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リヒトはテラスの軒先から天を見上げて軽く息を吐いた。
空の一切を厚い雨雲が覆っている。降ってくる雪は大粒で積もり続けており、まだ薄く緑が見える庭を真っ白に染め変えつつある。
周囲には誰もいない。まだようやく黎明を迎えようかという
複数人の足音が聞こえたのは、それからしばらくしてのこと。
それはリヒトの後ろで止まり、すぐに背後のガラス扉が開かれた。
「グレンツェン卿」
ここしばらくで聞きなれた声に、リヒトは振り返った。
甘露の神女、クリームヒルト。背後の人狼たちは今日は三人と控えめだ。
「おはようございます、クリームヒルト様。お早いですね」
「ええ、せっかく雪が積もっているんですもの。のんびりと寝ているにはもったいないでしょう?」
子どものような無邪気さを見せて神女が微笑む。整えられたきれいな笑顔に合わせてリヒトもやんわりと口角を持ち上げ、彼女の対面に応えた。
「あなたの可愛い方は、まだお休みですか?」
「ええ、まあ」
主寝室にはいなかったので、隣のシュウの寝室にいるであろうユスラを思い起こす。
「……余計な質問だったかしら?」
「え゛、いやっ……」
狼狽するリヒトに対し、クリームヒルトはふふ、と余裕の笑みをこぼした。
「わたくしにかまけてばかりでは、ユスラ様もお気が休まらないのではありませんか? お姿を拝見するたびに、わたくし、凄みのある目で見られていますのよ?」
「申し訳ありません……」
嫉妬を隠しきれないユスラに半分呆れつつ、もう半分で嬉しく思いつつ、人狼としてあるじの不躾を謝罪すると、クリームヒルトは朗らかに目尻を下げた。
「いいえ。ユスラ様は、ああいうところが本当に可愛らしい方ですもの。見ていると、つい構いたくなってしまいますの」
「俺もそう思います」
「あら、まあ」
笑顔を絶やさず、きわどい話題でも相手を不快にさせない。
リヒトは改めて、クリームヒルトの話術に感心する。いったいどこで技術を身につけたのだろう。
聞いた話によると、甘露の神女はことあるごとに離宮を出て、あちこちの夜会に顔を出しているらしい。
はじめこそは、彼女は「そういう」人物なのだと思っていた。──つまり、夜遊びが好きな放蕩者、男好きで、手当たり次第人狼にしてしまう。
帝宮の噂話に耳をかたむければ、彼女の評価はおおよそこんな感じだ。
しかし実際に接してみると、真実ではないとすぐに分かった。
たしかに夜な夜などこかの宴会へ出かけているが、周囲をきっちり守護者たちで守り固め、警備面は万端整えている。
男をとっかえひっかえしていると言われていても、実際に彼女が男性を「持ち帰った」現場の目撃者はいないし、帰宮は意外と早い。少なくとも深夜におよぶことはないようだ。
いまも彼女の背後には、「男をとっかえひっかえ」と言われてもしかたのない人狼たちが控えているが、頻繁に外出する彼女の日常をかんがみれば、これだけの数は最低限必要ではないかとも思う。
だが、なぜ、彼女はこうも積極的に外に出るのか。
貴族の宴の席では、神女は神女であることを示すため、背中が大きく開いたドレスを強要される。果実の神女はそれを嫌がって離宮から出ないし、ユスラにいたってはシュウのお許しが出ない。
貞淑さが求められる世間では、肌を大きく露出するのは娼婦の常套だ。
最近、二十八になったばかりという最年長の神女は、目の下に薄く隈を作っていた。顔色も、心なしか悪いように見える。
「昨日もどちらかの夜会に?」
「ええ、カルトッフェル卿のところですわ。あの方のサロンは変わった方が集まるので、話題も豊富で面白いんですのよ」
化粧と微笑でごまかしても、疲労の気配は消えないものだ。
「聞いてもいいですか?」
「なにかしら?」
「なぜクリームヒルト様は帝宮の外へ?」
予想外の問いかけだったらしく、彼女は面食らった顔をした。間もなく穏やかな顔つきになり、長らく黙考する。
リヒトの質問は、彼女の根幹に関わるのだろう。ゆえにどんなに長くとも、待ち続けることができた。答えを拒否されれば素直に引き下がるつもりでいたが、彼女はゆっくりと話し始めてくれた。
「……わたくしが帝宮に入ったとき、離宮にはさる神女様がお一人、住まわれておいででした。とても線の細い、美しい女性だったのですが、大変お心が弱い方で……。毎日毎日、泣き暮らしておいででしたの」
「なぜ?」
「グレンツェン卿も、わたくしたち神女や人狼が世間でなんと呼ばれているか、ご存知でしょう?」
「……」
リヒトは無言で肯定した。
──化け物、だ。
「その神女さまは、いつも、神女として生まれてきたことを嘆いていらっしゃいました。
嫌悪を示していた眉が、ひと息とともにいったん開き、いつもの落ち着きを取り戻した。
「わたくしは幼心に、神女様に同情しておりました。同時に、いら立ってもいました。どうしてこの方は、なにもしないのだろう、と」
クリームヒルトの吐いた息が白く濁り、冷気に溶けて消える。
「けっきょく毎日泣き通したまま、儚く亡くなられてしまわれましたわ。葬儀の参列者はわたくしと、彼女の人狼たちのみでした。神女は皇族ではありませんから帝宮の墓地には入れませんし、家族に引き取ってもらおうにも、引き離されて年月が過ぎれば疎まれるだけ。よしんば下町の共同墓地におさめられても、神女の墓と知られれば荒らされてしまいます」
化け物の墓だ──と、リヒトの脳裏に理不尽な嫌悪をぶつける市民の声が聞こえた……ような気がした。
ユスラは、どうなるのだろう。彼女には家族がいない。家族のような人たちはいたが、遺体を引き取ってもらえるかどうかは別のはなしだ。
可能ならば、自分がユスラを引き取りたい。だが、
「人狼も、神女を失えばすぐに死にます。引き取りたくても引き取れません」
クリームヒルトの声はおごそかに響いた。
人狼は神女の体液を得て守護者となる。そしてひとたび力を得ると、あるじから離れることはかなわない。定期的に神女の体液を摂取しないと、発作を起こして死ぬからだ。
男の生涯を狂わせる魔性の女。
命を賭した契約だからこそ、より絆は深くなる。
神女は人狼の一生を背負わなくてはならない。
だが人狼に神女の一生は背負えない。守護の任のために早晩、死亡する確率が高いことがひとつ。神女が死ぬと遠からず人狼も死に至ることがひとつ。とても墓守などできない。
リヒトは強く手を握りこんだ。
「その神女様のご遺体は、どうなったのですか?」
「わたくしが引き取りました」
クリームヒルトの声は、鈴のように凛としていた。
「人狼の皆様もご一緒に、火葬にして骨壺におさめ、わたくしの部屋に安置しております」
「……」
「神女の間では、よくあることですのよ。生前、親しかった妹分が、姉分の遺体を引き取ることは。……形見分けのようなものですわね」
ただよう哀愁にかける言葉など見つからなかった。
リヒトはつかの間、瞑目し、故人をしのぶ。
亡くなった神女の話譚は他人事ではない。ユスラだっていつ同じ境遇に陥るか分からない。これまでは屋敷の内側にこもっていたので守ることができただけ。帝宮の外に出たいまは、シュウの名声もリヒトの力もどこまで及ぶか未知数だ。
クリームヒルトの話しは続いた。
「そのときに思いましたの。神女が手酷い扱いを受けるのは、わたくしたち自身が、神女はただの女であると主張しないせいではないか、と。異能を持っていようと、男を人狼に変えようと、わたくしたちの心は、平凡な子女と変わりないのだと……声高に叫ばなくてはならないのでは、と」
「だから、あちこちの夜会に?」
「ええ。と言っても、なにをするわけでもありませんのよ。ただおしゃべりするだけですわ」
笑っているが、その背後に並々ならぬ努力があったことは想像にかたくない。
挨拶一つにしても、相手によって作法と手順が異なる貴族社会。場に合った態度、所作、礼儀、言葉遣い……。これらを身につける苦労はリヒトもよく知っていた。
「はじめこそは失敗もたくさんしましたけれど、いまは友好的な方も増えて、ずいぶん変わりました。中には神女の体質を医学的、科学的に解明しようと協力して下さる方もいらっしゃいます。小さな取り組みですけど、努力の積み重ねはそれなりの形になると信じておりますわ」
すごい人だな、というのが、リヒトの素直な感想だった。
どんなことも継続そのものが難しいし、ましてや影で不品行だと悪評を並べられては辞めたくもなる。潰される者も少なくはない。それでも彼女は活動を続けて、少ないながらも成果を得ている。
神女への根強い偏見の大きさに比べれば、ごくごくささやかな成果でも、神女たちにとっては大きな一歩にちがいない。
「それに」
クリームヒルトは声の調子を変えて、嬉しそうに破顔した。
「最近はユスラ様のおかげで、皆様の堅い頭も柔らかくなりましたのよ」
「ユスラの? ですか?」
「ええ。なにせ天下のターゲスアンブルフ卿がお側にいらっしゃるでしょう? ユスラ様が帝宮でおいでになったときは、誰も彼も『あのターゲスアンブルフ卿が』とひと通り口にしていましたの。神女を先入観で見ていた方々が見る目を変えても不思議ではありませんわ」
「なるほど……」
貴族の中の貴族が人狼になった衝撃はずいぶんと大きかったらしい。
それにしても、シュウという男はどこにいっても
「話しが長くなってしまいましたわね」
いつの間にか辺りはすっかり明るくなっていた。雪曇り特有の薄暗さはあるものの、黎明はとうに過ぎている。もうすっかり朝だ。
「どうぞ、これを。ノイシュ士爵からですわ」
不意に、クリームヒルトが封筒を差し出した。かなり薄い。
「例のものですか? ずいぶんと早かったんですね」
「ええ、先日パーティーでお会いしましたの。その折にお預かりいたしました」
受け取った封筒は羽根のように軽かった。
「それから伝言です。『いつかお前の神女に会わせて欲しい』と。──良いお父様ですね」
クリームヒルトの柔らかな彼女の顔が、リヒトの父の人柄を物語る。
あの父ならユスラを片寄った目で見たりしないだろう──と思うのが、息子のえこひいきではない、なによりの証拠だった。
「さあ、そろそろユスラ様もお目覚めでしょう。お戻り下さいませ。でないと……」
「でないと?」
「つい本気になってしまって、貴方様を殺してしまうかもしれませんわ」
「……は?」
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