018 もれつた糸
リヒトの鼻を血の匂いがくすぐった。誰の血だろう。シュウの顔が頭をよぎって不安になる。
「リヒト……」
匂いを嗅ぎつけたわけではないだろうが、腕にすがりつくユスラも強張った顔をしていた。
「大丈夫だよ、そのうち戻って来るから」
言って、周囲に鋭く目を配る。
祭りの本会場である帝宮の前庭は、あいかわらずの喧騒だった。市民たちは料理や酒を腹におさめている。あの騒々しさでは悲鳴など聞こえもしないだろう。
一方、ちゃんと聞こえたはずの貴賓席のお偉方は、何食わぬ顔で酒をあおっていた。
神女を保護する、などと豪語している機関の筆頭でありながら、あの態度。神女の異能を利用しながら、いざとなると知らんぷり。リヒトは気にくわなかった。彼らは信用ならない。「いざというとき」、リヒトが信頼すべきなのはユスラとシュウだけなのだと、改めて思い知る。
その貴賓席から一個の集団がこちらに歩いて来ていた。
誰かと思ったら、リヒトたちとは貴賓席を挟んで反対側の、本来ならば皇帝の妻や愛妾が座る席に座を設けていた神女だ。
「こんにちは」
ユスラとは対照に、全体的にふっくらとした女性だった。垂れ目が印象的で、右の目元にほくろがある。十五歳のリヒトから見たら、子どもの二人や三人はいて、子育てに奮闘しているような年齢に見えたが、まとっている雰囲気は決して「近所のおばちゃん」とは言えなかった。妙に艶めいていて、しっとりとしていた。
「災難でしたわね、あの御方と同席なんて」
「何かが割れたような音が聞こえたのですが、お怪我は?」
「いいえ、大丈夫です」
「そうですか、良うございました。せっかくの可愛いお顔に傷が入りでもしたら大変ですもの。女の子なのだから大切になさらないと。ねえ?」
「え、あ、はあ」
柔らかく笑む目がリヒトに向けられ、戸惑いながらも同意する。
この女性は何が言いたいのだろう。真意が見えない。
「あの方にも困ったものです。あのようにかたくななままでは、誰も近づけません。むかしから、みな、手を焼いておりますのよ」
口元を扇で隠し、彼女はおっとりと困り顔を作った。
茂みをかき分けてシュウが戻ったのはそのときだ。さりげなく羽織ったマントの下の服は破れており、狼化の形跡が見られ、リヒトは緊張を走らせた。
「シュウ!」
ユスラが駆け寄って、彼の腰に巻き付いた。
シュウは彼女の頭をゆっくりと撫でる。
血の匂いが濃い。
年長の守護者はリヒトに視線を投げかけると、険しい目で緊迫した事態を伝えてきた。
「お連れ様も戻られたご様子ですので、わたくしはこれで」
甘露の神女が優雅に挨拶をし、ドレスの端をつまみ持って立ち去った。その後ろに守護者たちが続く。ぞろぞろ……ぞろぞろ……。
「……何人いるんだよ」
半ば呆れつつひとり言をつぶやき、彼女たちを見送る。
シュウも、さりげなくしっかりとユスラの肩を抱きながら、同じ集団を見ていた。
「……助けられたな」
「──?」
なにが、誰に、と尋ねようとして、あ、と声をあげそうになった。もしかして彼女は、ユスラの守りが手薄なことに気付いて、わざと近づいてきたのでは? 雑談をよそおいながら、さりげなく危険を遠ざけてくれていたのではないだろうか。
「あー……」
シュウといい、甘露の神女といい、大人の余裕と配慮というものにすっかり舌を巻き、リヒトはうむむ、とうなった。
「一旦、部屋へ戻るぞ」
シュウの声音はひどく疲れていた。
催事の途中で離れたりしたら失礼にならないかと思ったが、すでに二人退席しているし、貴賓席の連中も不穏な空気には気付いている。いまさら
前庭を離れて、常駐している移動馬車に乗り、離宮まで移動する。
シュウは、私室に到着するなりソファに沈み、長い息を吐いた。
「お茶、淹れるね」
ユスラの提案は魅力的だった。
こういうとき、日常を思い出させるアイテムは重要だ。
待っている間にリヒトは衣装室から新しいシャツをとってきて、シュウに着がえさせた。同性の目から見てもかなり魅力的な体に怪我はなく、リヒトもまた詰めていた息を吐いた。
ユスラのお茶を囲んで、シュウから事のあらましを聞く。侵入者、誘拐未遂、殺人……。さすがに全員の顔つきが険しかったのは言うまでもない。
「その侵入者、本当にユスラをさらおうとした奴と同一人物だったのか?」
「庭に残っていたかすかな残り香から判断したにすぎない。断定するには心許がないな」
主観を取り除いて客観的な事実を並べるのはいかにも彼らしい。
おかげでリヒトにも、どの程度の信憑性か判断がしやすい。
「それって結構な確立で当たり、だよね。目的はユスラ個人じゃなくて神女だったってこと?」
「だろうな。ユスラを狙ったのは警備上の問題だろう。さすがにうちの屋敷も帝宮にはかなわん。……となると……」
「──なると?」
「……いや」
ひときわ低い声を捕まえて、あえて問いただすと、珍しくシュウが言いよどむ姿を見せた。あまり聞かせたくない話題なのだろう。しかしユスラの身の危険に及ぶ話だ。情報は細部まで把握しておきたい。
「……ユスラの誘拐未遂は、ブリッツ卿のしわざだと思っていた」
「ブリッツ? ああ、あのじいさんか。皇子の横にいつもいるやつだろ」
初めて会ったのは、入宮に際し皇子と対面したときだ。いかにも側近といった風情で存在感を放っていたが、出しゃばったりせず、意見を求められて二度三度発言しただけだった。どちらかというと控えめな印象の老人だ。リヒトに言わせれば、医者のディキットのほうがよっぽどよく喋る。
「あの老人はむかしから苦手でな」
「シュウにも苦手なものってあったのね」
「…………」
ユスラのひと声に、シュウはなんとも言えない顔をするが、すぐに気を取り直して説明は続いた。
「政敵とまではいかないが、仲は良くはない。ユスラを誘拐することで
「ちがうの?」
ユスラが首をかしげると、シュウは「ちがう」と断言する。
「彼には財力も人脈もある。間者を帝宮に不法侵入させてまで神女を
シュウはだらけさせていた体を起こし、椅子に座りなおした。
「リヒト、ユスラを浚おうとした誘拐犯は一人だったな?」
「ああ、うん。間違いないよ」
「ブリッツ卿なら、五人でも十人でも名だたる手練を雇えるだろう。そして祭りの日のみならず、いつでも好きな時に間者を帝宮に送り込める」
「帝宮に? そんな簡単にできるのか?」
「権力を持つということは、そういうことだ。ゆえに貴族には矜持と忠誠が求められる」
厳しい意見にリヒトは言葉を呑んだ。
貴族と平民。その狭間に生まれ、育ったリヒト。
境界線上から一見すると、貴族も平民も同じ人間で、なんら変わりない。だから人間の貴賎意識に嫌気を覚え、家を飛び出して平民として生活をしていたのだ。それからユスラに出会い、シュウに召し抱えられて貴族の端くれとなったからこそ分かる。
貴族と平民とでは、求められるものがちがう。
求めるものもちがう。
二者がしばしば衝突するのも当然だ。見ているもの、考え方、立場、すべてが異なっているのだから。
「果実の神女を誘拐しようとした男も一人だった。結論として、ユスラ誘拐事件と、帝宮を騒がせた噂は無関係だ」
「うわさ?」
と、リヒト。
「私が神女をかくまっているという噂があったらしい」
「それ、俺も聞いたことあるよ。帝宮じゃなくて街でだけど……。ターゲスアンブルフ卿って言ったら大貴族だし、やっかみなんだろうなーって思ってた」
実際に神女がいたことと、それがユスラだったこととで二重に驚いたわけだが。
「知らぬは本人ばかり、か」シュウは嘆息をついた。「けっきょく、私も噂に踊らされたというわけだな」
人の口に戸は立てられない。屋敷の使用人なり出入りの商人なりから噂の種がこぼれたのだろう。結果として噂は肯定され、ユスラは帝宮に入ってしまったから、シュウもいまさら犯人探しをするつもりはないようだ。目の前に差し迫った問題もある。
「祭りで警備がゆるくなった帝宮と、シュウの屋敷に忍び込めるやつが、ユスラを狙ってるってことだよね」
「さて。誘拐犯はただ雇われているだけで、背後に主犯がいる可能性もある。ただいずれであっても神女を狙った犯行であることには間違いない。──ユスラ」
「はい」
「おそらく皇子が離宮を中心に警備の増強を提案してくるだろうが、お前もしばらくは身辺に注意しろ。知らない人間は信用するな」
「はい」
子どもに言い聞かせる常套句だが、ユスラは神妙にうなずいた。
「リヒト、お前もだ」
「分かってる」
ひと段落ついいて、ようやくお茶に手を伸ばすことができた。
すっかり冷めてしまったが、喉をうるおすにはちょうどいい。
息苦しさと一緒に気持ちをほぐすと、出てくるのはため息だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます