033 帰;水泡(前)

 今日のユスラの服は地味だった。小さな花が散らされたプリントドレスは愛らしいが、仕立てが甘くスカートはよれており、ところどころに小さな染みがある。まぎれもない古着だ。


 リヒトの服は丈が合っておらず、いわゆる「ちんちくりん」状態である。それがたった二週間前の本人の服であると知っているのは本人とユスラ、そしてシュウだけだ。


 二人が並ぶと、──ユスラの肌が白すぎることを除けば──立派な労働者階級のカップルの出来上がりだった。


「金は?」


「持っているわ」


「転ぶなよ」


「リヒトがいるから大丈夫」


「女将によろしく伝えてくれ」


「ええ、任せて」


 シュウにひと通りの注意を受けて、二人は用意された馬車に乗り込んだ。貴族の証もない質素な馬車だ。町医者や商人が利用する一頭立ては、市街に入っても特に衆目を集めることなく進んでいく。


 目的は知っていても、行き先を聞いていないリヒトは、中心街をぬけてさらに屋敷から遠ざかる景色にいくばくかの不安を覚えた。ここから先はあまり治安が良くない方角だ。


「どこに行くの?」


「色街よ」


「んあ!?」


 予想の斜め上をいく返事にリヒトは目を白黒させた。


 一方ユスラは「言ったでしょう?」と、微笑んだ。


「そこにわたしの家族がいるの」




 馬車は色街から少し離れた目立たないところで止まった。


 リヒトは周囲に誰もいないことを確認して先に降り、手を差し出しユスラの降車を手伝う。


 馬車は一旦帰して、ここからは歩いての移動だ。ユスラとリヒトは手を繋ぎ、年齢相応の初々しさで二人きりの時間を堪能した。


 帝都には花街がいくつかある。帝都を二分する大河の川下にある未認可の貧民街から、貴族も通う色街まで、一般の生活を侵害しないよう配慮されながら、需要に応じて点在している。


 二人が向かっているのは高級娼婦が常駐する帝都の中央に近い色街だ。その特色ゆえに定期的に警務兵の見回りも行われ、比較的治安は良いが、世俗とは一線を画していることは間違いない。ましてや今回リヒトがユスラに同行しているのは、彼女の護衛のためだ。


 歩調に気を遣いつつ、周囲をくまなく警戒する。いまのところ怪しい気配はない──それどころか、周囲に人はおらず閑散としていた。むしろ怪しいのは、こんな昼日中から色街を歩いているリヒトたちのほうだろう。


 目的の遊郭は、立ち居並ぶ他の建物と際立って変わった様子は見受けられなかった。客を受け入れるための大きな玄関と商品を並べるための見世みせ台を正面に据えた、そこそこの広さの間口。奥行きは女のように広い──などと、のたまったのは誰だっただろう。たしか近所の助平親父だったような気がする。


 古そうな建物だが、蜘蛛の巣が張っていたり、雨水の染みなどはない。女の背丈では手が届かない所も掃除が行き届いている。それなりの儲けを出している証拠だ。


 高級娼婦を置く遊郭は、目の肥えた貴族を引くために派手に飾り付けるたなも少なくないが、ここはそういった装飾はなかった。かといって貧乏臭いわけでもなく、品良く仕上がっている。いかにもシュウが好みそうなむだのなさだ。


「リヒト、こっちよ」


 ユスラに促されて裏口にまわった。


 花街はまだ花弁を閉じている時間帯だ。正面の玄関は鍵がかけられて出入りはできない。郵便の受け取りや訪問など、所用があれば裏口を使わなければならない。


 すぐそばには見張りと思しき男が立っている。禿頭の大柄な男だ。浅黒い肌を見れば、グランに連なる氏族以外の出身か、外国人であることは明白だった。


 男はユスラを見、続いてリヒトを見た。


「こんにちは。彼はわたしの狼なの。入れてもいいかしら?」


 男は鷹揚にうなずき、巨体を脇にける。


「ありがとう」


 彼はそれにも首肯で答えた。


 なぜ言葉を発さないのかという疑惑はすぐに晴れる。彼の喉には真横に大きな傷が入っていた。原因となりそうなあれこれを思い浮かべているあいだに、ユスラが先行して館内に入った。


「ただいまー!」


「──ユスラ?」


「え、あらやだ、ほんと!」


「おかえりー」


「おかえり、ユスラ」


「ユスラ? あ、ほんとだ。おかえり」


 裏口は食堂ダイニングに通じていた。おそらく夕食になるのであろう食事を口に運びつつ、女たちが賑やかな声をあげた。


「アンタねぇ、帰るなら帰るって先に連絡しなさいよ」


「ごめんなさい、昨日、急に決まったの」


 ユスラよりも一、二歳年上と思われる女が嫌そうな声で怒った。化粧を落としておらず、口紅は剥げ落ちている。媚態をいた出で立ちは、下町の娘ら母らといくらも変わらない。


「そっちの子は?」


「やだ、いい男じゃない!」


 がたり、と数人が椅子を引いて立ち上がった。長机の一番向こうの年若い娘も腰を浮かせてリヒトに興味を示す。


 神女の体液の影響で急速に成長しつつはあるが、中身はまだ十五歳の少年だ。弟妹たちにたかられた経験はあっても、艶を持った女たちに群がれたことはない。リヒトは思わず及び腰になる。


「近くで見るとけっこう線が細いのね」


「腰のラインがそそるわぁ」


「ちょっとユスラ、この子、誰? 紹介しなさいよ!」


「リヒトよ。私の狼」


 えぇーと、女たちが一斉に不満を上げる。


「なんだ、唾済みか……」


「散った、散った! 人様のには手出さない!」


「あんた、あのお貴族様はどうしたの? フッた?」


「シュウはシュウ、リヒトはリヒトよ」


 ユスラがしたり顔を作ると、女は呆れ肩をすくめた。そして気の毒そうにリヒトを見た。


「アンタも苦労してるわね」


「はぁ……」


 いちおう頷きはするが、首の角度はあいまいだった。


 シュウとリヒトの関係は、ユスラを間にはさむことによって、むしろ上手く働いていた。シュウはリヒトの父親に近い年齢だし、人狼としても先輩だ。貴族の決まり事を学ぶときは師匠として、領主の仕事の引継ぎは先達として、リヒトは教えを乞う立場にある。


 シュウはあれで義理堅いところもあるし、一部の特権貴族に聞かれる傍若無人な振る舞いもない。尊敬できる人格を備えている。


 右を見ても左を見ても、リヒトがシュウを貶める要因はなかった。


「俺は感謝してますよ。普通じゃ体験できないことばっかり、させてもらっていますから」


 女の口がへの字に歪んだ。


「はいはい、ごちそーさま。……これも神女の特権なのかしらねぇ」


 ひとり言のような最後にどきりとする。


 彼女は……ここの女たちは知っているのだ。ユスラが神女だと。


 世間の神女に対する視線は辛辣なものだ。神に愛でられたと聞こえの良い言葉で修飾しながら、人にあらざる能力を恐れ、人狼に体を開くことを蔑視する。


 では、娼館につとめる女たちは? ユスラをどう見ているのだろう。


「羨ましい?」


 細腕にするりと巻き付いて、ユスラは上目遣いに女を見た。


「そうね、きれいな服を着て、いい男を侍らせられりゃあねぇ」


 女は密着するユスラのおでこをピンと弾く。


「でもそれは、アンタがちょっとだけ運が良かったからよ。これからも続くとは限らない。気を付けなさい」


「うん、ありがとう」


 くすぐったそうに笑い、ユスラは猫のように頬ずりをした。


 見た限り、ずいぶんと彼女に懐いているようだった。ユスラはここにいる者を家族と呼んでいたが、この年上の女性には特別に親しい間柄のようだ。


「さ、顔を見せに来ただけじゃないんでしょ。奥に行きなさい。ほら、アンタも」

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