003 д娘 in I2Ø$3庭(中)

 リヒトは毎日ユスラに会いに行った。


 彼女が薔薇を摘み終えるまでの少しの時間に、様々な話をする。話題はお互いのことであったり、街のうわさ話であったりと、たわいもないことだ。ただどんな話題であっても、決定的な「なにか」を見せ合うようなことはなく、表面上の穏やかな部分だけをすくいとったような当たり障りのないものだった。



 いま一歩、踏みこめないもどかしさは、ユスラをよりミステリアスに仕立て上げる効果を発揮した。いらいらするようなじれったさも、恋の前にはちょっとしたスパイスだ。


 彼女のしぐさ、視線、唇の曲線、目元の柔らかさ、すべてがリヒトを有頂天にしたり、どん底に叩き落したりした。



 ユスラはほとんど毎日、薔薇を摘むために庭にいた。


 雨の日も風の日も薔薇は咲き、ユスラがいる。ただ数日に一度ほどの間隔でいないときもある。


 理由を聞くと、「寝坊したのよ」というそっけない言葉が返ってくる。


 そのうち、寝坊したと分かっていながら理由を聞くようになった。どんなにつれない態度でも、声を聞くだけで歓喜するようになっていた。





 リヒトの誕生日を近くに控えたある日、いつものように柵を飛び越えるとユスラの声が聞こえた。



「いや! 離して!!」



 息を呑んですぐに走り出す。


 生け垣を越えるといつものようにユスラがいて、見知らぬ男が彼女の腕をつかんでいた。


 一瞬、この家の人間かとも思ったが、どうも様子がちがう。



 面相を隠すような服装、腰に帯びた剣。


 なによりユスラが嫌がっている。


 リヒトはすぐに飛び出した。



「ユスラを離せ!!」



 男の腕をねじって、無理やり手を離させると、さっとユスラをかばって背中に隠す。


 思わぬ闖入者に男がたじろいだのは一瞬だけだった。勇んでお姫様をかばっている男がまだ子どもだと気付くと、ためらいもなく剣をぬいた。



 ただの脅しか……。だがそれ以上に、この怪しい男にとってユスラ以外はどうでもいいという旨意が読み取れた。


 剣の切っ先は、まちがいなくこちらを向いている。邪魔をするなら容赦しない、声なき言葉が言う。



 気迫に負けそうになる自分を懸命に鼓舞する。怖気づいて逃げ出して、みすみすユスラを連れて行かれるようなみっともない真似はできない。


 恐怖はあったが、それ以上にユスラを守らなくてはいけないという使命感が大きかった。



 だが武器になりそうなものは、なにもない。


 背後には震える少女がひとり。


 戦い抜き、守り抜く──物語のような展開は望めそうになかった。


 できそうなことと言えば、せいぜいこの体を盾として使うことくらい。



(それでもいい)



 守らなければならない。盾として役立つならば、喜んで身を捧げよう。


 硬い決意を手で握りしめた。



 リヒトは気付かなかったが、この決心は彼がまとう気配に尋常ならざる力を与えた。不審者を射抜く鋭い眼光、闘牙をまとった拳。


 年齢に見合わない熱情に気圧され、侵入者は半歩後ずさった。



 ざり、という音を聞きつけたリヒトは、半歩だけ前に出る。戦いの経験などはない、ゆえに、決まりの構えなど知らなかったが、体は自然と低くなった。


 沈黙は長くはなかった。


 侵入者は身をひるがえし、ひと息に駆け去った。


 その背中が遠くなり、視界から消えて──。



 リヒトはようやく、長い長い息を吐き出した。



「リヒトっ」



 情けなくも膝から崩れ落ちた彼の肩に、ユスラの小さな手が触れた。


 これは勝者に対するご褒美だろうか。


 小さな幸せを噛みしめながら、生きた心地を取り戻す。



「大丈夫だよ」



 ユスラの指先の赤い筋に気付いたのは、そのときだった。



「……怪我してる」


「あ、……たぶん薔薇の棘で切ったのよ。さっき驚いたとき、慌ててて……」



 振り返った彼女の視線の先には、土の上に散らばった薔薇があった。摘んでいる最中にあの男に襲われ、落としてしまったにちがいない。


 もう少し早く来ていれば……と、苦い思いがこみ上げてくる。



「ごめん」


「リヒトが謝るようなことじゃないわ。悪いのはあいつでしょ?」


「もっと早くここに来てたら、怪我なんてさせなかった」



 だからこれは俺のせいだ。



「ばかなこと言わないで。これはわたしの責任よ。それにほら、こんな小さな傷、怪我のうちにも入らないわ」



 よく見なさいと指が突き出されるとともに、甘い薔薇の香りが匂いたった。


 白魚の指に走るひと筋の赤。蠱惑的な色に導かれるままに、リヒトはぱくり、と指先を口にふくむ。



「…っ」



 驚いたユスラが手を引こうとしたが、リヒトが許さなかった。


 細い手首をとらえて、その場にとどめ、舌先を指にからめる。



 血は、甘かった。


 ほんのわずかな一滴にもかかわらず、濃厚な味わいが欲を高めていく。


 圧倒的な香りに鼻腔を支配され、酔いがめぐった。



「リヒ、とっ……ん!」



 つ…、と指をなぞり、そっと離れる。


 理性を失くした唇は、貪欲にユスラを求め、彼女の唇を己のものとした。



 はじめはただ触れるだけ。


 桃のように柔らかな唇をなぞり。


 空気を求めて開かれた扉の隙をのがさず、奥へと進む。


 餓えた本能のままに、奥へ、奥へ……。



「何者だ!!」



 朗々と響く低い声の誰何に、リヒトは体をこわばらせた。



「シュウ! っ、だめ……!!」



 振り返ろうとしたとき、重い衝撃が頬を直撃した。


 なすすべもなく体が横へ飛び、薔薇の庭に落ちる。


 殴られたのだと悟ったのは、強い力で胸倉をつかまれた直後だった。



「だめ、やめて! シュウ、ちがうの! リヒトはわたしを守ってくれたの!」



 必死の声でユスラに庇われ、ようやく悟る。


 殴ったのは彼女を保護しているという屋敷のあるじなのだろう。



 まずい。ユスラを謎の男から守ったとはいえ、リヒトもまた不法侵入者であることに変わりはない。おまけに、いま、ユスラの唇を──。


 口の中が鉄の味でいっぱいになる。


 ユスラの感触が消えていく。


 だがあの甘露を思い出すだけで、どんな暴力にも立ち向かえた。



「いいよ、ユスラ」



 庇わなくていい。


 口許の血をぬぐい、リヒトはまっすぐ視線を上げた。



 夜を具現化したような男がいた。リヒトよりもかなり背が高く、肩幅も広い。年齢は三十歳くらいだろうか。長い髪をゆるくまとめ、険しい表情でリヒトを睥睨している。眼光だけで人が殺せそうだと思った。それだけ圧倒的な存在感が薔薇の庭を支配していた。この男に比べれば、さっきの不審者なんて子猫みたいなものだ。


 決闘しても勝ち目はなさそうだし、逃げ切れそうにもない。私刑への不安はある。



 加えて、彼女の唇を奪ったことは許されないだろう。


 だけどこの気持ちは──ユスラへの想いは。一点の曇りもなく彼女へ向かう気持ちは、リヒトの胸の中で燦然と輝く希望だった。


 だから怖くはなかった。


 希望に触れた罰があるならすべて受け入れる。


 覚悟がリヒトを支えていた。



「アントン」


「はっ」


「どこかに閉じ込めておけ」



 黒い男の後ろで初老の男性が深々と頭を下げた。


 不安げなユスラは、シュウと呼ばれた男にほとんど無理やりに連れて行かれる。


 その後姿を見ながら、リヒトはされるがままに両手を封じられた。


 摘まれ、落とされた薔薇は、そのままだった。

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