼女の身の回りの世話をするために買われたの。
いまどき姉女郎だとか妹分だとか古臭いんだけど、それなりに稼ぎは良かったみたいだし、そのときにはもうお腹にはユスラがいたから。どっちかって言うと、ユスラの世話をするために買われたんだよ。
父親はね、まあ、例にもれず誰だか分からないよ。赤ん坊は髪の色も瞳の色も変わることもあるからアテにならない。言われてみれば誰かに似ている気もするし……まあ、そんなもんさ。
誰の種だかなんて大した問題じゃないんだよ。娼婦の子、ただそれだけ。女なら娼婦になって、男なら用心棒か男娼かになる。
でもユスラはちがった。
あの子は背中に神紋を刻んで生まれた。
みんな驚いたよ。神紋なんて御大層なモンにお目にかかれるなんて人生で一度あるかないかだ。見世物小屋のサルみたいに人だかりができた。
で、羨ましがった。──神紋の子はみんな帝宮に引き取られる──ってことは、ユスラは色街を出るってことだ。そりゃみんな羨むさ。娼婦なら誰だってね……。
だけどそのとき、赤ん坊の背中を見て、姐さんが大きな悲鳴をあげた。アタシが初めて聞いた姐さんの声がそれだよ。
生まれたばかりの赤ん坊を抱きしめて離さなくて、そのまま握りつぶしちまうかってくらいでね……。
ひと悶着になったよ。娼婦の中には同じように子どもを産んだ女が、神女のことを帝宮に届けるのはやめたほうがいいなんて言いだしたからね。周りの反感を買って、この子だけ特別扱いはどうかって意見が出た。
娼館の中で揉め事が起きたり、女たちの間で意見が割れたら女将の出番だ。
当時の女将は
女将はユスラを隠した。
同情したんじゃない、嫉妬だよ。
言っただろう? ユスラは娼婦の子なのに花街を出られるんだよ? 女将の母親は娼婦だった……まあ、想像つくだろ。
娼婦の娘は娼婦に。
女将はそう言った。
隠すと決まったら、やることはひとつだ。誰もかれも口をつぐんでユスラのことは口外しなかった。神紋の子はお上に報告しなくちゃいけないのに、黙って隠すんだ。罰せられて、下手こいて死刑になったりしたら割にあわないだろう。
──そう、ばかな話さ。ユスラがほんとに娼婦になっちまったら遠からず人の噂にのぼる。女将は商売が繁盛するって言ってたけどね……策なんてあるもんか。ただの考えなしさ。
ん? アタシか……。そうだねぇ、姐さんたちの気持ちも、まあ分からないでもなかったんだけどねぇ。
それ以上に、ただ単純に赤ん坊が可愛かったっていうのが大きかったね。
おまけに……考えてもみな。帝宮なんて場所は貴族の巣窟だ。そんなところに娼婦の子が入るんだよ?
しかもその子は神女で……神女が世間じゃなんて呼ばれてるか、あんたが一番よく知ってるだろ。
当時から帝宮には何人か神女がいたみたいだけど、ユスラを守ってくれるとは限らない。むしろ本物の娼婦が来たって蔑むに決まってるさ。貴族にばかにされて、女たちに唾を吐かれて育つことになる。そんなところに行かせたくなかった。
アタシはまだガキだったけど、ガキなりに必死にユスラを世話をしたよ。ユスラを嫌っている姐さんたちに近づけないようにしたり、泣かないように……
……まあ、これはいいか。
いろいろあったけど、そんなに悪くはなかった。
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