016 γνῶθι σεαυτόν(後)

 ドレスの着付け以外はなんでも自分でできるユスラにとって、お茶を淹れる作業は日常だ。いつも通り美味しい。香りも良かった。


 茶葉はもちろんシュウが用意したものだ。こういった、いわゆる「消え物」にお金がかけられることでも、彼の家柄、収入、品位、すべてを示している。



「あの神女さんもさ、けっこう大変だよな。十一年の間に六十六回も倒れたってことだろう? 半日気絶したとして、六十六回なら三十三日分も時間を消費してるから、その分、もったいないっていうか、絶対人生損してる」



「そうね、毎回倒れてしまうのは心配ね。今回は大丈夫だったみたいだけど、倒れた拍子に頭を打ったりしたら大変だもの」



 庭には石が転がっているし、部屋の中にはテーブルの角やガラスの食器があって油断はならない。



「だな」リヒトは腕を組み、器用に椅子を二本足で立たせて天井をあおいだ。「まあ、そのための守護者なんだけど」



 異能を持つがために、神女は常人にあらざる危険に遭遇することがある。彼女らが人狼を生むのは、そういった危険から身を守るための自衛手段だと言われている。


 リヒトは改めて己の立場を肝に銘じるとともに、昨日の出来事を思い返していた。



「……でも昨日、誰かいたっけ?」



 キスをする直前、入念に周囲の気配を探ったが誰もいなかった。


 果実の神女はガラス扉の向こうにいたし、距離もそこそこあった。


 二人が庭に出て彼女を助け、ディケットの元へ送り届けた後も、何者とも遭遇していない。



「誰もいなかったと思う……」



 ユスラも同意する。


 隠れていた可能性もあるが、人狼は無条件で帝宮の滞在が許され、神女のそばにいることができる。隠れる理由はない。


 いぶかる二人の目は、自然と事情を知っていそうなシュウに集まった。


 しかし肝心の男は、ティーカップをつまみ、優美に足を組んだまま固まっている。なにか考え事をしているようだ。



「シュウ?」



 神女の声で我に返った人狼は、「すまない」と一言謝って、お茶を一気に飲み干した。



「用事を思い出した。戻る」


「え、もう?」



 シュウが仕立て屋をともなって離宮に来たのは昼過ぎ。いまはちょうどお茶の時間だが、リヒトの採寸に大幅に時間をとられたため、くつろいでいた時間はさほどなかった。


 しかもここ数日、仕事が立て込んでまともに彼と顔を合わせていなかったので、批難の声はつい強くなる。もう少しゆっくりしていけばいいのに。


 そんなリヒトの心遣いなど、シュウに届くはずもなく。


 彼はカップをソーサーに戻し、足早に部屋を横断した。



「リヒト、あとで執務室に来い」



 いかにも貴族らしい、慣れた命令を一つ残して。



「……なんなんだ」


「お仕事でしょう?」


「まあ、そうだろうけど……」



 シュウとリヒトは、ユスラの守護者という同じ瀬に立つ同志だ。しかし同時に政務に携わる上司と部下でもある。また、年齢的な差もあって、リヒトは彼の命令に大変弱い。逆らえないのだ。



(なんか様子が変だったな……)



 よけいな心配をさせないために、あえて口にしない。代わりにユスラではなく仕事を優先させる彼を大げさになじってやった。



「まったく、せっかくユスラに会えたんだから、もう少しゆっくりすればいいのに」


「仕方がないわ、お仕事なんだし」



 ユスラはユスラで残念だとも思っていないらしい。諦めている、というか、受け入れている風情で、あっけらかんとしている。



「シュウってさ、むかしからああなの?」


「ああ、って?」


「仕事人間なのかってこと」



「そうね、……以前まえはここまでひどくはなかったかしら? 毎日一度は顔を見ていたし──」



 ユスラはそこでくすっと笑い、



「──少なくとも、お茶の途中で放り出されることはなかったわね」



 思わぬ言葉が続いた。



「シュウが仕事熱心になったのは、リヒトが来てからよ」


「俺?」


「たぶんこれまでは、わたしのことが気になって集中できなかったんじゃないかしら。ほとんどお屋敷のことばかりしていたような気がするわ。使用人さんは下働きの子まで自分で面接をしたり、定期的に警備を見直したり、一番大事なところは人に任せたりしなくて」



 ユスラはそこで一口紅茶を飲み、口の中を潤してまた笑った。



「むかしね、お屋敷にいるのが嫌になって、逃げ出そうとしたことがあったの。でも絶対に庭の向こうにはいけなかったし、怪我をしそうになったら必ず警備の人が助けてくれて。いま考えると、ほとんど監視されていたんでしょうね」



 いささかやりすぎている気もするが、十五年も秘密を守り通すためにはそれくらい必要だったのだろう。



「……寂しくなかった?」


「ぜんぜん。だってシュウがいたから」



 満面の笑顔を見れば分かる。彼がどれだけ彼女を慈しんできたのか、愛し、守ってきたのか。


 悔しい反面、なおさらに思う。



「…まったくシュウのやつ、仕事なんか部下おれに押し付ければいいのに」



 気に食わない相手ならともかく、彼は身内には、そういった狡賢ずるがしこい手は使わない。分かっているからこそリヒトはもどかしかった。


 ユスラがまた笑う。もう耐え切れない、と、お腹を抱えて。



「そこ、笑うところ?」



 彼女は目尻の涙をぬぐいながら言った。



「だって、シュウもリヒトも両思いなんだもの」

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