015 γνῶθι σεαυτόν(前)
貴族名簿にターゲスアンブルフ卿と記載される男の名は、シュヴァルツ・アーベントという。
リヒトも当初こそは、彼をシュヴァルツどの、あるいはターゲスアンブルフ卿と呼んでいた。だが堅苦しい物言いには慣れていないし、本人からは嫌味に聞こえると文句を言われるし、長いし、なにより、あるじたるユスラが「シュウ」と呼ぶので、いつの間にかリヒトも「シュウ」と呼ぶようになったのだ。
初めて呼んだときはあからさまに嫌な顔をされたが、もともとユスラが呼んでいた名前でもあったので、馴染むのは早かった。
シュウとは付き合いが長いらしいディケット医師は、「よくあれを愛称で呼べるな」と感心する。シュウが帝宮内で歩く死神、などと揶揄されていることを教えてくれたのは彼だ。
そのシュウが離宮に戻ったのは、二人が果実の神女を助けた翌日のこと。
著しく成長するリヒトのために仕立て屋を伴って、ユスラの私室のドアをノックした。
肩幅、脚や腕の長さ、胴回りに至るまで採寸されながら、仕立て屋の商売用の雑談に適当に応じる。受け答えをするのは主にリヒトの役割だ。シュウはこの手のむだを嫌うし、男性である仕立て屋がユスラに話しかけたらシュウの視線が怖い。仕立て屋はそのあたりを心得ているらしいので、ディケットと同様、むかしからの付き合いがあるのだろう。
最後に布地の色合い、最近の流行などを
室内が身内ばかりになり、気兼ねがなくなったところで、シュウは「本題に入ろう」と切り出した。
「わたし、お茶を淹れるね」
「手伝うよ」
「大丈夫。リヒトも座ってて」
神女に与えられる部屋は広い。まず応接室を兼ねた
シュウとリヒトはコネクティングルームの椅子に座り、同じテーブルを囲んだ。
離宮は人が少なく、聞き耳を立てるような不埒な人間はいないだろうが、用心しておくに越したことはない。こちらの部屋なら居間よりも廊下から離れていて、多少は安心できた。
「果実の神女を助けたそうだな」
ユスラが奏でる茶器の音を背景に、シュウは直球で切りこんできた。
「たまたま居合わせただけだよ。彼女、無事だった?」
「もともと病気や怪我の
こういう素っ気のない物言いの裏には、適切ではない質問への非難も混ぜられている。シュウが宮廷人に敬遠されるのは、なにも黒一色一択の見かけだけではなく、無能者には無能と焼き
リヒトはもうすっかり慣れたが、気の弱い者、反骨心が強い者は、決して彼と慣れ合えないだろう。もちろん、そんな者はこちらから願い下げだと無下にされるのが目に見えるが。
「じゃあ目が覚めたんだ。良かったね、ユスラ」
「ええ」
温めたポットに茶葉を入れ、事前に侍女に運ばせたお湯を注ぐ。砂時計をひっくり返し、待つこと少し。陶磁器の浅いティーカップに、赤みがかった紅茶が注がれた。
「で、やっぱり、あれだったの? ディキットじいさんから予言する神女だって聞いたけど?」
「そういうことだ」
「あんたのことだから、もうどんな内容だったのか知ってるんだろ?」
「……お前は日増しに不躾になっていくな」
「愛想笑いもお世辞も嫌いなあんたに外面を取り繕ってどうするんだよ。他に誰かいるわけでもないし」
シュウは短いため息をついた。
「わきまえているのならば構わん。──予言は、次の収穫祭は成功する、という内容だった」
どんな難題がつきつけられても対応できるよう想像を膨らませていただけに、彼の返事はリヒトに肩透かしを与えた。
「なんだ、意外と普通だな」
「お前は予言をなんだと思っていたのだ」
「他国の間者が住民を巻き添えに橋を壊したり、皇子様が暗殺者に狙われたり?」
「まごうことなく事実だな」
「つまりそういう予言ばっかりじゃないのか」
「むしろ、そういう予言でないものばかりだ」
ユスラがそれぞれにティーカップを呈し、自身も席に着いた。
シュウは続ける。
「果実の神女の異能は六歳の頃から正確に記録がとられている。今回の予言は六十六回目で、そのうち二回が国事に影響を及ぼす重大な予言だった」
「一割以下じゃん」
「的中率が百パーセントであることを考えれば、十一年の間に二度も国を揺るがすような事件が起きたことは遺憾だろうな」
「他人事くさい言い方するなあ」
「国の中枢に直接関わるような仕事はしていない。よって他人事だ」
「よく言うよ」
ターゲスアンブルフ卿といえば、リヒトのような小市民ですら名前を知っている大貴族だ。ユスラが住んでいた町屋敷は、新興貴族や法服貴族とは比べものにならないほど大きい。薔薇で埋め尽くされた広い庭も、古典貴族ならではの代物だ。
リヒトは行儀悪く肘をついてカップを持ち上げた。
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