005 虎 < 竜
時が廻れば陽はまた昇る。
カーテンの隙間から差し込む光で、室内は夜よりも明るくなり、全体が見渡せた。
大人が三人は寝ころべる大きなベッドに、ふくらみが二つ。
規則正しい上下運動を繰り返す上掛けの隣で、シュウは一糸まとわぬ上肢を起こし、物思いにふけっていた。
考えるべきことは多い。ユスラを攫おうとした男の目的、ユスラに陥落した少年の処遇、今後の屋敷の警備網の敷設、どれも重要だ。事と次第によっては、事態が大きく変化し得る。
なるべくユスラに負担はかけたくないが、潮時でもあった。そも、いつまでも隠し通せる問題ではない。下手に露見すればシュウの身も危うい。ユスラを庇護する人間がいなくなれば苦労するのはユスラ自身だ。
どうすれば穏便に済ませられるか……答えを決めかねていると、扉の向こうに人の気配を感じ、思考を止めた。
そっとベッドから降りて、ずれた上掛けを戻す。ユスラの白い肩が隠れたのを確認すると、放ったままだったガウンを回収し身にまとった。腰紐をしっかりと締め、扉を薄く開く。
物音ひとつ立たない廊下に、執事のアントンが立っていた。
「様子は?」
「少し変化が」
口頭で詳細を伝えないことから察するに、
シュウはわずかに思案し、「すぐに行く」と言って扉を閉めた。
身支度の早さは軍隊で仕込まれた。
すぐに屋敷のあるじとして完璧に衣服を整えると、颯爽と部屋をあとにした。
アントンの案内で屋敷の奥まった場所に足を向ける。
普段は物置とされているそこに、鍵を開けて入り──驚いた。
昨日まではユスラと大して変わらぬ背丈であった少年が、ひと晩のちょっと背を伸ばしていた。着ていた服は丈が足りず、肩の部分はいまにもやぶれてしまいそうだ。髪も伸びている。殴られ腫れた顔は成長の分だけ男らしくなっていた。とはいえ、まだ「青年」と呼ぶには物足りない。
「あんたっ……」
シュウが室内に入るなり、少年は飛びかからんばかりの勢いで立ち上がった。
「いったい俺になにをしたんだ!! ちゃんと説明しろよ!」
「身に覚えはないが」
「じゃあこれは!? どうしてたった一日でこんなに背が伸びるんだ!」
「成長期だからではないのか?」
「ふざ、げ、ほッ……」
咳き込む少年を見下ろし、シュウはふむと顎を撫でる。
どうやら声質の変化も始まりつつあるようだ。
少年から青年への過渡期の加速が起きていることはまちがいない。原因も分かっている。
「なんなんだよ、これ……」
疲れた調子でひとりごちる少年を見下ろし、シュウは呆れた。本人に自覚はないが、自業自得だ。
「お前がユスラに手を出すからだ」
「は……?」
秘密を秘密のままにしておくには、秘密を知る人間を極力少なくすればいい。
だが不可能な場合もある。明確な理由を提示しなければ納得しない人間が知ったときがその一例だ。たとえばいまのように。
「いろいろ言いたいことはあるだろうが、まずはこちら側にも事情があることを察しろ。いちどきに説明できるものでもない」
わざと突き放した言い方をしたのだが、意外にも少年は口をつぐんで大人しくなった。
ユスラの言葉が思い出される。彼女は少年に教養が備わっていると言っていたが、あながちばかにしたものでもないのかもしれない。
先ほどのヒントで彼が真実に勘付いた可能性もあったが、いまはまだ確かめる時ではなく、あえて無視した。
「お前に委細を説明するためには、こちらの身辺を整理する必要もある。……昨日、ユスラが攫われそうになった、と言ったな」
「ああ、顔を巧妙に隠したやつだった。手慣れてた感じがあったし、その道のプロってやつだと思った」
「屋敷の警備はそこまで甘くはなかったつもりだが……。ちなみにお前はどうやって侵入した?」
「柵を飛び越えたんだよ」
「どうやって」
「だから飛び越えたんだって」
「……道具もなしにか? 一呎はあるぞ?」
「身が軽いことが自慢なんだ」
どこか得意げに言う少年を睥睨し、シュウは腕を組んでしばし黙考した。
生来の身体能力の高さと断定するには、一呎は高すぎる。
(素質があった、ということか……? だったら血の一滴でここまでの反応するのもうなずけるが)
「…………なんだよ」
「いや」
かぶりを振り、ひとまずその問題は脇に置いた。
「昨日の侵入者についてはひとつ心当たりがある。始末したいところだが、証拠がない」
「俺が証言しようか?」
「そう簡単に尻尾を出すような相手でもないのでな、まずは出方を待った方がいいだろう。ユスラの誘拐に失敗したいま、近いうちになにかしらの動きがあるはずだ。早ければ今日にでも」
「捕まえるのか?」
「性急に進めると、ユスラに精神的な負担をかける恐れがある。それは避けたい」
本音をもらすと、少年の顔がにんまりとしたものに変わった。
「……なんだ」
「いや、あんたもユスラが可愛いんだなと思って」
「それについては異論はないが、いまさら確認されるようなことでもないな」
でなければ十五年もかくまい続けたりしなかっただろう。
途中で放り出すこともできた。しかし実行しなかった。
十五年は長い。足元もおぼつかない子どもが、
「……分かった。あんたの言う通りにするよ」
神妙な態度を見せられて、シュウはいぶかんだ。
彼が知る人間は、大人しそうに見えても腹の内側もそうであるとは限らない人種ばかりだ。素直に応じれば手のひらを返される。
ユスラが関わっているだけに油断はならない。
「どういうつもりだ?」
「ユスラのためだろ」
言い切ったその目はまっすぐだった。迷いがなさ過ぎて射抜かれると勘ちがいしてしまうほどに。濁りのない瞳は、昨日、殴られた相手に対して向けるものではない。
(これか……)
少年の気概を受け取り、なぜユスラがあれほどかばっていたのか、理屈ではなく肌で感じ取った。
「おかしな奴だな。会ったばかりの私を信用するのか?」
「あんたのことは少し調べたよ。この辺の大きなお屋敷って言ったら、みんなあんたのことを知ってた。──ターゲスアンブルフ卿どの」
「名前が信頼に匹敵するとは限らない」
「でもユスラはあんたを信頼しているみたいだった。で、俺はユスラを信じている。だったらあんたを信じているも同然だろう?」
「子供だましの三段論法だ」
「それでもいいよ。俺は俺の直感も信じているしね」
かたくなに繰り返す少年に、諦めとも呆れともつかない感情がこみ上げてきた。
ユスラが気を許した原因がこれにあるとすれば、無防備にもほどがある。
しかしどこか気の抜けない空気をまとう少年に、ユスラのため、という共通認識を通じて信用しそうになっている自分も自覚する。
いまいち踏み切れないのは、少年の素性が明らかではないためだろうか。
「そういえば、自己紹介がまだだったよね」
変声期特有の咳をひとつ落とし、少年は握手のため手を差し出した。
「俺はリヒト・ノイシュ。ノイシュ士爵の長男坊だよ」
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