004 д娘 in I2Ø$3庭(後)

「シュウ! ねえシュウ、待って!!」



 屋敷に入ってからというもの、繰り返した訴えが聞き入れられたのは、男が仕事のために利用している部屋に入ってからだった。


 扉に鍵をかけて、男がゆっくりとこちらを振り向く。


 もともと怖い顔が、いまは一段と怒りに満ちている。



 だがここで怖気づくわけにはいかない。リヒトだって、怖い思いを封じてユスラを守ってくれたのだから。



「リヒトはちがうの! さっき変な人が来て、さらわれそうになって、リヒトは守ってくれただけなのよ!」


「その変な人とやらの姿は見えなかったが?」


「リヒトを見て逃げたわ。顔は見えなかった。男の人みたいだったけど、はっきりとは分からない。腰に短めの剣を持っていて、リヒトを殺そうとしたの!」


「なぜ殺さなかった?」


「それは……」



 どう伝えられるだろうか、あのときの少年の気迫を。なにもかもを退けんと発する闘牙を。


 シュウは盛大なため息をついた。



「侵入者が二人、一人は逃亡、一人はお前に無体を働いた」


「それはっ……!!」



 かあっと耳が熱くなった。


 それについては弁明のしようもない。



「二人が共犯の可能性もある」


「だからリヒトはちがうわ! あの子は庭に迷い込んできた子で! ここ最近、ずっと遊びに来てくれていて……!!」


「私の許可が下りていない時点で、不法侵入だろう」


「そう、だけどっ……」



「情が移ったか? それともお前がたらしこんだのか」


「シュウ!!」



 なんて言い草だ。


 顎にかけられた手に力がこもる。痛い。だがにじむ涙は痛みのせいではない。



「この分からず屋!!」


「結構。外部からの侵入者を容認するような小娘を守るこちらの身にもなってもらいたいものだな」


「──!」


「お前のせいで屋敷の警備の者が咎められる。それについての弁解は? 責任はとれるのか?」



 正論から責められてはなにも言えない。


 大きな邸宅を管理する責任を負い、まっとうする彼に、居候にすぎない彼女には反論の余地もない。


 それでも言わなくてはならない言葉がある。



「ごめ──」


「ごめんなさいで」



 どん、



「済むと思っているのか?」


「……っ」



 背後には壁。右と左を彼の腕に遮られ、ユスラにできることといえば睨むことだけだった。





 洗いざらい、すべてを告白させられた。


 リヒトとの出会い、このひと月に交わした会話、覚えている限りすべてを。



 シュウは執務用の椅子にゆったりと腰かけ、とんとん、と一本調子で机を小突いている。


 ユスラは机を挟んで真正面に立たされ、まるで判決を言い渡されている気分だった。



「リヒト、という名前は本名か?」


「たぶん……」


「苗字は?」


「聞いていない」



 もう逆らう元気もない。



「棲み家はこの近所か?」


「街の様子に詳しかったから、たぶん……? カール通りから二つ目を曲がったパン屋さんが美味しいとか、かなり細かいことも知ってたし」



 また机が鳴る。


 その音を数えているうちに、ふと思い出した。



「そういえば、計算ができたわ」



 シュウの眉が興味深そうに動いた。



「わたしが三歳くらいから十五年ここにいるって言ったら、すぐに、じゃあ十八歳なのかって。自分とは四歳しかちがわないって……。そのくらいの簡単な計算ならだれでもできるとは思うんだけど、なんていうか……迷いがなかった」



 あのときの様子をなるべく丁寧に説明する。


 リヒトから受けた印象、悪い人間ではないという直感を、シュウにも分かち合って欲しかった。



「教養がある、と?」


「言葉は乱暴だけど、ちょっとしたことにすごく気遣いがあるっていうか、そんな印象もあったかな。すごいな、よく見てるなって思うことも何度かあったもの」



 具体的な出来事エピソードを思い出せないのがもどかしい。


 だけど日々のささやかな出来事はそんなものだ。あいまいな心証だけが残る。



「あ、それと、たしかもうすぐ誕生日のはずよ。最初に会った時に、ひと月後が誕生日だって言ってたから」



 シュウは剣呑とした顔のまま、なにかを深く考え込んだ。


 こんな時は邪魔をしてはいけない。なるべく少年の良い方向へ事態が転がってくれることを祈りつつ、ユスラは静かに男の反応を待った。



「……いいだろう。彼の身柄については、ひとまず保留とする。分かったな?」



 有無を言わせない口調だった。ユスラはただうなずくしかない。


 だが彼は嘘はつかないし、誠実な面もある。保留と言えば保留で、なにかしら行動を起こすのであれば必ず一言報告があるだろう。



「……はい」



 素直に首肯すると、シュウは再び息を吐き出した。


 張りつめていた緊張がわずかにほころびる。堅苦しい話はここまで、ということだろう。


 椅子から立ち上がった彼は机を回りこんでユスラに手を伸ばした。右手を髪に差し入れてさらりとき、左手で傷がついた指を持ち上げる。



「痛むか?」


「ううん、大丈夫。……あなたもリヒトも心配しすぎよ」



 リヒトの名前に指先がぴくりと反応する。きっと同列に扱われたことが気にくわないのだろう。


 しかしそれについては言及せず、むしろ積極的に無視する方向で話は進んだ。



「血は?」


「……少し」


「あの小僧は?」


「………………少し」


「…………」



 視線が痛い。



「迂闊すぎだ」


「ごめんなさい……」



 今度の謝罪は受け入れてくれるらしい。その証拠に説教はなかった。



「わずかであれば症状も軽く済むだろうが──」



 ひとり言のように呟いたシュウの目は、じいっとユスラの唇に固定される。


 行動の意味をすぐに察して、これまた小さくならざるを得ない。



「……ごめんなさい」



 今度のため息は軽かった。呆れすぎて言葉も出ないとはこのことなのだろう。



「あまり他の男にくれてやるな」



 そう言って、シュウは身をかがめて唇を重ねてきた。


 両手で頬をはさみ、逃げ場をふさぐのはいつものこと。優しいくせに強引で、小舟に乗っているような心地よさ。道なき海路でも彼が行く先を示してくれるなら安心してすべてを任せられる。



「ん、ぅ、」



 噛まれ、撫でられ、攻められ、逃げられ。


 せわしない動きに翻弄され、ユスラの理性は砂糖のように溶けていった。

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