025 BA-DONKA-DONK
神女が住む離宮は周囲をぐるりと庭に囲まれていて、回廊や、廊下のガラス扉から、自由に出ることができる。
めっきり冷え込んできた最近は、南向きのテラスが特に具合が良い。利用者が快適に過ごせるように、テーブルやベンチといった心遣いも用意されている。
リヒトはそのテラスで、立ったまま、少し離れた薔薇園に目を光らせていた。
背後の扉が開くが見向きもしない。振り返ったのは声をかけられたからだった。
「あら、グレンツェン卿」
ユスラを圧倒的にしのぐ豊満な胸。見るからに柔らかそうな腰つき。右の目の下にちょんと乗った愛らしいほくろ。
たいそうな美人、というわけではないが、くどくない大人の色香をまとった女性が、やんわりと微笑んでいる。
「
「嬉しいですわ、覚えて下ったのですね。でもその呼び方はあまりにも他人行儀ですから、どうぞクリームヒルトとお呼び下さいまし」
「クリームヒルト様」
「ええ」
甘露の神女とはよく言ったものだ。庭の冬薔薇を上書きしてしまうほど、甘い匂いを強く発している。
ただユスラの匂いとはちがって、どうしようもないほど情動を揺さぶられたりはしない。
香りに鼻腔をくすぐられながら、リヒトは骨の髄までユスラの人狼であることを自覚した。
「お一人かしら? 貴方の可愛い
「あちらです」
リヒトが示したのは、冬薔薇で埋め尽くされた庭の一角だった。ユスラはそこにしゃがみ込んで、ターゲスアンブルフ邸の庭師から学んだ知識で薔薇の世話をしている。もちろん帝宮の離宮にも庭師はついているので、彼女がやっているのはほんのお遊び程度なのだが、軟禁に近い扱いを受けている彼女にとっては重要な気晴らしだった。
「今年の薔薇はいっそう綺麗だと思っておりましたけれど、彼女のおかげだったのですね」甘露の神女がおっとりと笑う。「でも、よろしいんですの?」
「なにがでしょう?」
「彼女から離れてしまって」
「この距離なら問題ありません」
人狼の身体能力は普通の人間を凌駕する。遠くで落ちたコインの音も拾えるし、聞こえすぎる雑音に気が立つこともない。昼でも夜でも視界は良好で、多少距離があってもすぐに駆けつけられる。腕力もついた。ユスラなら三人分くらいは軽々と抱えられるだろう。
人狼は神女が自衛のために生み出すのだと聞いたことがあるが、まさにその通りだと思う。生まれ変わって得た能力は、
「愛されていらっしゃるのね」
「え?」
「ご存知ありませんか? 守護者の力は、神女の愛が深ければ深いほど強いと言われておりますの。グレンツェン卿がそう断言できるのも、貴方の神女様の愛の証でしょう。わたくしも、もう十年若ければ充分なのでしょうけれども。ほほほ」
ここに至ってようやくリヒトは彼女の言う「愛」の意味を悟って赤面した。
しかし言われてみれば確かに、ユスラと濃密な時間をすごした後はすこぶる調子が良い。神女と人狼が実感しているからこそ、そういった所見が流布しているのだろう。
とはいえ──
リヒトはちらり、と、クリームヒルトの背後に目を向けた。
愛情に上限があるかどうか、リヒトには分からないが、クリームヒルトの言う愛──つまりは夜の時間──には限りがある。それをこれだけの人数で配分すれば一人当たりの割り当ては減って当然だ。いまだけでも五人、過日の収穫祭の折には二十人ほどの守護者を見かけた。甘露の神女はもう十年若ければと言ったが、いろいろな意味でもう十分だと思う。
「クリームヒルト様も愛情深いお方だと思いますよ」と、いかにも貴族らしい顔をして返してやろうとしたのだが、人狼の数に引っかけて、もっと大切な用件を思い出し、直前でやめた。
「そういえば、あのときはありがとうございました」
「…? なにか致しましたでしょうか」
「収穫祭のときに、お声をかけていただきました」
「……あら」
もう何か月も前の出来事なので、彼女も思い出すのに時間がかかったようだ。それにあのときの気遣いはあからさまに感謝や謝礼を求めるものではなく、純粋な手助けだった。意識していないものだから、記憶からも外れやすい。思い出すのに少しの時間を要したことは、リヒトに好感を抱かせた。
「大したことはありませんわ。ああいった席でもない限り、新しい神女様にお近づきになれる機会はありませんもの。わたくしたちは閉じられた世界に住まい、静かにあることが求められますから」
リヒトが思わず果実の神女の振る舞いを脳裏に浮かべたところで、クリームヒルトは「けれど」と続ける。
「わたくしの懸念は余分でしたわね。こんなに立派な守護者がいらっしゃるのですから、不測のできごとなど火の粉もかぶることはなかったでしょう。──ノイシュ士爵も、憂慮はあれど、ご嫡男のご成長に目を細められるかと」
「父をご存知なのですか?」
「ええ」
なんともなしに首肯する神女に驚いた。
士爵という地位は貴族の端緒ではあるものの、正式には貴族ではない。微妙な位置づけゆえに、平民からは敬遠されて、貴族からは煙たがられる。ましてや帝宮の奥に住まう神女と接点があるとは思えないのだが──。
「とある小さな夜会でお会い致しましたの。ご挨拶程度にお話をさせていただきましたけれど、誠実なお人柄が印象に残っておりますわ」
記憶にある父を想起しながら、リヒトは〈せいじつ〉という言葉を反芻した。
細部にまで厳しく気を払う父は、女性の、しかも家の外の人間から見たら、たしかに〈誠実〉という言葉を当てはめるだろう。
リヒトが人狼になっても、リヒトが選んだ道ならばと、あえて苦言をつぐんでいた。
やりとりしている手紙には、いつも家族の健康と近況が綴られている。息子が人狼であることを噂されているであろう己の立場は黙したまま、愚痴の一つもない。どんな
もっとも、父の現状を吐露してもらったところで、よほどの理由がない限り手助けなどできないのだが。リヒトはユスラの人狼で、ユスラを第一に置いて物事の順序を立ててしまう。第二には同じ人狼のシュウを、家族はその次だ。
育ててくれた恩義を差しおいて薄情になれるのは、父の存在が大きい。シュウと同じくらい信用できる父に任せておけば、家族は大丈夫という安心感。これがあったからこそ、十四歳のリヒトは長男でありながら家出を決行できた。
けっきょくのところ父に頼り切りの己に気付いて、リヒトは内心、苦笑をこぼした。
「……父は元気でしたか?」
「お会いしたのは一年前でしたが、特に気付いたことはございません。近いうちにまた同じ夜会が催される予定ですから、機会がありましたら、それとなく窺ってみましょう」
言われて気付いた。彼女が父に会ったのは、最近だとは限らなかったのだ。
だが、それはさておき。
神女は閉ざされた離宮で静かに過ごすことが求められているのではないのか? そんなにほいほい夜会に出席してよいのだろうかという疑問が湧いたが、あえて触れず「ありがとうございます」とだけ告げた。
「ただいま、リヒト」
「おかえり、ユスラ」
庭の手入れから戻って来たユスラに動物の毛で作られたコートをまとわせる。短い時間だったが、冬の土に触れたユスラの両手は冷え切っていたので、自分の手で包み込んだ。
「汚れるわ」
「洗えばいいだろ」
ふふ、という甘やかな声が加わる。
「仲がよろしいのですね」
「あ……ご挨拶が遅くなりました。申し訳ありません、甘露の神女さま」
「どうぞクリームヒルトと呼んで下さいな。同じ神女同士、姉妹のようなものですもの」
「ではわたしも。ユスラとお呼びください」
女同士、ほぐれた笑顔を交わし合った。
「ユスラ様のおかげで、今年の冬薔薇はいっそう美しく見えますわ。しばらくはこちらに窺う機会も増えそうです」
「ありがとうございます、ぜひそうしてください。花たちも喜びます」
「ええ。──ではごきげんよう、ユスラ様、グレンツェン卿」
ぞろぞろと守護者たちを引き連れて甘露の巫女は離宮へ戻っていく。
リヒトたちはそれを見送った後で、部屋へ戻るために動き出した。
「……クリームヒルト様と、なにを話していたの?」
「あんまり大したことは……ああ、親父の話を少ししたかな」
「お父様? リヒトの?」
「そう。顔見知りらしいよ」
「ふうん……」
声音があいまいで、どんな意図の相槌なのか分からなかった。
もしかして怒っているのだろうか。勝手に他の神女と話をしたから?
「……怒ってる?」
「なにを?」
「いや──」
そうだよな、怒る理由なんてないよな。
リヒトはいく分か納得して気持ちを軽くする。
しかしどこかで釈然としない感情もあった。ユスラから立ち上る気配がいつもとちがう気がしたが、それを裏付ける決定的な理由も見当たらず、内心、首をひねるのだった。
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