013 [♀♀|♀←新 凸]
室内には消毒液のにおいが満ち、
その芯部、中央では、ひとりの老人が、古い文献を片手にうんうんとうなっていた。
「うーむ……こちらの文様は飾り輪かの……。蛇にも似ておる……花は薔薇……? む、ここは通常とはちがって白抜きじゃな。やはり新世紀紋鑑ではなく創世記紋帳を調べるべきかのぉ。しかしそれにしては──」
穴があきそうなほどに老翁が観察しているのはユスラの背中だ。拡大鏡まで持ち出して、肌の
ユスラは椅子に深く腰掛け、ドレスを上半分だけ脱いで、はだけた前面を絹の布で覆い隠している。年老いた医師が相手であっても、年頃の娘に許される姿ではない。だというのに彼女は健気にも、じっと耐え続けていた。
よって、同席を許されただけのリヒトが出しゃばるわけにもいかなかった。臨界点を突破しそうな怒髪天をなだめ、こらえ続けた。
しかし事件は起きてしまう。
「……くしょんっ」
「おい、じいさん」
リヒトはがしっと老人の肩をつかんだ。
「いったいいつまでかかるんだ。かれこれ、これでもう五回目だぞ」
「オヌシは短気じゃのぉ」
地獄の底から這い出てきた悪鬼のような面相に動じることもなく、老医師は鼻で笑った。あしらいに慣れているのも当然、このやりとりも神紋の検分と同じく五度目だ。
「仕方があるまい。お嬢の神紋の出所がわからんのじゃからな。紋章省からも矢の催促じゃ。──とはいえ、あまたおる神々の紋章すべてを把握しておるわけでもない。神女が現れるたびに記録をしたためても、こうやって不明なものも出てくる。せめてお嬢の神紋を書き付けられれば、持ち帰って検分できるんじゃがのぉ」
「ユスラの背中を! そのへんの画家なんかに見せられるか! てか、そんなことしてみろ! 俺もあんたもシュウに八つ裂きにされるからな!」
「わーっておるわ、わしとて命は惜しい、ターゲスアンブルフ卿を敵にまわすつもりはない」
きっぱりと断言するも、医師は困り顔で顎をなでる。
「となれば、不便を我慢するしかあるまい。嬢ちゃんにも無理を強いるが、堪忍じゃの」
「ええ、わたしは大丈夫ですから」
肩越しに微笑む娘に対し感動する。なんて健気な。
一方、無体を強いるばかりの翁は、今度はじーっとユスラの顔を穴があかんばかりに見ていた。なにかを企んでいる顔だ。
「嬢ちゃんからターゲスアンブルフ卿に頼んでみるというのはどうかのぉ」
「おい」
あきらめの悪いじいさんだ。
リヒトは呆れた。とりあえずユスラをまじまじと見るのをやめろ。
「ごめんなさい、わたしがお願いしても、シュウはきっとうなずいてくれないと思うの」
「だな。皇子が神紋の調査を命令したときだって、あの世から死神が首をとりにきたような顔していたからな。条件付きとはいえ、よく許可したと思う」
「殿下をつけんか、殿下を」
誰が聞いているともしれんぞ、と医師がたしなめても、リヒトは悪びれもしなかった。
帝王の嫡男だかなんだか知らないが、ユスラへのあの態度は許せない。明らかに蔑視していた。
だからシュウが提案を握りつぶさんばかりの勢いで激怒したときは、ざまあ、と思ったものだ。
結局、必要な措置だからと折れたのはシュウのほうで、ユスラはこうやって翁に肌をさらすことになってしまったのだが、あの後の皇子の様子を見る限り、今後、下手な追加要求はしてこないだろう。
「しかたがあるまい、書き付けは諦めるとしよう」
医師は会話を締めくくり、ぱん、と両膝を打って終了の合図とした。
ユスラは会釈をして向こうに移り、着替えを始める。貴婦人の衣装は基本的に一人で脱ぎ着できるように設計されていない。リヒトはユスラの手伝いに回った。
「ところで異能のほうはどうなっとる?」
「変化はないよ。まったくなにも異常なし」
「うむむ……」
リヒトが答えると、老人は悩ましそうにうなった。ぼりぼりと頭を掻く音が聞こえる。
ユスラが神女であることはすでに証明されている。神紋もあるし、リヒトも人狼に変化した。ターゲスアンブルフ卿、つまりシュウが人狼であることは本人があっさりと告白して、すでに帝宮中に広まっている。
ただ異能についてはまだなにも分かっていない。シュウがユスラを
人狼の延命のために定期的に体液を与える必要があるが、それ以外は一般の子女となんら変わり映えしない──いや、シュウの根回しによって、一般よりもはるかに静かで穏やかで不自由のない生活を送っている。
「別にこのままでいいんじゃないのか? 異能が絶対に必要というわけでもないだろう?」
異能を持たずとも生活に差し障りはない。異能のためにユスラが神女と呼ばれ、帝宮に閉じ込められることを考えれば、むしろ不要ではないか──そう思ったのだが、翁やシュウをはじめとする貴族連中の考えはちがうらしい。
「まあ確かに障りはないかもしれんがのぉ、神女が保護対象になっておるのは、その異能が国や帝室のためになっておったからよって、逆に言えば異能のない神女に用はないんじゃ」
「願ったり叶ったりだよ。国の保護なんていらない、俺とシュウがいれば十分だ」
「そう易くはいかん。神女の全部が全部、帝宮に滞在するわけではないが、出て行った者らはなにかしらのお墨付きをもらうもんじゃ。実害がないとか、役に立たないとか」
「えげつないなあ」
「ともかく前例がない。嬢ちゃんに本当に異能がないのか、徹底的に調べ上げて、お
うわあ、面倒くさそう。というのが、リヒトの率直な感想だった。いっそのこと歯牙にもかからないような、どうでもよい異能が見つかったほうが早く出て行けるのではないだろうか──楽なほうに逃げることを考えていると、ユスラと目が合い、にっこりと微笑まれる。
だめだ、ユスラが望んでいないのに、自分がこんなことを考える資格はない。
一瞬でも彼女に負荷を負わせようとしたことがシュウに知れたら殺されるだろうなー、などとのんきに考えつつ、リヒトはユスラの手伝いを終えた。
帝宮侍女の手によって髪を結わえ上げるようになったユスラは、磨かれた美しさを燐光のようににじませる娘へと変じていた。
シュウが選んだ布地に一流の仕立て人が作り上げたドレス。流行を知る帝宮の侍女たち。悔しいが、リヒトにはとうてい真似できない。
「異能、か……」
部屋中の衝立を手際よく片付けながらひとりごちる。
シュウや皇子いわく、異能は明らかに「異」なものだと分かるらしいが──。
「異能って、そんなにすぐ異能だって分かるものなのかな。もしかしたら、実はもうとっくに発揮されてて、俺たちが気付いていないだけ、とか」
「さて、どうであろうの。なにせ個人差がある。おまけに嬢ちゃんは異例尽くし。ありえるかもしれんが……」
「逆に聞くけど、普通はどうなんだ? すぐに分かるものなのか」
「少なくとも、いま帝宮におる二人の神女はすぐに分かったのぉ」
翁は目を細めた。当時の出来事を思い起こしているのだろう。
現在、帝宮には二人の神女が身を置いている。二人とも平民の生まれで、幼い頃に親元を離れ帝宮に入った。
果実の神女は未来を語る異能を持っており、一度発せられた予言は必ず適えられる。帝王の嫡男で皇子のアインホルン卿の命を救ったこともあるため、予知に対する帝宮の信頼は大きい。予言の内容によっては国軍や近衛兵、議会までもが動くこともある。
異能が発覚したのは六歳のとき、部屋で倒れていたところを侍女に発見され、目覚めた彼女は気絶していた間に見たという夢を語った。異国からの来訪者が国の外れに設けられた大橋を爆発させた、という内容だった。
六歳の子どもの弁なので言葉がつたなく、聞き取った侍女の理解が及ばない部分もあったらしいが、ともあれ、侍女はそんな不吉な夢は人に話してはいけないと諭した。予言が成就したのは三日後、巻き込まれて亡くなった帝民は十八人。事件を知った侍女は青ざめてすぐに侍女頭に報告をしたそうだ。のちに神女の言質から犯人の特徴が割り出され、捕縛されている。もちろん彼らが国を出ることはなかった。
お付き侍女の話によると、果実の神女は事件以前から高熱を出して倒れたりといったことが頻繁にあり、ときどき夢を見たと言っていた、という。つまり異能の兆候はあったのだ。ただどれも他愛のない、ささいな事件ばかりだったので注目されなかった。能力次第ではこういうことも珍しくはない。
もう一人の神女、甘露の神女は、果実の神女よりも露見は早かった。年齢は三歳、転んでひざをすりむいた小間使いの傷を触れただけで完治させたのだ。癒しの神女とも呼ばれる彼女は現在、帝室の命令によって能力の発現をいちじるしく制限されている。貴族の中には、神女の異能は広く公平に分配されるべし、という考えを持つ者もいて、この一方的な命令は一部の反感を買っているらしい。
「ということは、甘露の神女はいつでも異能が使えて、果実の神女は自由に使えないわけか」
ひとりごちたリヒトに、老医師はうむ、と重くうなずいた。
「能力の性質の差じゃな。しかしいずれであっても、異能は三歳……場合によってはもっと幼き頃より確認される。異能は神紋を背負う神女生来の性質というわけじゃ」
リヒトはユスラを盗み見た。
表向きは二年とされているが、シュウは実際には十五年、ユスラを見守り続けてきた。その間、能力の発現はなかったという。
物心がつくかつかないか、場合によっては赤ん坊の頃から帝宮に入り、三歳には異能を現出させるのが神女の常識なら、ユスラはたしかに異端かもしれない。
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