026 25 12 32、52 23 32

 薔薇が見渡せるテラスでクリームヒルトとすれちがって以来、リヒトの様子が少し変わった。これまでは、ユスラが花の手入れをしている間は、よく躾けられた狩猟犬のように待っていたのに、最近はテラスに戻ってくると例の神女と楽しそうに談笑している。



 ユスラとしては、可愛がっている仔犬が遊びに来た女友達に駆け寄っているようで面白くないし、女友達も、餌をちらつかせて仔犬を手懐けようとしているので不愉快だ。



 一度、冬の寒さを口実に庭へ行かなかったことがあるのだが、そのときリヒトが「今日は行かないのか?」と、さも残念そうに訊ねてきて、ひじょうに腹が立った。──不満を口に出したりはしなかったが。



 今日も今日とて本音を我慢しながら部屋に戻ってくる。


 常ならば寒風で冷えた体をお茶で温めるところだが、今日は領地経営の仕事が残っているらしく、護衛の任務はシュウに譲渡され、ユスラは私室に残された。



「……リヒトのバカッ!!」



 少年が去った扉にクッションを力いっぱい投げつける。



「もう知らない! もうっ、明日は雨でも雪でも降ればいいのよー!」


「荒れているな」



「だって! リヒトってば、いっつもいっつもいっつも!! クリームヒルトさまとばかりお喋りしているのよ!?」


「嫉妬か」


「分かってるけど!?」



「分かっているから尚のこと、もどかしい……と」


「だって……!」



 言葉尻をすぼませながら、ユスラは足元に視線を落とした。


 神女は人狼の生命を預かるが、心までは自由にできない。リヒトが望むのなら、彼がユスラのもとから去ることができる。


 命を担保に無理やりそばに置いておくことはできても、心を束縛することはできないのだ。



 いまはまだ、父親の話題を餌につられているだけでも、いつ本気になってしまうとも限らない。


 リヒトは不誠実ではないが、心変わりしやすい年頃だ。外見は二十歳に近い青年でも、中身は十五歳の少年なのだから。



「まあ、私には好都合だな」



 落ち着き払った低い声で言うシュウを軽く睨む。



「……お仕事、任せっぱなしのくせに」


「大したことは頼んでいない。あれも私も人狼だ。先々を考えれば、おのずと仕事は限られる」



 こともなさげに言われても、ユスラには返せる言葉がなかった。



 一般に、人狼は早死にすると言われている。神女を守る役目を負っているため、危険と遭遇しやすいせいもある。豊穣祭に亡くなった果実の神女の守護者がよい例だ。帝宮の奥に囲われていても、異能を目当てに不埒を働く者は後を絶たないのだ。



 異能がはっきりしていないユスラはさておき、果実の神女の予言の力も、甘露の神女の癒しの力も、危険を冒す価値はあるだろう。


 神女が人狼を生むのは、そういったやからから身を守るためというのが定説になっている。



「…………」


 ユスラはぎゅっと唇を引き結び、長椅子でのんびりと読書するシュウの首に腕をからませた。



「なんだ?」


「……別に」



 厚い胸に頬をすり寄せて、強肩に頭を置く。


 シュウはユスラの甘えに一切動じない。相変わらず本に目を向けている。けれどユスラを放置しているわけでもなく、ぽんぽん、と、叩くように頭を撫でてきた。



「……ごめんなさい」


「安心しろ、私はお前のそばにいる」


「うん……知ってる」



 十六のとき、彼を人狼として受け入れたのは、ユスラの心に添い続けると誓ってくれたからだ。あのときの揺るぎのない決心。



(リヒトにも同じものを見た気がしたけど……)



 気のせいだったのだろうか……。


 ユスラは眉根を寄せたまま瞑目し、シュウが与えてくれる安らぎに身を任せた。



 そのまましばらく、彼の膝を枕にしたり、横に並び座ったりしながら、なにを考えるわけでもなく、のんびりとした時間を過ごした。


 シュウがめくる本の文章もちらりと読んだが、ユスラに理解できる内容ではない。



「ねえ、シュウとリヒトは、いまはなんのお仕事をしているの?」


「いまか?」


「うん。いまは、そんな大きなお仕事をしていないんでしょう? でもシュウは、前はちがったのよね?」



 あいまいな記憶ではあるが、彼はユスラが十代前半から十六歳を過ぎるまで、館に帰って来ない日が続いたことがある。そのころの彼は仕事着として軍服をまとっていた。


 シュウが装いを改めたのは十七歳になる少し前くらいだ。



「査問会の役員や諮問機関の職員をひと通りやって、陸軍に入ったな」


「ふうん……」



 よく分からないので、曖昧な相槌で流す。



「じゃあ、いまは?」



「慈善事業の監督代行や、劇場の興行主を適当に。たいていどれも文化産業関係になる。──三十年ほど前に各国で同意された知的財産権が、ここにきて時代にそぐわなくなってきたので、どの国も修正しようとしているのだが……、古いやり方に慣れている連中は頷かない。だから現場から少しずつやり方を変えている」



「リヒトも? ──あ、でも、リヒトはどこかの地方の領主さまをやっているのよね」



 そこでふと気づく。



「シュウもじゃないの?」



 シュウ──シュヴァルツ・アーベント=ターゲスアンブルフ卿もまた一端の貴族だ。ひと口に貴族といっても、いまは様々なところに端を発する貴族がいるが、彼は古典貴族なので昔ながらの条件に由来を持つ。つまり領地は持っているはずなのだ。



「一応はな」


「領主さまって、なにをするの?」



「経営だ」短く言い、シュウは詳細を重ねた。「特産品を栽培させて、所有する販路で売りさばき、得た金で生産性を上げるための整備をする。治安を預かるのも領内の治水工事も、設備投資のようなものだ。領民にやる気を出させるために、祭りを催したり、褒美を与えたりもする」



 シュウはここでようやく本を閉じた。



「それら全てが領主の手一つで出来るはずもない。必ず誰かの助けが必要となる。どうせ必要なら、任せればいい。治安の維持は、よほどのことがない限り自警団で済ませられる。自警団は領民から選ばれるから、好意的で、協力的だ。場合によっては効率よく情報収集ができる」



 その他にも、他者に委ねる利点は大きいらしい。



 裁判関係は、地元の長老や名士にある程度の権限を与える。彼らは内々の人間関係や力関係を熟知しているから、双方が納得できる〈落としどころ〉を提案できる。



 治水工事は土木業者に委託する。もちろん事前の意見交換は重要だ。そのために領主のそばには都市開発に長けた者を置く。業者は実入りの少ない時期に仕事を得られる。



 税の集金に関しても、時に複雑な法知識が必要になるから、法務の専門家を立ち会わせるのが望ましい。専門家は頭が固ければ固いほど良い。不正を働く心配が減るからだ。



「領主は任命した責任者を厳しく監督する。こうすることで一人当たりの負担を減らせる」


「そして領主は、必ずしもシュウである必要はない?」


「そういうことだ。領地の二十年後、五十年後を想像し、時には眼前の難事を対処する……。残念だがリヒトは領主には向いていない。あれは目先のことに囚われすぎる」



 思い当たる節があり、ユスラは小さく口の端を持ちあげた。



「じゃあリヒトは……」


「領主とは名ばかりだ。いまのところはカールに領主代行として任せている」



 カールという名前にはユスラにも覚えがあった。



「シュウの従弟さん、よね?」


「ああ、叔父の息子になる。血統からいっても、まちがいなく次のターゲスアンブルフ卿だな。能力も問題ない」



 もしもシュウの血を受け継ぐ子どもがいたら、その子がターゲスアンブルフ卿のくらいを引き継いだのだろう。


 だがシュウは誰とも婚姻を結ばなかった。必要に迫られなかったことと、神女ユスラをかくまっていたこととがあって、屋敷に他人を入れようとしなかったからだ。



 彼が人狼になった後は、さらに女性を遠ざけている。


 そして神女は、子どもを産めない。


 シュウに継嗣けいしがいないのはユスラのせいだ。



「なんにしても」



 と、シュウはユスラに視線を落とした。



「代わりはくように常に手配している。問題はない」



 ──と、言われても。


 ユスラは晴れた顔などできなかった。


 代わりの人材が用意されているということは、彼は常に人狼としての死を覚悟していることの現れだ。


 その覚悟をさせているのは、他ならぬユスラである。



「…………」



 再度、すがりつくように、彼の腕にひたいを当てて、ぐりぐりと押しこんだ。もちろん力ではかなわなかったけれど、そもそも勝ちたいわけではない。


 シュウはユスラを優しく受け止め、また頭を撫でた。

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