020 泣タト

 クリスタは怒りに任せてティーカップを割った。破片が四方に飛び散って、欠片が男の足元に散らばる。


 彼女の私室で無遠慮に佇立する男は、顔色一つ変えず黙ったままだった。とりすました態度が余計に逆鱗を刺激し、もう二つ三つ、カップを割ってやりたかったが、肝心の茶器がなかった。



「皇子殿下のご意向です」



 男の、抑揚のない平坦な言葉が突き刺さる。


 離宮の管理を──ひいては、神女を監視下に置くアインホルンの顔が脳裏をよぎった。



「よくもそんなことが言えたものね……! 近衛兵の一人をくれてやるから人狼にしろだなんて!!」


「…………」


「あんただって! 私のお守りなんてうんっざりしているくせに! よくもそんなことが言えたものね!!」



 近衛兵ならば、つまり彼らの、クリスタの守護者たちの仲間だろうに。この目の前の男は、皇子の命令だからと、あっさり仲間を売ろうとしている。


 自分たちがはまって抜け出られない底なし沼に、引きずり込もうとしている。


 それが気高き近衛兵のやることだろうか。



 皇子も皇子だ。部下に、よりにもよって人狼になれだなんて、無茶な命令を下すなんて。


 守護者なんて、ていの良い呼び方をしたところで、しょせんは化け物。一度落ちれば二度と這いあがれない。神女の体液なくしては生きられず、人間のなりをしていても、皮を剥げば獰猛な野生を潜ませている。



 あんなものが、また一人増えるなんて……。



 クリスタは力いっぱい奥歯を噛んだ。



 予言の力がなんだ。


 未来が見えるからなんだというのだ。


 果実の神女などと呼ばれていても、クリスタ自身はなにもできやしない。


 最上の幸福とまではいかずとも、人並みに生きられたであろう人間をけものに変化させて、あげく死なせてしまった。残りの四人も、いつ危険な目に遭ってもおかしくはないのだ。



 怖い。


 自分のせいで、不幸になっていく人間が増えていく。


 皇子は、そこにまた一人増やせと要求してきた。


 人狼を増やせと──つまり、



(また、あれを……)



 昨日、今日、会ったばかりの男と肌を合わせろ、と。



「……ッ! ふざけないで……もう、もううんざりよ!!」



 涙目になりながら絶叫し、部屋を飛び出した。


 どこをどう走ったかなど覚えていない。気がつくと庭に出ていた。


 薄曇の空の下、庭の花はすっかり数を減らしている。収穫祭以来、日増しに冬が近づいているのだ。


 胸に送った空気も冷たい。


 足元にまとわりつくドレスの裾もうっとうしい。



「…っ!」



 逃げ疲れたクリスタは、とうとうその場に膝から崩れ落ち、誰にもはばからず慟哭した。



 初めて人狼を得たのは十四のときだった。どんな意味があるのか、どんな行為なのか、まるで知らされず、近衛兵の服を着た男と目合わされた。


 有無を言わせない命令を下したのは、やはり皇子だ。


 神女を守るために人狼は不可欠だと言い、その後も「儀式」を四度、強要された。



 同じ帝宮に住んでいながら、これまでたった数度しか見たことのない皇子の顔を思い浮かべると、にじんでいただけの涙が本格的にあふれ出てくる。


 神女をまるで女と思っていない、酷い男なのに。


 言葉を交わしたことなんて、無いも同然なのに。



(なのに──どうしてこんなに胸が痛いの……)



 ぎりっと心臓を締め付けるような痛みを感じ、クリスタは悲鳴のような嗚咽をもらした。


 どれだけ泣いても涙は枯れない。諦めろと己に言い聞かせても、姿を思い浮かべるだけで好きだと確信する。


 馬鹿だ。本当に。我ながら、嫌になるほどに。


 どんなに酷い男か、文字通り体に叩き込まれているのに、心は初めて彼に出合ったときのまま、時を止めて、いつまでもいつまでも……。



 突然、がさりと音がした。


 はっと顔を上げると、茂みの中に少女が立っていた。知っている顔だ。最近、帝宮に入ったばかりの神女。



 年齢は十五、六といったところだろうか。この歳になるまで帝宮に入らなかったということは、彼女の両親は、彼女が神女であることを必死に隠し続けたのだろう。……私は生まれるとすぐ、捨てられるように帝宮に送られたのに。


 収穫祭の席では、二人の人狼と仲睦まじそうにしていた。クリスタたちの、冷え切ったハリボテのような関係とも、甘露の神女の割り切った関係ともちがう、本物の絆を結んだ人狼たちだ。



 同じ神女なのに、どうしてこんなにちがうのか。


 彼女と私と、なにがちがうのか。


 彼女がいると、どうしても自分と比較してしまう。


 彼女が羨ましい。


 妬ましい。


 この子がここにいるから、こんな惨めな思いをするはめになるのだ。



 クリスタの傷つき、荒れた心は、少女の存在そのものを拒絶した。


 いますぐにでも発狂してしまいそうな心をなだめるためにも、クリスタは全力で彼女を否定しなければならなかった。



「……あなたのせいよ!」



 この体はもう、どうしようもない沼の底から抜け出せない。


 だったらこの子に出て行ってもらうしかない。


 出て行って。ここから、この地獄のような場所から。



「あなたがここにこなければ! 私はこんな惨めになることなんてなかった! ケーファーが死んだのは私のせいじゃない! 私は守ってなんて頼んでない!! なのになんでっ……」



 ──彼は私を守ってくれたんだろう。



「……っ、なんでっ……!!」



 私たちの関係は、あんなにも冷え切っていたのに。



「人狼なんて、欲しくない……!! いらない! あんなことはもうしたくない!! なのにっ……」



 皇子が望むのだ。神女を守るためだと。


 慟哭を発散するたびに、全身から気力を奪われていった。


 少女を見たときはあんなに止まらなかった怒りが悲しみに変わった。


 無関係な彼女に八つ当たりをする──せざるを得ない自分が、どこまでも醜く、意地汚く、愚かだと思った。



 枯れ落ちた葉が降り積もる大地に突っ伏し、ひたすら泣く。少女の足音を消してしまうほどの大音声だいおんじょうで。


 だから彼女が近づいて来たことが分からなかった。


 小さな手で優しく頭をなでられて、語りかけられて、ようやく彼女がすぐそばにいることに気付いた。



「あなたは普通の女の子なのね」



 意味が。


 分からない。


 神女が……普通?


 ──ありえない。あり得なすぎて、笑えた。


 だって、神女は魔女だ。呪いの魔法で人間の男を人狼に変えてしまう。男に体を開いて、手懐てなずけて、挙句に殺してしまうのに。



「……ッ、…………」



 小さな恋心ひとつも捨てられない女が普通なんて、滑稽だった。笑ってやろうとしたのに、出てきたのは涙だった。

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