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 アインホルンの予定では、そろそろ一枚の陳述書が手元に届いているはずだった。雄々しい文字で「もっと休みをよこせ」だとか「わがまま娘のお守はもう嫌だ」などの趣旨が丁寧な言葉で記された紙が目の前にあるはずだったのだ。



 ところが現実はどうだろう。


 陳述書どころか口頭での苦言すらなく、離宮侍女の話によると、果実の神女がヒステリーを起こす回数は目に見えて減ったという。


 神女の態度が改まったらしいとさえずる宮廷人は、アインホルンの仕事ぶりを褒めたたえる。



 一方で、事のあらましを知る者らは、アインホルンの見通しの厳しさを指摘する。「もう少し寛大になっても良いのではない」か、と。



 予定通りに物事が動いていないばかりか、まるっきり正反対の評価を左右から下される展開に、十九歳の若き皇子は少々いらついていた。





 ことの起こりは昨年の秋の終わり。果実の神女が人狼のひとり失い、身の回りの安全に不安が生まれた。アインホルンは状況を改善すべく、腕の立ち、かつ、果実の神女のヒステリーにも耐えうる精神力を兼ね備えた青年を用意した。


 もちろん青年には十分な説明と褒章を用意し、納得してもらっている。



 ところが果実の神女は提案を拒否し、あまつさえターゲスアンブルフ卿に提言させたのだ。ユスラとかいう新参の神女が定期的に果実の神女の部屋を訪れ、守護者の不在を補う、と。



 相手が相手だけに、アインホルンは飲まざるを得なかった。



 それに新参の神女の人狼はふたりだけ。人的不足を補填すると言ってもしょせん限界がある。


 だからいずれは果実の神女の守護者たちがを上げて、新しい守護者を要求すると思っていたのに。



「……」



 人狼は神女の単なるお守りではない。


 彼らは神女の体液を得て、狼としての能力を得る。よく見える眼、よく聞こえる耳、捕らえる脚と、裂く爪を。


 人にあらざる暴力で、神女を守る。



 おまけに人狼は定期的に神女から体液を得なければ死ぬ。宮城に残された資料には、神女の体から離れた体液では延命の役目を果たさないと記されていた。



 さも──神女が死ねば人狼も死ぬのだから必死で守れ、とでも言わんばかりに。



 アインホルンは神女の在り様が気にくわなかった。


 異能という餌をちらつかせて自らの有用性を示し、男を人狼という化け物に作り変えてしまう神女が。他者に依存しきった生き方そのものが好きになれない。



 もちろん、神女たちが自ら望んだ生き方ではないとは分かっている。見方を変えれば彼女らも被害者だ。



 だからなおのこと彼は、女たちに神紋を与えたという神──あるいはそれに準ずる神性をもった〈なにか〉を嫌悪し、〈なにか〉の顕現たる〈神女〉をいとっていた。



 残念なのは、アインホルンが誰に対しても笑顔になれる器用な性格ではないことだろう。神女と相対すると忌諱がにじみ出て、ついつい顔が曇ってしまう自覚がある。



 果実の神女の癇癪にはいつも悩まされているから、悪感情はさらに大きい。結果、彼女に対する態度は他とは比べものにならないほど嫌悪に満ちていた。


 こちらの要求に対していちいち反発されるのも無理はないのだ。毎度飽きず蔑視してくる人間に対して、愛想良くできるのは、よほど精神が強い者か、単なる愚者か、腹黒いか。



 果実の神女はいずれにも該当しない。短気なのも、良く言えば素直さの裏返しなのだと言えた。



「……まったく」



 アインホルンは背中を椅子に預けて深く息を吐いた。



 そういった反骨心から新しい人狼を受け入れないのであれば、手段を問わず人狼を押し付ける覚悟はあった。



 しかしどうにも様子がちがうらしい。神女たちも人狼たちも、互いに協力し合って不足を補っている。



 おせっかいな甘露の神女も、新参の神女に対して好意的な姿勢を見せているとか。



 これまでの離宮にはなかった、新しいうねりだ。



 新鮮な風が、淀みつつあった室内の空気をゆるやかに撹拌かくはんし、住人たちに心地よい変化をもたらした。影響は緩慢に広がって、出入りする侍女や近衛兵たちもおよんでいる。目に見えるものではないが、確かに情調が変わった。



 さすがターゲスアンブルフ卿が選んだ神女だ、と褒めるべきだろうか。



 女性と呼ぶにはいとけない娘の顔を思い出し、アインホルンは眉根を寄せた。



 新参の神女を見ると、どうしてこうも面白くない感情が湧いてくるのだろう。我ながら不思議でならない。



 ターゲスアンブルフ卿を人狼に貶めた恨みも無きにしもあらず。怨恨と呼ぶにはいささか軽いが、果実の神女に対する鬱陶しさは上回って不愉快だ。しかもかなり根強い。



 ヒステリーを起こす回数が減ったと聞いて果実の神女に対する評価は改めたが、新参の神女に対するこの不可解な不快感が改まることはないだろう、そう確信したときだった。



 執務室のドアがノックされ、補佐官が来客を告げた。誰だと問えば、新参の神女と守護者のグレンツェン卿だと言う。



 ……顔を思い浮かべたりしたのが、いけなかったのだろうか。



 アインホルンは苦虫を噛み潰したような顔で返事をした。



「いまは忙しい。後にしろ」



 もちろん後ほど再訪しても会うつもりはない。


 ターゲスアンブルフ卿を伴っての訪問なら、おおよそ大事な案件なのだろうが、グレンツェン卿ならばたいした用事ではないはず。そのうち諦めるだろうと思ったのだが。



「それが、その……」


「なんだ」


「良い返事が頂けるまで、居座るとおっしゃられて……」



 イラッ。


 こめかみが引きつった。



 アインホルンは眉間も目元もあらゆる箇所を引っ張り、沸き立ついらだちを限界まで我慢し。


 今日一番の長いため息を吐いて、どうにか己を取り戻した。



「……分かった、入れろ。ただし手短に」


「はっ」



 了解と安堵を一緒くたにして補佐官が返事をし、しばし静かになる。


 さほど間も空かず来訪者たちはアインホルンの前に立った。



「こんにちは」



 それなりの教育は受けているだろうに、淑女流の挨拶もなく、立ったままの気軽な一言。


 アインホルンは口を妙な形に折り曲げながら、「とっととしろ」と命令する。



 新参の神女は横柄な皇子の態度に臆することなく、言われるまま「とっとと」話を切り出した。



「外出許可が欲しいの」


「ばかは休み休み言え」


「十分休ませてもらっているわ。ここに入ってもう季節は二回変わったもの」



「季節が何度変わろうが、神女はむやみに外に出るな」


「えー?」



 イラッ。



「第一! 新年に入ったばかりで民も浮かれている。外出許可など出せるか!!」


「だから出たいのに」


「何度言ったら……!!」


「だってシュウの誕生日なの」



 ぴたっ。


 いきり立ったアインホルンの動作が止まった。


 いま、なんと?



「明後日、シュウの誕生日なのよ。だからプレゼントを買いに行きたいの。護衛はリヒトがしてくれるって」


「誕…生日……?」


「そう」



 新参の神女はにっこりと笑った。



「ねえ、せっかくだもの。皇子さまからもシュウになにかプレゼントをしたらどうかしら?」


「な、なに?」


「お祝い事はみんなで祝ったほうが楽しいわ」


「それは……しかし……」



 氏族大公が部下の誕生日を祝うこと自体は問題ない。ましてやターゲスアンブルフ卿であれば、上役に重宝されてしかるべき人物だ。彼にはそれだけの実力と実績と名前がある。



 しかしひじょうに残念なことに、アインホルンには彼が喜びそうなプレゼントが思いつかない。明後日までに用意できるかどうか……。



 希望と現実のはざまで動揺していると、神女がぽん、と手を打った。



「そうだわ、もし外出許可をくれたら、シュウがいま一番欲しがっているものを教える、っていうのはどうかしら?」


「なんだと!?」


「外出といっても、そんなに長くはかからないのよ。なるべく帝宮の近くのお店で済ませてしまうから。ね?」



 後半を年下の人狼に投げかけ、神女は実に楽しそうに提案した。



「しかし、それでは、お前のプレゼントは……」


「心配しないで。わたしは別の物も考えているから」



 大丈夫と告げられて、アインホルンはごくりと喉を鳴らす。



 ターゲスアンブルフ卿…


 年に一度の誕生日…


 プレゼント…


 一番欲しい物…


 喜ぶ。



 ──彼が、喜ぶ!!



「……ッ、き、聞こう」


「ふふ、成立ね。──シュウが欲しがっているのは、ヤーゼンのインクボトルよ。ちょっとだけ灰色がかった、すごくきれいなアイビーグレイ」



 アインホルンは引き出しをさっと開け、一番奥にあった書類に手早く万年筆を走らせた。外出許可証と銘打って、最後にサインを入れる。


 がたんと行儀悪く音を立てて椅子を引き、つかつかと二人に近付く。そして書類を押し付けた。



「私は用事ができた。あとは好きにしろ」



 きりりと至極真面目に言い放って、アインホルンは二人を部屋に取り残した。




 * * *




 置き去りにされた二人は扉が完全にしまるまで彼の背中を視線で追いかけた。


 きれの良い足運びで出て行って、来客を放置とは。



 ユスラの顔が楽しそうにほころびる。


 対するリヒトはどこか困った様子だった。



「ユスラは良かったの?」


「なにが?」


「インクボトル、ユスラがあげたほうが良かったんじゃ?」


「いいのよ、リヒト」



 ユスラは押し付けられた書類をきゅっと抱きしめ、うっとりと微笑んだ。



「だって、一番欲しい物が一番喜んでくれる物とは限らないでしょう?」


「そうかな」


「ええ。シュウが一番喜ぶのは、わたしからの贈り物だって決まっているもの」


「ああ…………………そうか、うん」



 なんとも言えない顔でリヒトは頭を掻き、困ったような、笑い出したいような、そんな気分になった。



「……なんか気の毒」

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