014 ネ申♀ of ƒru!†

 帝宮の広い敷地の中にはいくつもの建物がある。大宮殿を一つ、旧宮殿を一つ、そのほか、過去の皇帝たちが愛する妻や妾のために、あるいは政治的な必要性に応じて建設された離宮があまた。


 神女の住まいはこの離宮の一つがあてがわれ、共同生活を送っている。大宮殿ほど大きくはないが、侍女室や厨房、応接室などもひと通りそろっているため、離宮の中で生活は完結させることができる。


 そんな帝宮の隅の、さらに片隅に設けられた部屋を辞去し、ユスラとリヒトは並んで自室に向かっていた。


 絶えず人が行きかう宮殿とはちがって、離宮の廊下は人気ひとけがない。おしゃべりも気兼ねなくできた。



「リヒト、また背が高くなった?」


「ん、一吋は伸びたかな」


「やっぱり」



「シュウがまた服を作り直すってさ。いちいち面倒だから大きめに作れって言っているんだけど、そんなみっともない格好させられるか! ……だって」



 シュウのものまねには自信があった。案の定、ユスラはくすくすと楽しそうに笑った。



 リヒトの体は誕生日から成長し続けている。喉仏がしっかりと突き出て声が低くなり、鍛えた分だけ筋肉もついた。身長はすっかりユスラを追い越して、いまは頭半分ちょっとの差だ。青年らしい精悍さに、見え隠れしていた生来の野性味が加わった顔立ちは、角度を変えるごとに色を変えるような調和を保っており、少年期にはとても得られない柔らかな色気を放っていた。


 一部の若年好きの侍女たちの視線を惹いていることは、もちろん本人は気付いていない。



「まだ伸びるのかしら」


「たぶんね。ユスラはいやなのか?」


「あんまり。だってキスがし辛いでしょう?」


「俺はもっと大きくなって、シュウのつむじを見下ろしたいんだけどなあ……」



 大きな野望を告白すると、少女はまたくすくすと笑った。


 その笑顔にリヒトもつられ、そっと笑みまぐ。



「キスなら俺がひざまずけばいいだろう?」



 ユスラの隣から正面に先回りし、さっとかしづいた。マントさばきも最近は恰好がつくようになり、リヒトの思い通りに動く。


 片膝を立て、ユスラの指先をさっと奪うと、第一関節に唇を優しく押し当て、上目遣いで彼女を見た。


 ユスラの、光の加減だけではない頬の赤さに満足する。



「近衛兵みたいでいいな、これ」


「リヒトったら。誰かが聞いていたら──」


「誰もいないから大丈夫だよ」



 人狼になって変わったのは体つきだけではない。聴覚や視覚も鋭敏になって、瞬発力も上がった。近距離であれば人の気配も分かる。


 いまこの廊下にいるのはユスラとリヒトだけだ。



「だから……」



 指先を引き寄せて、いま一歩、近付いてもらう。もう片方の手を頬骨に沿わせて誘った。


 触れ合った唇はすぐに奥を求めた。ついばむように促すと、扉が薄く開いたので、すかさず入りこんで堪能した。上顎を舐めるとユスラの肩がぴくり、と震える。



「ぅん、……ふ」



 ユスラの甘い香りとかすかな声にあおられて、リヒトは腰を浮かせた。逃げられないよう、指先をぎゅっとつかみ、頬骨に触れていた手を首の後ろへ回す。


 不審な物音を聞きつけたのは、もう一度、奥へ進もうとしたときだった。



 空耳とも思えず、音のしたほうへ目を向けたが、特に変わった様子は見られない。庭と廊下とをへだてるガラス扉が延々と続くのみ。



 本宮殿から遠く離れた離宮とはいえ、庭はきちんと庭師の手が入っており、人が隠れられるような茂みもないのだが──。



「リヒト? どう……あっ」



 どうしたの、という問いかけが、すぐに驚きへと転じた。なにかを見つけたらしく、ユスラは体をひるがえしてガラス扉から庭へ出ていく。


 あわてて追いかけたリヒトも遅れて気付いた。さっきは柱の陰になって分からなかったが、庭に人が倒れていたのだ。ドレスを着た若い女性だ。



 年齢はユスラと変わらないだろう。くっきりとした目鼻立ち、負けん気が強そうな美人。この年頃の女性にしては髪が短いのは本人の趣味なのだろうか。助け起こしてなんの反応も示さない様子がなかったら、単に寝ているだけかと錯覚するくらい、穏やかな表情で倒れていた。



 軽く、ぺしぺしと頬を叩いてみるが、やはり無反応だ。


 不安になって、鼻に手をかざす。──呼吸はある。


 喉に触れると、規則的に脈打つ血管も確認できた。


 持病かなにかだろうか。それにしてはやけに状態が落ち着いているが……。



 ユスラを見ると、彼女も不安そうな顔をしていた。容体を心配している以上にやはり彼女も不審に思っているらしい。



「とにかく、どこかに運ぼう」


「そうね。ディケット様のお部屋はどうかしら」



 リヒトの権限では、離宮の部屋を好き勝手に使うことはできない。お仕着せを着ていない以上、この娘もどこかに部屋を持っているのだろうが、こんな状態では聞きだせない。結果、ユスラの部屋に運ぼうと考えていたリヒトは、あるじの提案を受けてその手があったかと感心した。


 先ほどまで熱心にユスラの神紋を検分していたディケットは、つい最近(ターゲスアンブルフ卿の強硬な人事異動により)離宮付きに任じられた医者なのだ。この場合、彼ほどの適任者はいないだろう。



 リヒトはすぐに彼女を抱え、ユスラとともに来た道を戻った。


 ディケットは二人の再来に驚き、しかしすぐにやるべき仕事をこなした。リヒトに女性を寝台に移すよう命じ、懐中時計をもちいてきちんと脈をとり、眼球の動きを確認する。


 それらがひと通り終わって、彼は二人に安心するよう告げた。



「特におかしなところはない」


「そうですか、良かった……」



 ようやく人心地つけたとばかりにユスラが息を吐き出す。心なしか青褪めていた顔色も血色を取り戻して、リヒトもまたほっとした。


 ではなぜ彼女は庭などで倒れていたのか──などとは、二人とも尋ねたりはしなかった。



 帝宮侍女の仕着せではないドレス。


 常識に抵触する髪の短さ。


 神女が住まう離宮の女性……。



「この方が果実の……?」


「そうじゃ」



 ユスラの問いに答える医師の重々しい肯定は、それ以上踏みこむことを許していない。



「さあ、患者の体に障る。他に用がないなら出て行かんか」



 二人を追い出す老医師の言動には白々しさがあったが、二人はあえて何も言わなかった。


 促されるまま退出し、ぱたんと扉が固く閉じられ、どちらからともなく目を合わせる。


 神女と人狼、出会ってまだ一年にも満たないが、目に見えぬ絆で結ばれた主従はお互いの考えていることなどすぐに察知できた。



 彼女はいま、どんな夢を見ているのだろう。



 内容によってはひと波乱あるかもしれない……。帝宮の奥深く、シュウの根回しによって穏やかな日々が続いていたが、議会の動き次第によっては──あの男に限ってありえないとは思うものの──身動きがとれなくなり、リヒト一人でユスラを守らなくてはならなくなることだってあり得る。


 どれも単なる妄想だ。


 しかし不測の事態に備えるには、あらゆる可能性を想像しなければならない。



 教えられた通りに、全方向の見通しを模索していると、ユスラの視線が動いたことに気付き、いったん考察を止めた。



「なに? どうしたの?」



 彼女の目はリヒトの腕に注がれている。顔は、口をとがらせて、なにやら不満げだ。


 機嫌を損ねるようなことは、した覚えは…………一つだけあった。



「もしかして妬いてくれてる?」



 顔を覗きこむと、ユスラは気まずそうに視線をそらす。


 いじけた顔は最高の破壊力をってリヒトを攻め、同時にどうしようもない愛おしさを掻き立たせた。



「しょうがないなあ」



 などと言いながら、表情がゆるむのはご愛敬。


 リヒトはひょい、と、ユスラを横抱きにした。



「リヒト!?」


「ユスラは軽すぎだよ。もっといっぱい食べたほうがいい」


「…ッ、どうせわたしは、あの人みたいに大きくないし……」



 ごにょごにょと言われても、人狼の耳にはきちんと届いてしまう。ついでに、なにが大きいのか、言われずとも勘付いてしまって、ついつい目をそちらに向けてしまった。


 果たしてそんなこと、あっただろうか? ……言われてみれば確かに質量はあった気がする。あのときはそれどころじゃなくて気にも留めなかったが。



「ユスラのほうが可愛いよ」



 ぺちん、と頬を叩かれた。なぜだ。

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