017 PIA(N)CH

 笑っている人間が見えた。男、女、老人、子ども、貧乏人も貴族もみな、笑っていた。


 人々の中心には祭壇があった。小麦、稲、玉蜀黍を高杯に盛り、十分に醸造された酒樽が積まれた。もぎたての果実、採集された木の実。捌かれたばかりの鹿、羊、雉、兎……。


 いろどりを添える季節の花々。


 奉謝を織り込んだ歌と踊り。


 高らかに声を上げ、さかずきを交わし、神々を讃え、日々の労働をねぎらう。


 篝火かがりびともしびを。


 迫る夕闇のただなかでも迷わぬため。


 獣の勇気に称賛を。


 生き延びる強さを学ぶため。


 風のそよぎを逃してはならぬ。


 実りなき季節を飛び越えるため。


 おとなう夜を恐れず耐え待ち、黎明れいめいに目を細めよ。


 ──それが果実の神女の予言だった。





 帝宮の前庭で行われる収穫祭は、毎年市民にも門扉が開け放たれて、誰でも自由に参加できる。


 さすがに皇帝の席の周囲は警備が厳しく、護衛を兼ねた高位貴族の席で埋められているが、参加者の大半を占める市民は近づけもしない上座など気にせず、大盤振る舞いの料理や酒に群がっていた。



 優雅に歓談を楽しむ貴婦人たち。


 なんとか上位貴族と面識を持ちたい中流貴族たち。


 庭の造詣に見入る芸術家から、資金提供者スポンサーを得たい大学教授まで。



 それらを一望できる位置に座しているのは、皇帝の代理を任された十九歳の若き皇子アインホルン卿。


 それから一段くだった席を埋めるのが、各氏族の氏族大公クラン・エルツェツォーグだ。氏族大公クラン・エルツェツォーグは全員で九人いるのだが、アインホルン卿は皇子として皇帝の席を温めているため八席だけとなっている。



 そして、従来であれば、シュウの席は彼らの一つ下にあった。


 しかし当人の強い希望により、今年は別の場所に身を置いている。最高位の集団を正面に、やや離れた右側の小集団の中。神女たちの席の中だ。



 同席しているのは、もちろんユスラとリヒト。そして果実の神女とその守護者たちが五人。


 芝生の上に惜しげもなく毛の長い絨毯を敷き、クッションを敷き詰め、もたれたり寝そべったりするピクニックスタイルで、侍女たちに運ばせた料理と酒に舌鼓を打っていた。


 キッシュ、タルト、ソテー、プディング……。



「ほらユスラ、こっちも」


「……ねえリヒト、わたしもうおなかいっぱいなのよ? これ以上食べたら、丸々太って来年の収穫祭のメニューになっちゃうわよ?」



「ユスラはもうちょっと太ったほうがちょうど良いって。なあシュウ?」


「その手の話題には黙秘権を行使することにしている」


「ちょっ!? なに逃げてるんだよ!」


「ほらリヒト、わたしのお世話はいいから、こっちも食べて」


「ユスラ……それ、盛りすぎ……」



 途切れないじゃれあいを見守りつつ、シュウは葡萄酒をひと息にあおった。


 帝宮に入って以来、初めての公式行事で気を揉んでいたが、杞憂で済みつつある。リヒトの新しい服は間に合ったし、ユスラは笑顔を絶やさない。それはいい。


 問題は、この場のすさまじい温度差だ。



 かたや、わきあいあいと祭りを楽しみ、かたや、不言ふげん不語ふごの猛吹雪。



 ちらりと盗み見た果実の神女は不機嫌を顔に貼りつけて隠そうともせず、隙間を空けてはべる守護者たちも、一様に表情がない。


 守護者たちの恰好も、シュウの目にはあまった。貴賎を問わない祭事ゆえ、「貴族らしさのある簡素な服装が望ましい」とされる収穫祭に、近衛兵の制服をきっちり着込んでいるさまは実に堅苦しい。まるで、ここにいるのは警護のためだと言外で主張するかのように。



 彼らの真意がどこにあるにしろ、この鉛のような空気は気鬱になりそうだ。


 だから余計にユスラの笑顔がとうとく見えた。



「どうぞ」


「ああ」



 傾けたさかずきに、ユスラがなみなみとワインをそそぐ。



「リヒトも?」


「んー、ちょっとだけ」リヒトの杯は半分だけだ。「ありがと。お礼に桃をあげるよ」


「ありがとう。ねえ、シュウも食べる?」



 答える前に、ユスラの手にかぶりついた。切り分けられた桃を奪うついでに、ぺろりと指先を舐める。ひゃっ、という、くすぐったそうな悲鳴。



「ちょっとシュウ、なにやってんの!? ユスラ、俺も俺も!」


「ええー?」


「ええって! 俺にはないの!? なんで!?」


「だって、リヒトも絶対真似するでしょう?」


「当たり前じゃん」


「だからよ」


「ひどくない!?」


「ないわよ。だいたいシュウにも許した覚えはないのよ? ちゃんと桃を食べてよ」


「食べたぞ」



 果肉を嚥下して、しれっと言ってのけると、むうっと不満げなユスラの顔が見られた。子どもっぽい反応は、もともと幼い顔立ちをもっと年若く見せる。思春期に入ったばかりの、手を焼いていたころの彼女を彷彿とさせられて、シュウは思わず頬の筋肉を緩めていた。



 そのときだった。



 がちゃん! と、激しい物音が響いた。果実の神女が杯を放り投げて、料理を盛った食器にぶつかり、貴重な陶器が割れた音だった。


 立ち上がった神女の顔は怒りでゆがんでいる。もともと気が強そうな顔立ちなので、かなりの迫力があったが、周囲を取り巻く守護者たちは一切動じず、それどころか迷惑そうな心境を如実に表していた。



「もう、うんっざりよ! ここまで付き合ってあげたんだから、感謝しなさいよね!!」



 啖呵を切って、ドレスの裾をひるがえし、足早に去っていく。


 少し離れた主賓席の者らは「またか」と顔をしかめた。


 状況が呑みこめていないリヒトは、ぽかんと呆けている。



「……なにあれ」


「いつものことだ、気にするな」


「それ、むしろ気になるよ? 彼女いつもああなの?」


「毎年な」



 年によって長短はあるが、果実の神女が公式行事に最後まで出席したためしはない。始めこそは、具合が悪いだのと理由をつけて退出していたが、ここ数年は突然怒りだして、勢い飛び出していく型が定まりつつある。



「なんつー、わがま……うぐ」



 リヒトが思わずこぼしかけた本音に、桃の果実でふたをしたのはユスラだった。



「んぐんぐ」


「リヒト、彼女はいやだって言ったのよ。女の子の願い事くらい叶えてくれてもいいでしょう?」


「うぐうぐ」


「正論と力技で丸めこもうとするから割れちゃうのよ。そこの陶器みたいにね。ありのままを愛でればいいのに、ばっかみたい」



 辛辣な言葉はリヒトには向いていなかった。


 かといって、矛先は明示されていないので怒りだすわけにもいかない。


 果実の神女の守護者たちが敵意のこもった眼でこちらを見ていたが、シュウがひと睨みきかせると、ばつが悪そうに引いた。



「ケーファー、行け」



 守護者の一人、年長者の男が同年代ほどの男に声をかけ、神女が走り去った方向を顎で示した。


 シュウやリヒトがそうであるように、守護者は人外の能力で神女を守る務めがある。神女が帝宮に逗留している間、守護者が無条件で帝宮の滞在を許されるのはそのためだ。



 見るからに不仲な彼らにも、最低限の義務感はあるらしく、ケーファーと呼ばれた男は実に嫌そうな顔で神女のあとを追った。



 事件はそれから間を置かずに起きた。


 悲鳴が聞こえた。この場に居てようやく聞こえるほどの、くぐもった女の悲鳴だ。


 リヒトがいきり立ったので、シュウはすかさず彼を制した。



「ユスラを!」



 この場を任せ、先頭を切って走り出す。


 声の余韻をたどって進むほど、人気ひとけのない茂みに向かうので、シュウは内心舌打ちをした。


 ここは帝宮だが、今日は祭りで、警備はゆるくなっている。ゆえに自衛は貴人の義務だ。それを怠って事件や事故に巻き込まれるのは自業自得の極み。たとえ少しの間だけでも、神女から離れた守護者にもいら立ちを覚える。


 とはいえ、いまは責任の追及をしている場合ではない。


 大きな茂みを抜けると、強い血の匂いがした。



「……!」



 シュウが飛び込んだのは、果実の神女が何者かに腕をとられようとしていた、まさにその瞬間だった。男が一人、死体となって転がっている。神女を追って行ったあの守護者だ。



 事態の緊急性を認知したシュウは、一気に闘牙とうきを高めて半狼化した。顎が突き出て犬歯が尖り、腕は太く、鈎爪かぎづめを得て、髪は長くたてがみへと転じた。


 飛躍的に上昇した身体能力で一気に間合いを詰めると、大きな手のひらで男の頭部を鷲掴みしようとし。


 だが手はくうを切った。男が背後へ飛んだのだ。



 あの短い時間の間で、大した判断力と俊敏さだ。


 気持ち半分で感心していると──動いた風の中に男の匂いを嗅ぎつけ、はっとした。


 この匂い……、



「貴様、あのときの男か?」



 帝宮に入る以前、シュウの屋敷の庭でユスラを攫おうとした男。リヒトが「その道の玄人だと思った」と言った誘拐犯。奴が庭に残したわずかな残り香とよく似ている。



 ならば是非もない。ユスラへの無体、体であがなってもらおう。


 にやり、とした笑いは、半狼化の影響でいっそ不気味さを増していた。



 シュウはいま一歩踏み込んで、今度はみぞおちをめがけて拳を握った。逃げようとすることは織り込み済みだ。身体を撃ちぬく勢いでさらに相手に近付く。


 しかし目論見は当たらず、男は逃げた。まるで消えるかのような素早さで戦線を離脱し、茂みに紛れた。


 追おうとして、止める。半狼の足は速いが、もし街中に出られたら──いや、今日に限っては帝宮の前庭をも危険だった。人前に出て集団恐慌でも起こされたら厄介この上ない。神女も人狼も、大衆に許容されているとは言い難いのだから。



 それに、と、シュウは背後を振り返った。


 死んだ守護者の死体が、腰を抜かした果実の神女の目の前で灰となり、宙に散った。

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